ここでのハリウッドは映画の都であるよりテレビ西部劇の製作拠点といった印象が強い。
タランティーノはもちろん映画オタクなのだが、テレビっ子でもあっただろうこともうかがわせる。というか、昔のテレビはとにかくやたらと映画をたくさん玉石混淆で見る装置でもあった。
60年代末の映画はテレビに押されて青息吐息で、そのテレビ西部劇から実際にマックイーンやイーストウッドといった映画スターも生まれてきたわけだが、ベトナム戦争を背景にしたカウンター・カルチャーの時代では先住民をばたばた殺す西部劇は作れなくなってきて先細り気味なわけだし、この後現実にイーストウッドはイタリアへ行ってマカロニウエスタンで大ヒットをとばすといった具合にハリウッドはかつてのお株を取られていく。
ひどく閑散とした西部の町のセットにヒッピー(という存在自体、ベトナム戦争ともども、もうかなりわからなくなってきているのではないか)たちが勝手に住み着いているイメージの不気味さ。もう一歩で「悪魔のいけにえ」の域にまで踏み込みそうな室内の汚らしさ。
ただ家出少女たちのたまり場という感じで、あまりカルトっぽい頭から狂気がかったイメージには近づけていない気はする。
自分は落ち目だと泣き言をいうディカプリオにクールに寄り添い、支えるというポーズを見せないまま結果支えているブラット・ピットが呆れるくらいの男前ぶりを見せるわけだが、まがりなりにもスターのディカプリオが邸宅に住んでいるのに対して、そのスタントマンのピットは狭いトレーラーに住みもっぱら犬の相手をしていて、戦争帰りだとか妻を殺したという噂がつきまとったりとどこか何か内蔵している危なさを感じさせる。
ディカプリオの邸宅から自宅に向かう時の車の異様なぶっ飛ばし方など、顔の表情には何も出していないのだが何者かが中で暴れている表現と解釈したいし、それがクライマックスで噴出する格好になる。
ディカプリオが火炎放射器を使うところといい「イングロリアス・バスターズ」で現実にはありえなかったヒトラーをブチ殺す「あってほしい」場面を描いたエピゴーネンかと思わせて一歩進める。
シャロン・テートが自分の主演作を無邪気に当然のようにタダで見る場面で、日本で小池栄子や笑福亭鶴瓶がそれぞれ自分の主演映画「接吻」「ディア・ドクター」を映画館で見るのに入場料を払おうとすると映画館側がほとんどむきになって断った(もので鶴瓶は実質サイン会をやる羽目になってかえって面倒になった)なんて話を思い出して、彼我の違いを思うとともに、シャロンが映画館の中で前の席に足を乗せているあたり、わざと実在の人物に無邪気と背中合わせのガサツな面からアプローチしているところがある。
それがいささか反発を買うレベルになってしまったのがブルース・リーの描き方ということになるだろう。
テートがポランスキーのためにトーマス・ハーディの「テス」を買うのはもちろんフィクションだが、のちに「テス」を映画化するところを頭に置くと信じたくなるお話。
実は「テス」を撮った当時のインタビューでポランスキーは自分を見舞ったさまざまな凄惨な出来事に嫌気がさしてとにかくロマンティックな作品を撮ろうとしたと語っていたりする。その後、改めて法定強姦罪に問われることになってしまうのだから、つくづく業が深い。
作中に出てくる飛行機が今は存在しないパンナムというのが芸が細かい。劇中の設定のちょっと前に作られた「2001年宇宙の旅」にもパンナムが出てきた。