原作はインディアンの一人称で書かれていて、薬のカプセルを壁にぶつけると中から小さな機械が出てくる、あれがアタマの中に巣くって患者を操っているのだろうといった精神病者の妄想としか思えない描写があちこちに出てくるのだが、(舞台版も“チーフ”のモノローグを軸にして展開する)この映画版の脚色ではそうした描写をすっぱり切り捨てている。
木村威夫がこの映画について「狂った映像が一つも出てこない、役者はみんなうまいけれど」と評していたが、どう見ても仮病のジャック・ニコルソンをはじめ、他の患者たちも「狂っている」感じはしない。
ダニー・デヴィートやクリストファー・ロイドなど、出演当時は無名だったのだろうが、その後有名になった役者が混ざっているので「役者がやっている」のがわかるせいもある。
だから、患者たちが「自分の意思で」閉じ込められて管理されている、という設定が、良くも悪くもかなりあからさまに管理社会一般の寓意として読み取れる。
そうしてみると、患者たちが全員白人男性で、看護士(というより、刑務所の看守のイメージ)が全員黒人、さらにその上に看護婦たち(=女)がいるという、シャバでの「上下」関係が転倒している世界であることに気づく。
「歪んでいる」のではなくて、論理的に逆転している。
看護婦長がしきりとどもりの青年にその母親を引き合いに出してプレッシャーをかけるのは、当人が真綿で首を絞めるように母親的にソフトなファシズム体質の持ち主であることの現われだろう。
作られてから33年も経って見ると、ジャック・ニコルソンがかつて得意とした、体制に当たって砕けてしまうニュー・シネマ(死語?)のアンチヒーロー役としては最後のものと見え、だから長いことおあずけを食ってきたオスカーの最初の受賞につながったのかな、と思える。今では長いこと受賞できないで腐っていたとは信じられないものね。
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