prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「閉鎖病棟 それぞれの朝」

2019年11月15日 | 映画
死刑を執行したが死なないで生き延びたらどうなるか、というのは必ずしも法的に決められているのではないようで、大島渚の「絞死刑」のように死刑囚が記憶をなくしてなぜ死刑になるのか、官吏たちが説得しようとするという観念劇もあった。
ここでは生死や正常と異常の隔たりを跨ぐある種の超越的な存在にさりげなくなっていて、だから鶴瓶の持っている一種の境界に立つ感じを狙ったキャスティングということになるだろう。

ここでの精神病院がどの程度正確に描かれているのか知らないが、危険だから隔離しているのではなく、綾野剛にせよ小松菜奈にせよ自分の意思で入院している、出ていこうと思えば出ていけることになっていて、裏を返すと閉じ籠るに至る原因を向き合い出ていこうという決心をするドラマとなっていて、そのきっかけあるいは触媒を鶴瓶が果たす。

車椅子に乗った人間がどうやって健常者を相手に格闘できるのか、平山秀幸監督とすると、「OUT」で西田尚実が大の男を殺すところで男が力を出せないと納得させる体勢をとらせたのに通じる演出を見せる。

帚木蓬生の原作はかなり前に読んでいたので見ながら内容を思い出すような調子だったが、もっと生々しく凄惨な感じだったと思う。「逃亡」ドラマ化しないかな。憲兵が敗戦とともに追われる側になるドラマ。




11月14日のつぶやき

2019年11月15日 | Weblog
あのド深刻な「冬の光」のオフショット。

「ターミネーター ニュー・フェイト」

2019年11月14日 | 映画
予告編ではブロンドのやたら背が高い(178cm)ショートヘアで筋肉質の男と間違えそうな女が暴れているので、3に出てきたような女性型ターミネーターかと思ったら1のカイル・リースにあたる役でした。

演じるはマッケンジー・デイビスという名前も男みたいな女優さん、これまで「オデッセイ」では火星に取り残されたマット・デイモンが生存していることに気づくエンジニア役、「ブレードランナー2049」では娼婦役を演じている。
男みたいといってもよく見ると顔立ちは美形であることがわかってきて、長身と長い手足を生かしたアクションシーンと共に大いに点数を稼ぐ。

そして今回、1のサラ・コナーの二代目というべき守られる役の女性(ナタリア・レイエス)が実は世界を救う男を産むというより自身が救うのであって、つまり「産む性」「守られる性」だった女性ががサラ・コナー同様に戦う、価値のある人間を産む性であるより自身が価値を持つ性であることがわかってくる。
このあたりがやたら強い女性を描くジェームズ・キャメロンが製作に復帰した影響かもしれないし、この数十年のフェミニズムの反映かもしれない。

液体金属が常に一体とは限らず、ときどき二体に分かれる趣向はいざ見せられるとそういう手があったかと思わせる。

シュワルツェネッガーの出番は全部若い時の姿にCG処理することもできただろうが、あえて無理しないでスターとしての年輪を見せる方を選んだみたい。

追う側追われる側ともにメキシコ系というのは、将来メキシコ系が大きな影響力を持つという暗示だろうか。




11月13日のつぶやき

2019年11月14日 | Weblog

「残された者 北の極地」

2019年11月13日 | 映画
原題はArctic(北極の,北極地方の,極寒の,厳寒の)。そのまんまの内容で、撮影はアイスランドで行われた。

全編、マッツ・ミケルセンのひとり芝居。
エンドタイトルに出るキャストは三人だけ、ひとりは出てきたらすでに死んでいるヘリコプターパイロット、もうひとりは生き残っている役名「若い女性」でほとんど瀕死の状態でセリフらしいセリフもない。
というか、ミケルセンにも言葉をやりとりできる相手はいないのだからセリフらしいセリフはない。
ほとんどサイレント映画的といっていいくらい徹底して画と音だけで雪原でのサバイバルを描ききる。
この画と音、それからミケルセンの寒さの中でほとんどドキュメントと化した演技が見もの。

