prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「死闘の伝説」

2020年12月15日 | 映画
1963年製作。
木下恵介監督とすると「香華」の一本前、つまり松竹在籍中ほぼ最後の作品。

1945年夏とタイトルが出るので、戦争が終わる頃だとはわかるが、その前なのか後なのかは必ずしもはっきりしない。
木下は念願だった「戦場の固き約束」の準備中で、戦争が終わったことですべて済んだように見えるのを避けたかったのではないかと思える。

菅原文太は1961年に倒産した新東宝から移ってきて67年に東映に行くまで松竹にいたのだが、ここでは村の有力者の息子でヒロイン岩下志麻に目をつける戦争犯罪者という仇役で登場、のちの「人斬り与太」シリーズのようなワルぶりを見せる。
木下は新東宝で文太と一緒にハンサム・タワーの1人として売り出された吉田輝雄も「今年の恋」で使っている。新人・新顔をまず使ってみる役割を担当していた感。

文太の中国での蛮行を鋭い横移動撮影と省略法で暗示的ながらはっきり描くフラッシュバックは、「固き約束」の一種の予行演習のようなつもりもあったか。
残念ながら映画化は実現しなかったが。

ここがあるので、文太が目をつけた岩下志麻を長い一本道でいったんすれ違った後引き返して追ってくるサスペンスが効いてくる。
雷鳴の使い方、豪雨の効果なども秀逸。

おしなべて横移動の使い方、カッティングの適切さなど、これだけ名人芸的に上手い演出というのがあったのだなと思わせる。

北海道を舞台にしていることもあって、広大な土地を馬が闊歩し、ライフルを撃ち合う風景はまるで西部劇。
先住民と後から来たよそものとの対立というのは、実は西部劇でも「シェーン」「天国の門」などで扱っていたが、日本の旧弊な体質は北海道という開拓地でも変わっておらず、さらに戦争による歪みが大幅に影響して、昔の西部劇的な勧善懲悪の爽快さはおよそない。
加藤剛・岩下志麻の絵に描いたような美男美女カップルがあまり活躍する場がないこともある。

音楽にアイヌの口琴ムックリを使っているが、アイヌ自身は出てこない。
どこまで作り手が意識していたかわからないが、先住民=開拓者たちも近代日本の拡大政策に乗ってきたわけで、その延長上に大陸侵略があったことも伺わせる。



「モスクワ・エレジー タルコフスキーに捧ぐ」

2020年12月14日 | 映画
アレクサンドル・ソクーロフによるアンドレイ・タルコフスキーのドキュメンタリー。
ソクーロフにとって監督第一作を擁護してくれたタルコフスキーは特別な存在だったろうが、ことさらに感傷的にそういった事情を伝えるナレーションの類は(例によって)ない。

驚いたのは、音楽にアストル・ピアソラの曲を使っていること。エンドタイトルにロストロポーヴッチの演奏が使われているのは、タルコフスキー同様西側に亡命したロシア人芸術家という点で共通するし、タルコフスキーの葬儀でも演奏しているから不思議はないのだがピアソラとは、個人的に最も好きな映画監督がタルコフスキーで音楽家がピアソラなので、なんともいえない気分になる。

タルコフスキーとピアソラはおよそ共に故郷に容れられず苦労した芸術家という共通点があるわけだが、そういう意識があったのかどうか。

若い時のタルコフスキーの映画「出演」作の軽薄になれなれしく女の子に話しかける映像が見られるのが貴重。
アメリカかぶれでナンパ好きのスチュイーダ(格好つけ)だったという面影が見られる。後年の渋面が張りついたような顔からは想像しにくい。



2020/12/13

2020年12月13日 | Weblog

「オール・マイ・ライフ」

2020年12月13日 | 映画
実話ベースの難病もの。
ラストで(例によって)実物のカップルの映像が出るわけだが、あれと思ったのは男の方がアフリカ系なこと。映画では中国系のハリー・シャム・Jr.が演じているが、どういう事情だろう。
チャイナマネーが入ったのが原因で中国系にしたのかもとも思ったが、製作会社やプロデューサーの名前を見ている限り、そう言えるかどうか不明。

