prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

11月22日のつぶやき

2019年11月23日 | Weblog

「地獄少女」

2019年11月22日 | 映画
もとになったアニメは横目で見ていた程度だけれど、絵柄や色など接近させているし(その分、画の厚みは薄れた)、玉城ティナが雰囲気出してます。しかし人物の背後にすうっとピンボケで立っていて振り向くと消えているという出方を繰り返し過ぎ。

地獄そのものの描写が幻想シーンで処理しているのは「永遠」の苦しみを映像化することはできないからだろうが、描写自体もおどろおどろしさはそれほどなく、いささか淡白。
地獄に落とされるシーンが手を変え品を変えて描かれるわけだけれど、もう少しエグい復讐の仕方をしてくれないと正直物足りない。
さまざまな恨みつらみ話が出てくるが、羅列ではなく映画の進行につれ全体的に構成されてくるのはいい。

風祭ゆきが「リング」みたいにぽかっと口を開けて死んでいたり、「帝都大戦」みたいに人の身体だけが虫みたいになったりと、どこかで見たようなシーンが多いのもマイナス。
麿赤児が暗黒舞踏っぽい動きを見せるのが地獄っぽかった。

しかし作品の内容とは関係ないが、呪いを頼む地獄通信のサイトを呼び出すには午前0時きっかりにアクセスしなくてはいけないので時報を聞きながら待つのだけれど、最近時報ってほとんど聞かないな、と思った。
時計はたいてい電波で時刻を合わせるし、テレビはデジタル化と共にデータの圧縮=解凍する処理の時間がかかるため時報というものがなくなってしまった。
もとのアニメが最初に登場したのは2005年だから事情がいくらか違ったのだろうか。




11月21日のつぶやき

2019年11月22日 | Weblog

「ひとよ」

2019年11月21日 | 映画
田中裕子の役が人を殺した割に子供たちに迷惑をかけるのをすまながってはいるものの、殺した夫にはまったくといいくらい後悔も罪悪感も持っていない、殺していい奴を殺したみたいな感じなのはちょっと驚いた。
それは子供たちもそれほど変わらない。ヒドい親父だったのはやや後付けの説明的なDVとして画にして描かれるが、暗示にとどめた方が良くなかったか。元の芝居はどうだったのか。

凄惨などろどろ劇になりそうで意外と爽やかとまではいかないがやりきれない感じはよくも悪くも意外と薄い。「世間」の圧力に対してはこの家族は同調していないからかもしれない。ライターとして母親の件を二流週刊誌のネタにする佐藤健にしても、週刊誌的な視点で母親を責めるのとは違っている。

佐々木蔵之介の酒の遠ざけ方が不自然だと思ったら、果たせるかなアルコール依存症。

役者たちがそれぞれ脇役に至るまで芝居をみっちり見せ場をものにしているのは良い。
原作は舞台劇だったらしいけれど、タクシー会社という設定を生かして運転中のシーンなどに完全に映画的に広げている。
時々、過去の場面に現在の人物が入り込んで眺めているといった「野いちご」あたりから使われる演劇を映画に溶かしこんだ技法を使っている。

暗い場面で画面がざらっと荒れた感じになるのだが、フィルム撮りなのかそういう効果をデジタルで出したのか。

エロ雑誌のデラべっぴんが実名で登場するのはちょっと驚いた。あれはいったん2004年に休刊した後、デラべっぴんRとして再開したらしいが、そのあたりははっきりしない。




11月20日のつぶやき

2019年11月21日 | Weblog

「永遠の門 ゴッホの見た未来」

2019年11月20日 | 映画
冒頭、田舎道を羊を連れて歩く女性にいきなりモデルになってくれと頼むところがゴッホの一人称カメラで描かれる、そこのセリフはフランス語で、それに続く弟テオとの会話まではフランス語なのだが、その後のセリフは英語になる。