ミケルセン演じる雪原に不時着した飛行機の乗員がその場にとどまり救助を待っていたのを、同じように遭難した生き残りの女性を助けるため雪原を女性を乗せた橇で踏破しようとする。

その前に立ちふさがる数々の障害をひとつひとつあるいは克服しあるいは迂回して越えていく、その丹念で克明な描写の中で、百円ライターで火を起こし加熱した食べ物、たとえばカップ麺ひとつを口にするたび、雪原を一足進むたびにに命を実感させていく。

よく見るとメリハリをつけるのに細かい演出をこらしているのだが、全編見も知らぬ女性を乗せた橇を引いて単調な雪原を一歩一歩進んでいく姿に他の人間がいて初めて生き抜く力を得るのではないかというシンプルなテーマをそのまま画にしている。

監督のジョー・ペナはブラジルのサンパウロ生まれ、YouTuber出身で長編劇映画はこれが初めて、大ロケーションといい地味といえば地味な素材と技法といい、製作陣の大胆さに舌を巻く。




11月12日のつぶやき

2019年11月13日 | Weblog

「ガリーボーイ」

2019年11月12日 | 映画
絶叫上映で見たのだが、ノリながら「バーフバリ」みたいな大騒ぎにはならない。
基本リアリズムで歌舞伎みたいに大向うから声がかかるような間をあらかじめ作っておくような作りではないからだが、クライマックスのラップ大会のシーンは大いに盛り上がった。

白人たちがインドのスラムにステレオタイプなイメージを持って「観光」にやつて来るというのもずいぶんふざけた話だが、主人公がラップを知っているのを驚きながら見てみぬふりをしてスルーするのがまた腹立たしい。

怒りがラップの原動力になっているのは確かで、抑圧してくる外的な要因、極端な家父長制、身分制度の固定化などに怒りが向くだけでなく、それらに圧倒されて凝り固まり声が出せなくなっている自分と戦い、文字通り声を上げる瞬間がカタルシスになる。

恋人が医学部に進めるかもという一見恵まれた境遇のようで同じように親から見合いを強要されるといった具合に抑圧を受けていて、しかし二人でいると抑圧の暗さや鬱屈は自然と薄れる。

インド映画というとキスシーン御法度だと長らく聞いていたが、さすがにいまどき堂々とキスしているのを見せる。なんて言ったら今頃何を言ってるのかと言われるかもしれないが。

いとうせいこう監修による字幕はずいぶん苦心して日本語でも韻を踏むようにしているが、あまりそれを読み取ろうとすると画面が疎かになる。痛し痒しといったところ。




11月11日のつぶやき

2019年11月12日 | Weblog

「ロボット2.0」

2019年11月11日 | 映画
冒頭から鳥の大群が舞い飛び、すぐ町中の大量のスマホが突如空を飛ぶスペクタクルが来る。
とにかく前作にも勝るあらゆる奇想の飛躍ぶりに驚嘆し、それを具体的な画をしてみせる資本力技術力に圧倒される。
そして鳥とスマホがどう繋がるのかという展開がまた意表をつく。

当年68歳のラジニカーントがせいぜい50歳くらいの艶々した顔で、全編をデジタルメイクで通すだけでもどれほどの手間暇とお金がかかったか、さらに二役三役をこなすのだから正直先日のジェミニマンもいささか顔色なしとしない。

サッカー競技場での戦いは怪獣もの(プロレス含む)の匂いがぷんぷん。こういう堂々たる荒唐無稽を大スケールでやってもらうと楽しくなる。

それにしても、最初に空を飛ぶスマホが当たり前のようにサムソン製。




11月10日のつぶやき

2019年11月11日 | Weblog

「最初の晩餐」

2019年11月10日 | 映画
永瀬正敏の父親が亡くなった通夜の席で普通なら仕出しの寿司か何かが出るところを斉藤由貴の母親が目玉焼きを焼いて持ってくる、という掴みは秀逸。
さらにそれがただの目玉焼きではなくシート型のチーズをハムエッグのハム代わりに一緒に焼いたものというのが珍しく、帰ったら真似して作ってみようかと思ったくらい。

