自分は修羅の道を行き、子供は被差別者であるアイヌと女郎に任せるという図式になるわけだが、あまり納得できない。
柳楽が犬みたいにくっついてきたり猿みたいに変なところから現れたりするのは明らかに「七人の侍」の三船敏郎だが(髭をかく動作は「用心棒」)、あの侍と百姓のどちらでもなくどちらでもある道化的キャラクターは侍と百姓の両方が集団として描かれているから成立しているので、アイヌの描写がとってつけたような状態でしかない状態ではなんでお道化てへらへらしているのか、意味をなさない。
官憲が押し付け的にアイヌの暮らしを破壊する描写があるけれど、北海道旧土人保護法が制定されたのは明治32年。この映画の時代設定より約20年後だ。その前の江戸時代の松前藩の支配時から弾圧はしていたわけだけれど。
弾丸が残っているかどうか、という「ダーティハリー」風のシーンがあるが、そういうお遊びが介入できる雰囲気ではない。
監督が在日コリアンというところから同じ被差別民族としてアイヌを持ち出してきたのかしれないけれど、在日にとっても日本人にとっても同様の異民族であって、特に描写上のアドバンテージがあるわけではなく、アイヌ語で通していること、アイヌを取り上げること自体の価値はあるにせよ、かなり類型的。
北海道の雄大な自然の撮影の魅力は大きい。十兵衛の家が海辺というのも雄大さを強調するためだろう。若干、あんな潮風が吹き付ける場所に畑作らなくてもいいではないかという気がしないでもない。
西部劇だと無法の地に自主独立の人間が法と秩序を打ちたてたという神話、あるいは建前があって、それが今に至るアメリカの国是になっているわけだが、それをテレビ西部劇出身マカロニ経由のイーストウッド自らのスターイメージの伝説化に伴ってぐるっと巡ってまた伝説の世界に回帰、再生するのがオリジナルの「許されざる者」だった。
それが日本だと北海道開拓をはじめとする近代化と先住民弾圧は思想=建前抜きの単なる先進帝国主義国のなぞりでしかないので神話・伝説が成立しようがなく、噂としてだけあった凄惨な皆殺しだけが現実化して物書きによって語り伝えられるべき歴史=物語として残ることになる。したがってオリジナルに輪をかけてカタルシスを欠く。
(☆☆☆★)
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