岡山の金属バットで母親を殺した少年が、なぜか自転車ではるか遠くまで走り続けた実話の、その走る姿だけをひたすら積み重ねている。ただ寒々とした風景の中を走る自転車を追うだけで、不思議なくらい飽きない。
かつて同じ若松孝二監督が、連続射殺魔と呼ばれた永山則夫の辿った風景だけを人物抜きで綴った「略称連続射殺魔」(1975) の延長上にあるとも言える風景映画。
「略称」は犯罪を起こす前の永山の人生の風景を追い、こちらは犯罪を犯した後の風景を追っている。
風景の間に、高校生三人組・戦中世代の男・日本に来て過酷な労働で子供を埋めなくなった老婆が現れ、それぞれ大きく言って日本が戦争責任をどう回避してきたのか、それが国のあり方をいかに歪ませているかに対する直接的な批判となる言葉をえんえんと口にする。
セリフでもなく、独白でもなく、演説でもなく、作者の代弁というわけでもない、人物から微妙に離れた、不思議な言葉の使い方。
それが即少年犯罪を生んだというような理由付けをするわけではないが、格好付けでなく終始一貫して反国家・反権力を通してきた若松孝二にして描ける国家そのものの犯罪性と個人の犯罪との混交になっている。
シベリア抑留された一般の「日本人」に韓国人(当時は日本に併合されていたのだから)がいたことをはっきり言った映画はあまり記憶にない。
詩的とも言えず、観念的とも決め付けられない、しかしどちらでもあるあまり類のない作り。
戦争で両手足を失った兵士を世話する妻役で寺島しのぶがベルリン映画祭で女優賞を獲得した若松の新作「キャタピラー」が楽しみ。
かつての「国辱映画」の監督が、今や世界の檜舞台に立っているのだから、皮肉なもの。それでいて、えらくなって堕落するってこともないのは、ご立派。
(☆☆☆★★)