「夢」でマーティン・スコセッシが扮したゴッホ登場シーンもフランス語から英語にするっと代わっていたけれど、本当はフランス語を喋っているのだけれど演じるのが英語圏の人だから、あるいは一番マーケットが広い言語だからというので英語にしますといった映画の裏がほの見えて毎度のことながらどうも鼻白む。

構成的にいうと冒頭のシーンがずっと後で再登場して、その後が結構長いのが物理的に時間以上に長く感じてしまう。

「潜水服は蝶の夢を見る」の監督らしく、全編、手持ちカメラで意識的に視角を狭くして撮っている。
ストーリー映画あるいはドラマ仕立てにすることを外した作りで、画面の下をぼやかしたりして、一種デフォルメした映像で通しているのだが、それがゴッホの主観に接近したかというと、どうも疑問。

いきなりマッツ・ミケルセンが神父役で出てきたのにびっくり。ワンシーンだけの出演だが、ここでのキリストが生前はまったく無名だったというゴッホの元神学生としての真情も併せて自分とその作品が死後どう評価されるかを吐露するやりとりは見応えあり。

作中のゴッホの画は監督のジュリアン・シュナーベルとゴッホ役のデフォー自身、あともう一人で担当している。





11月19日のつぶやき

2019年11月20日 | Weblog

「アイリッシュマン」

2019年11月19日 | 映画
Netfrix製作でネット配信前に限定劇場公開されたのに行ってきました。シネリーブル池袋で一週間限定公開。

もう少し余裕をもって上映できないものかと思うが、3時間半というスコセッシ作品でも最長で、劇場としてみると最大でも一日二回しか回らないのだから敬遠されたのもわからないではない。

「ROMA」もだけれど、画と音のクオリティーでは劇場向けではあるけれど、家庭用再生装置も最近ではずいぶん向上していて、実際「ROMA」をホームシアターで相対した時、特に音が耳元で聞こえるような近しさは劇場とは別の美質を持っていた。
なかなかどちらが良いか、内容にふさわしいといえるかは一概には言えないが、ともかく劇場で見られる時に見ておくことにした。

アル・パチーノ扮するジミー・ホッファはこれまで仮名にしてシルベスター・スタローン主演、ノーマン・ジュイソン監督の「F・I・S・T」、ジャック・ニコルソン主演、ダニー・デヴィート監督助演の「ホッファ」といった映画に取り上げられていたが、それらではマフィアとのいざこざで消された(文字通り完全に姿を消して死体も出ていない)という解釈だったが、今回はかなり違う。

ホッファのとんでもないワガママ、押しとアクの強さをパチーノがまた脂っこく演じ、それに辟易しながら離れられない部下フランク(デニーロ)との関係は、スコセッシ初期の「ミーン・ストリート」から連綿と続いている。

スコセッシとすると得意の激しい移動撮影やめぐるましい編集といった技は前作「沈黙 SILENCE」に続いて抑えぎみで、一体どの時点の姿が俳優たちの今の姿に一番近いのかわからない物理的なメイクアップとデジタルメイクの併用を駆使して、しかし全体としては老いた目から若い時を振り返る格好になっていて、暴力描写も簡潔になっている。全体にずいぶん淡白になった印象は否めない。

時制の交錯ぶりと全体としての老いからの回顧的な肌触りは「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」風でもあり(そういえばこれのトリート・ウィリアムスもホッファをモデルにしていた)、長い時間にわたる人物の変化を描き出すのはデニーロの十八番ともいえる。

実際、「1900年」から「ワンス…」「告白」など何度も老け役をやっていてその度に老け方が違うので、本当に老けたらどういう風になるのだうと思っていたのだが、現在75歳になってもよくわからない。

ホッファを描くと、敵であるロバート・ケネディ司法長官とその兄JFK、献金していたその政敵ニクソンといった60年代アメリカの現代史を裏から描くことにもなる。
ホッファがしきりとイタリア系を侮辱する発言を繰り返すので何系なのかと思ったらドイツ系らしい。

