原題はHostiles =「敵の、敵国の、敵意のある」
護送する軍人クリスチャン・ベールと護送される先住民の囚人ウェス・スチューディと白人の囚人ベン・フォスターが殺す側、殺される側という違いこそあれそれぞれウンデッド・ニーの虐殺の生き残りという設定がちらっとセリフで語られる。
「ラスト・サムライ」の冒頭でもちらっと描かれてオールグレン大尉 (トム・クルーズ)が酒に溺れる原因になっていた、この話の2年前の1890年に起きたアメリカ第七騎兵隊によるスー族の女子供病人老人を含む虐殺で、さらにカスター将軍の名前もセリフで出てくるが、その虐殺を行ったのがスー族とシャイアン族(とアラパホー族)の連合軍が壊滅させたカスター将軍下の騎兵隊の残党を含むという関係でもある。
背景として政治的な正しさや贖罪感といった要素を安易に入れ込む状況ではなく、映画は実際複雑な敵対関係を厳しく保ち続ける。
その中で主人公はよかれと思う選択をする余裕もないまま一定の選択をさぜるを得ず、そしてそのたびに死ななくていい無垢な人間が死んでいく。厳しい内容とタッチに粛然とする。
ウェス・ステューディの役はシャイアン族(スー族ではないので虐殺を辛うじて免れたということか、虐殺はシャイアン・クリークで行われた)で、ロザリンド・パイクの家族を殺したのはコマンチという違いがあるのを解説で知る。
なお、ステューディ自身はチェロキーで、「ジェロニモ」のジェロニモ役をつとめているが、ジェロニモはアパッチ族。
字幕で「インディアン」と出る場合と「先住民」と出るのと分けているが、どういう基準で訳し分けているのか再見する機会があったら確かめてみよう。なお、「酋長」という言葉は使わず「首長」で統一してある。
本当をいうとインディアンを言おうと先住民と言おうと、雑駁に一括りにすること自体が間違いで、部族によって言葉も風俗習慣も違うのできちんと区別するよう先住民たちに要求されているという。
日本人の高柳雅暢が撮影監督をつとめるのも話題。全体にカメラが前に出る撮り方はしていない分終盤の夕景がアクセントになる。
豪華キャストでティモシー・シャラメやスティーブン・ラングなどはあまり目立たないが、終盤を締めくくる憎まれ役スコット・ウィルソンが短い出番ながら遺作になった。