太宰伝「桜桃とキリスト」の著者でもある作家で映画評論家の長部日出雄が桜桃忌(太宰の命日)に集まった熱烈なファンたちが太宰がわかるのは自分だけだ、他の連中に何がわかるという顔であたりを睥睨していると聞いて、その情景が目に見えるような気がして吹き出した”と書いていて、実際自分も偏見か知らないが太宰というと熱烈なファンが取り囲んでいちげんさんお断りという雰囲気を醸し出している気がして、教科書に載っているような有名作を一通り読んでからあまりちゃんと読んだことはなかったのだが、浅野忠信主演、田中陽造脚本、根岸吉太郎監督の「ヴィヨンの妻」(これは太宰の複数の作品の要素を巧みに組み合わせている)を見たのをきっかけに読み直してみたら、なんだ普通におもしろいじゃないと思った。
長部氏の分析をさらに続けると太宰に熱心なファンがつきやすいのは、太宰が小説というフィクションを通して「演じている」「道化としての」自分を表現しているだけにかえって読者が自分にだけ向かって書かれていると自己投影しやすい、というのが原因ではないかとある。
実際、日本のいわゆる私小説(太宰は私小説などと断ってはいないと思うが、しばしばそうとられるし、この映画もその観点に立脚して作られている)にはフィクション、創作部分が相当に入っているのだが、で、この映画では太宰その人を主人公に据え、フィクションのフィルターを通す手順を飛ばしたものだから、とにかく三人の女に手を出してはおよそはっきりけじめをつけず甘え切っているクズっぷりがもうあまりにストレートで、ほとんど見ていていたたまれないような気分になる。
三人の女たちがそれぞれ見ている自分なりの(だから自分にとっては貴重な)太宰像の違いというのが出ていないから芯のクズぶりだけがむき出しになった感で、ちょっと見ていて引く。
蜷川実花の演出は例によって原色を多用した人工性の高い画作りをしていて、白い花が降ってきたり、家がひとりでにすうっと解体していくなど、舞台演出的な技法をCG交じりで使っていて、祭りに合わせてどどんと太鼓が鳴ると画面が真っ赤になるところなど「サスペリア」かと思うくらいだが、父親の蜷川幸雄が使いそうな技法と見た方が本当だろう。
正直、こういう技法は映画でやっても舞台ほどには決まらない。
蜷川幸雄が映画の演出、特に古典では成功せず、「青の炎」が二宮和也と松浦亜弥という若い主演者、さらにアル中親父に山本寛斎という意表をついたキャスティングを生かして普通にリアルな調子でやっていたのが一番良かったのを思い出した。
日本ではヴィスコンティやベルイマンみたいに舞台演出と映画の演出の両方で一流という人はなぜいないのだろうとある演劇関係者が言っていたが同感で(むしろ演劇人はテレビでは成功することが多い)