その後、戸田恵梨香と染谷将太の兄弟、窪塚洋介の義理の兄との関係が食事絡みで描いていくという構想なのだが、この一家がどういう風に成り立っていったのかという本来基本的な設定をいささか謎めかして後回しに描いたのは疑問。

早い話、誰がどっちの子なのか見ていてはっきりしない。たぶんそうだろうと推測しながら見ることになるのだが、各シーンで基本の設定がキャラクターのリアクションに具体的にあまり描かれておらず、分け隔てなく育てられたということなのかもしれないが、それ以前の描き分けが不十分で、説明を排するのはいいが基本が呑み込みにくいのは困ります。

食をモチーフにして生と死と家族を描くという構想はいいのだけれど、構想を作品の構造、ストラクチャーにまで落とし込む作業が不十分で構想倒れとまでいかなくても、物足りなさが残る。

フィルムカメラを時代の変化を表すのに使ったのはいい工夫。デジタルだと記念写真もその場で確認できるようになったのだなと改めて思う。




11月9日のつぶやき

2019年11月10日 | Weblog

「ジェミニマン」

2019年11月09日 | 映画
同じ俳優の現在の年齢と何十年か若い時の姿を共演させた例とするとジェフ・ブリッジス主演の「トロン・レガシー」がすでに10年近く前の2010年に作られているので、技術的な驚きは薄い。

ウィル・スミスを仮に知らない人間が見たら若い俳優をメイクで老けさせても絵面としてはほとんど見分けがつかないだろう。
若い方のスミスが実はフルCGだという事前の情報込みで驚くということになる。というか、あまりに当たり前にできすぎていちいち驚かなくなる。CG(と情報社会化)の宿命みたいなものだ。

映像全体がすこぶるクリアで、夜のヨットハーバーのシーンで影がはっきり足元に落ちているので疑似夜景かと思うと向こう岸入れ込みのカットでは対岸の灯りがはっきり暗がりに浮き立って見える。
同じ場所で別の時刻に撮ったカットを単に組み合わせたのかもしれないが、そういうありふれた技法すらバカに目立つくらいクリアさを全体に強調している。

見たのは2D版で3Dでフレーム数が多いは値段が高いのでパスした。それでもこの調子。いずれにしてもベストのスペックで見られるのは世界でも数少なく、日本でも毎秒120フレームに対応しているのは三つの映画館だけらしい。
ずいぶん前にダグラス・トランブルが秒数あたりのフレーム数を増やす特殊な上映技術を開発したが普及しなかった。フィルム時代の話だから仕方ないが、デジタル化が進む現在では今後どうなるか。

スミスとそのクローンに加え、もう一つ育ての親のクライブ・オーウェンとの疑似的な父親と息子の関係がふたつだぶっているのだが、それらをどう対比して位置づけて考えればいいのかかなり曖昧。

製造を目指している最強の兵士というのはどんなものなのか、DNAだけが問題なのか、訓練は関係ないのか、苦痛や感情を持たないの人間はとるべき行動を本当に適格に判断できるのか、だったらAIにやらせた方が早くないか、とかいろいろ疑問が出てきてどうも困る。





11月8日のつぶやき

2019年11月09日 | Weblog

「楽園」

2019年11月08日 | 映画
大きく三つのパートに分かれた三部構成だが、絶えず時制が微妙に交錯してそれが単純な説明的なフラッシュバックではなく、ラストの二人の小さな女の子が田んぼ道を歩いていく光景が惨劇の前のものであるにも関わらず、全体の文脈中の位置づけとしては作中のセリフでいうところの"楽園"の図になっているといった具合に映画的に再構成されている。

佐藤浩市が土を食べるところで、父の三國連太郎がやはり土を食べた「襤褸の旗」の姿がだぶる。
三國は田中正造役として国の方針として廃村にされようとしている川島村を、川島村はここにあると半ば狂ったように官吏の前でその土を食べてみせるのだが、立場や時代こそ違え狂的な表現の仕方は血は争えない。

それにしても、日本の限界集落化が著しい地方の自治体が当たり前のように描かれるようになって久しい。
日本映画は直接的に政治や歴史を描くことはあまりないにせよ、日本の政治の歪みやそこに至るまでの歴史的経緯はおのずと背後に見えてくる。