デニーロの娘役が誰かと思ったらアンナ・パキン。「Xメン」を飛び越えていきなり「ピアノ・レッスン」の幼い顔と結びついてしまう。徹底的に父親の稼業を嫌うという逆に珍しい役どころ。

80年代のシーンに出てくるテレビはSONY製。そういえばこの時代は日本製家電が世界を席巻していたのだったな。




11月18日のつぶやき

2019年11月19日 | Weblog

「空の青さを知る人よ」

2019年11月18日 | 映画
同じ人間で、プロのミュージシャンになる夢を持つ高校生の時と、実際にプロになったが演歌歌手のバックでくすぶっている30歳になった時との両方が同時に存在している、という設定は夢と現実との衝突というハードなテーマに発展しそうだが、直接二人?が顔を合わせるのはほとんど終盤で、ほとんど彼と両想いになりかけたまま宙ぶらりんになっている女性の、そのまた妹の目を通して描かれる。

昔の恋が再燃するのとを直接描くのではなく、いつも平静でいたように見えた姉が実際にはさまざまな葛藤や努力を経てきたこと妹がわかる描写で挟み込むようにして描いているのが考えてみるとまわりくどいのだが、そういうまわりくどいドラマ作りがあるいは日本の、特に地方を舞台にするとふさわしいのかもしれない。

スマホにヒビが入りっぱなしになっているところでヒロインが精神的にささくれだっていること(いつも不機嫌でいる)やおそらく経済的に厳しいのがわかるのが細かい。
急いで靴をつっかけて飛び出してからとんとん地面で叩いて履き直す動きのつけ方などさりげないが凄く緻密。
基本的にリアリズム路線かと思っていたらクライマックスで「天気の子」か「となりのトトロ」かという文字通り飛躍したアクションが爆発する。
こういうエネルギーはなかなか実写の日本映画は獲得できない。

舞台が秩父とはっきり指定され、エンドタイトルでも秩父の様々な機関が協力したことがわかる。

今ではアニメであっても、というかアニメこそロケ地巡礼の観光資源になるのを狙っているらしい。

男やもめの市役所員がストロング系のチューハイを何本も空けている段階で相当に危険、というかあのままだとアル中まっしぐらです。





11月17日のつぶやき

2019年11月18日 | Weblog

「IT イット THE END “それ”が見えたら、終わり。」

2019年11月17日 | 映画
原作ではITが住むのは下水道でクライマックスでは大洪水が舞台になるデリーの街を襲うという具合にITと水は深い関わりを持つ。
ITは水のようにどんな形にもなることができ、相対する人間の恐れる者の形をとる、ちょっとソラリスの海を思わせる存在なわけだが、この映画化では水という表象は後退した代わりに自由自在にあらゆる恐怖の形象をとってみせて怖いもののてんこ盛り状態になっているのが見ごたえ十分。
ちょこちょこ既成のホラーアイテムが顔を覗かせるのを見つけるのもビデオを見返すお楽しみになるだろう。

大河小説でもないのに主要キャラクターが六人となると一人づつ描きこんでいくと自然と尺をとるらしい。




11月16日のつぶやき

2019年11月17日 | Weblog

「グレタ GRETA」

2019年11月16日 | 映画
部分的に現実かと思うと幻想、幻想かと思うと現実といった描き方をしていて、同じことが繰り返される構造になっているので、ラストの後もこれで本当に終わったのだろうかという不安定な気分が残る。

監督のニール・ジョーダンが二作目「狼の血族」で赤ずきんちゃんの世界を悪夢と現実とを交錯させていた手法を思わせ、故郷アイルランドの会社が製作に参加しているから、元の体質が蘇ったかとちょっと思った。

イザベル・ユペールありきの映画には違いないけれど、ちょっとわかりやすすぎる気はした。




11月15日のつぶやき

2019年11月16日 | Weblog