派遣アニメ=派遣社員がアニメ業界のブラック労働に翻弄される話かと思ったら、覇権アニメ=視聴率トップをとって業界に覇を唱える方だったのね。
もっとも、前者の意味がないかというとそうでもなく、相当ムチャな労働をやっている。
労働が深夜に及ぶので尾野真千子のプロデューサーが制作進行していた頃と同じように自らお握りを作って差し入れる(と、進行がなんとか間に合うという名誉なんだか何だかわからない伝説つき)わけだが、ということは過重労働がかなり長いこと続いているわけだ。
神作画と呼ばれる人にやたらと仕事が集中して、結局なんだかんだ言いながら引き受けてしまうあたり、あるあるだけれど、いいのそれ、という視点は特にない。
アニメ業界にしては常識なのかもしれないけれど、今現実ではいろいろ問題になっていることも確か。ないものねだりではありますが。
吉岡里帆の子供時代をやっている子役がそっくりなのは笑ってしまう。
余談だけれど、「愛と追憶の日々」のデブラ・ウィンガーの顔のアップから引くと体が子供(別人の子役)なので仰天したことがある。
見ている間は普通に楽しめていたのだけれど、後で考えてみると?となるところはある。
メインスタッフで吉岡をあからさまに女だからダメだという言い方でこき下ろしていたのに対して吉岡が後で言い返すくだりのロジックがズレてないか。
スタッフのキャラクターがキャスティング含めて一癖も二癖もあるのが面白く描けている一方で微妙にブレているのが散見する。
それらのスタッフにそれぞれの癖に応じて指示が出せるようになるのに監督としての成長を見せるのがよく描けている。
作中のふたつのアニメにそれぞれ別班をふたつ立てて本格的もいいところの作画・演出で作っているのは贅沢。
もっとも作中アニメの設定とか展開は、映画全体の原作者でもある辻村深月 が書いているわけだが、今のアニメのごく一部しか見ていない身としては、なんだかわかってようでわからない。音の記憶がなんでロボットと関係あるのか、素朴に疑問。
タブレットなどデジタル機材を使うのと紙と鉛筆のアナログなやり方とが混在している。
天才などと持て囃されていてもやることは机にしがみついて描くしかない、というのは本当にそうだと思う。
吉岡の新人監督が変に謙遜しないで、近所の子供に自分の作品を面白いから見て、というのはそうでなくちゃねと思わせる。
これも作り手は承知の上だろうけれど、最終回の脚本を全面改訂するのにどちらも脚本家との折衝はなし。出崎統(ちらっと「あしたのジョー」の小ネタが出てくる)など、脚本家としょっちゅう大喧嘩していたらしい。下手な情景描写などやってないで、気の利いた詩でも書いてこい、そうしたら映像にしてみせると豪語していたとか。
基本になっている、子供の時の自分を救ってくれたようなアニメを作りたいというのに共感しながら(刺さる人も多いらしい)微妙に違和感もある。
それだと、今が実際そうなっているように昔の作品の再生産に、資本主義の論理からしても陥りはしないか。
スポンサーやテレビ局が突き付けてくる大人の事情と闘いながら、自分の核となる部分は守るという点で、新人監督も天才という定評をすでに得た監督も変わりはなく、視聴率で競い合いながら(それ自体をアニメで見せるセンス、よし)クライマックスで両者の作品がほとんど一体化する流れははっきりしている。