映画が描く白人女性と有色人種の男との結婚する組み合わせとしては、アフリカ系より東洋系の方がハードルが高いのかもしれず(キャスティングでは東洋系はアフリカ系よりさらにチャンスが少ない)、だからあえてそうしたのだとしたら作り手たちの意識が高いことになる。
あるいは単に役者が気に入ったのか、こちらで知っているより人気があるのか。

難病ものとすると、病状が進行してもあまり見かけが変わらない。
実物の映像を見ても、ぱっと見ではわからないくらいだから嘘とは言えないが、やはり違和感はある。

「ハッピー・デス・デイ」の主役でもとんでもない目にあいながらへこたれずコメディセンスを見せたジェシカ・ロースが今回も明るくじめつかない。

病状が進んでもあえて結婚式を挙げるのを友人たちが後押しするのは余計なお世話と思わないでもなかった。アメリカでは医療費はとんでもなくかかるというから。
難病ものとはいっても死ぬところで泣かせるのが売りという作りでないのは好ましいけれど、本質的な厳粛さを外している感じはある。

ヒロインが使っているPCはMacだが、モニターが写るとフォルダが左に集まっているところがあるのはケアレスミスか。
他のももっぱらMacなのでプロダクト・プレイスメント(映画の中の小道具として出す広告)か。




「国家が破産する日」

2020年12月12日 | 映画
IMFが作るのは貧富の差が広がり、労働者を簡単に馘首できる、つまり新自由主義が支配する世界だというセリフが痛烈。もちろん日本も追随している。

エリートたちが物事をなあなあにして上におもねり下を恫喝する、IMFに抵抗するのをやめ、国を売り渡す方を選ぶ高官の姿はあまりに身近でありすぎて気持ち悪くなる。

ヒロインが権威主義的な男社会と戦う女性というのはどこまで事実なのか判らないが効果的。




「燃ゆる女の肖像」

2020年12月11日 | 映画
毒蛇に噛まれて死んだ愛妻エウリュディケーを冥界の王ハーデースに無理をいって連れ帰りかけたのを、戻り切る寸前に振り返ってはいけないという約束を破ってしまった為にまた地獄に引き戻されてしまう、というオルフェウスの伝説をモチーフにしている。

この振り返るというアクションが絵に描かれる側のアデル・エネルの登場カットで背後から走っていくのを追っていって崖の前で立ち止まって振り返るのに始まり、絵を描く画家ノエミ・メルランが屋敷を去るところで立ち止まり振り返るという形で再現される。アクションの対応、構造の間に言葉にならない万感を暗示する映画ならではの作り。

画家とモデルという見る=見られるという関係は絵が出来上がるとともに断ち切られるわけだが、絵というのはどこで「完成」するのか実ははっきりしないわけで、その関係をどこまで引き延ばせるのかどこで断ち切るのかというのがひとつの緊張になっている。

念を押すように、オルフェ伝説を描いた絵をこの後出している。
伝説では男女なのを女同士の組み合わせにして何の違和感もなく成立させている。

そして振り返ることは永遠の別れ、というオルフェのモチーフを織り込んだラストの長いワンカットの緊迫感とあらゆる情感を観客の想像に委ねる脚本演出の冴え。
おそらくこういう対応は他にもいくつも配置されているだろう。

簡素な自然背景や建築をバックにした、画面自体をキャンパスに見立てたような画作り。
その対極にあるような蝋燭の灯りだけで撮ったとおぼしき陰影豊かな照明。




2020/12/10

2020年12月10日 | Weblog

「ミセス・ノイズィ」

2020年12月10日 | 映画
明らかに前にテレビで見た覚えのある布団バタバタ迷惑おばさんをモチーフにしているが、それにが与えた印象に安易に溺れることへの対する批判が作品になっている。

アパートに新しく越してきた作家兼主婦がただでさえ娘が小さくて手がかかるのに夫はまるで協力してくれず、さらに作品は採用されないという公私ともに絶不調なところに、隣に早朝というより未明からバタバタ布団を叩いているのを悩まされる前半は、まあイライラさせられて隣のおばさんだけでなく映画そのものまで反発の対象になりそうになる。

そこから語りも視点も一転して、人も出来事も見かけによらないのがわかる転調が鮮やかで、曲がったキュウリも味は変わらないのに簡単に排除するおかしさが象徴的に示すように、マスメディアもネットメディアもいかに安直にひとつのイメージで決めつけて、それ以外のノイズは切り捨ててしまうおかしさを鮮やかに見せる。

