中学のいじめ、切り絵作家の妻と美術教師の夫、厚生労働省の若手官僚の一見関係ない三つのエピソードが交錯しながら描かれる。
それがどうつながってくるのか、という趣向が工夫をこらしているのだけれど、ひねっているところと丁寧過ぎるのとが混ざって、全体とするとどうも間延びする。
作りすぎに思えるところも散見する。
時制が交錯させて、自殺を結論あるいは発端に置かずに、一種前向きな時点を映画の終わりに置いていうのは工夫。
ただでさえ陰々滅々になりがちなモチーフを、ポジティブな場面を終盤に置いてある程度作品自体は前を向こうとして描こうとしてはいる。
いじめられて自殺した子の遺族に許しを乞うというのは、遺族側にしてみればただでさえ重すぎるもところにさらに荷物を背負わせるみたいな話で、感心しない。
ないものねだり承知で言うけれど、いじめる側の問題解決ってないのかと思うぞ。感情論になるが、いじめの描写というのはフィクションであっても不快だし、悪くて対応が必要なのは加害者側だろう。
それがどうつながってくるのか、という趣向が工夫をこらしているのだけれど、ひねっているところと丁寧過ぎるのとが混ざって、全体とするとどうも間延びする。
作りすぎに思えるところも散見する。
時制が交錯させて、自殺を結論あるいは発端に置かずに、一種前向きな時点を映画の終わりに置いていうのは工夫。
ただでさえ陰々滅々になりがちなモチーフを、ポジティブな場面を終盤に置いてある程度作品自体は前を向こうとして描こうとしてはいる。
いじめられて自殺した子の遺族に許しを乞うというのは、遺族側にしてみればただでさえ重すぎるもところにさらに荷物を背負わせるみたいな話で、感心しない。
ないものねだり承知で言うけれど、いじめる側の問題解決ってないのかと思うぞ。感情論になるが、いじめの描写というのはフィクションであっても不快だし、悪くて対応が必要なのは加害者側だろう。
元になった萩原慎一郎の歌集というのは読んだことはないけれど、やはり最果タヒの歌集原作の「夜空は最高密度の青色だ」の映画化と非正規労働や貧困といったモチーフがかぶった感じで、詩というものが文学の中でも「カネにならない」ものだからというのと無関係ではない気がする。
詩そのものを導入しないでストーリー=ドラマ映画にするという選択肢は唯一のものかとも思う。寺山修司の「田園に死す」とかタルコフスキーの「鏡」、最近のビー・ガンの「凱里ブルース」みたいな先例もあるし。