アンネ・フランク博物館に展示してあるオリジナルの日記から文字が抜け出てアンネそっくりだが髪と目の色が違うキャラクターになる。
アンネは日記を人に呼び掛けるようにして書いたわけだが、そのアンネの分身であるイマジナリーフレンドのキティということになる。
そのキティがアンネが隠れ家を出た後のことは知らないという設定は、日記が途切れた後なのだから不思議はないが、意表をつかれる感じ。
普通だったら殺されているわけがないのだから。
ナチスがお馴染みのデザインではなく、「Vフォーベンデッタ」のように様式化された全体主義のイメージになっていて、それに向かうイメージとしての戦士たちが映画の中のクラーク·ゲーブルだったりまことに多彩というのが画一性と多様性というコントラストになる。
図書館には日本語のアンネの日記もある。不思議でないけれど。
図書館には日本語のアンネの日記もある。不思議でないけれど。
セリフは英語で、それもひどく聞き取りやすいニュートラルな英語。
世界性みたいなのに合わせようとするとそうなるのだろうが、非英語圏の人間からすると、ちょっと釈然としない。
なお、アンネではなく、明らかにアンと発音している。
現代の難民問題とナチスの排外主義との結びつきは割りと自然にいっている。残念ながらと言うべきだろうが。