細かいところをいうと、出だしでは重要になりそうだった夫の家事育児に対する無関心が後半になるとウヤムヤになってしまったり、あの落書きあの後どうしたのだろうとか、前半と後半で繰り返される同じ行為がもともとセリフやしぐさなど違うテイクになっているみたいなのはいいのか、とか、あの病気の扱いいいのか、とか、マスメディアやネットメディアの描写がいかにも型通り(パターンの拡大再生産装置だからには違いないが)、とかいろいろ気になるのだが、大もとのところでは外していない。

製作委員会方式で作られているのだが、参加している会社がふたつだけ。正直そんなに製作費かかっている感じではなく、いわゆるメジャーと自主製作の間みたいなところでかなり尖った作りをしているのは歓迎したいところ。

ダブル主演といっていい篠原ゆき子と大高洋子、ともに好演。 




「犬神の悪霊(たたり)」

2020年12月09日 | 映画
ずいぶん久方ぶりの再見。一時期、封印作品扱いされていたらしい。
室田日出男が犬の首を日本刀ではねるシーンなど撮影前から動物愛護団体から抗議があったというが、良くも悪くも作り物丸出しで、とばされた首が室田の喉笛に食いつくなどタイミングが変で笑ってしまう。
しかし本物の犬を首まで地面に埋めているらしいところなど、今だったら通らないだろう。

伊藤俊也監督の映画って、「さそり」の頃から技巧的な演出やりたがるわりに編集というかタイミングの取り方が結構ヘン。それもここぞというところで外す。
わざとやっているのか、単にヘタなのか。

原子力発電用のウランが発見されて村が開発されるという設定は70年代のもので、79年のスリーマイル島の事故から日本国内のウラン採掘はストップしているらしい。

とはいえ、こういう原子力みたいに近代的・科学的なものと犬神といった前近代的・土俗的なものとを混ぜる作りは、同じ77年公開の野村芳太郎版「八つ墓村」っぽい。その結果ヌエみたいな面妖な映画になったのも一緒。
犬神というのはもちろん「犬神家の一族」からもってきたものだろう。
こういうあからさまなパクリは当時の東映らしい。

前半、ヌードのサービスがあるのも昔の東映らしい。もともと憑き物とかオカルトにエロティシズムとの縁は深いわけで、ラスボス的にクライマックスで憑かれて暴れるのが十二歳の少女というのは「エクソシスト」からの連想もあるだろうが、性的な危なさを取り込む狙いもあるだろう。

「エクソシスト」といったら、奇態な症状を見せるようになった人を病院で検査するシーンもあるが、リアリズムの冷たさがまるで比較にならない。

伊藤監督のおどろおどろしい描写好みは「さそり」の頃からで、「プライド 真実の瞬間」なんて社会派劇っぽい映画でも東京裁判の裁判長席で土俗的な儀式が行われるみたいな奇天烈なイメージシーンがあったりして、一貫しているというのか、作っていくうちにクセになったのか。





「きみの瞳(め)が問いかけている」

2020年12月08日 | 映画
チャップリンの「街の灯」をモチーフにした韓国映画が原作というのを見る前に知っていたのは、この場合いい方に転んだ気がする。

主人公二人の縁というのが随分と偶然性が強いことや、男の方が裏社会に関わっているあたり、クサいと感じそうなところが、こういうとなんだが韓国原産ならいいかという気分になる。

吉高由里子の盲目演技が目が見える人の表情を出していたので初めから目が見えなかったのかなと思ったら果せるかな大学を出る頃に失明したのがわかるので、この作り手は信用できるかなと思った。

キックボクサー役の横浜流星の身体と動きがそう見えるのも立派だなと思ったら、調べたら中学の時に極真空手の世界大会で優勝したというから、なるほどと思う。

ラストにかけていくつも布石として置いていた小道具を回収しているのがひとつひとつ丁寧すぎて間延びするのは残念。
比べるのもなんだが「街の灯」のラストの簡潔さと余韻は見事だったと改めて思った。





「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」(東京都現代美術館)

2020年12月07日 | アート
あ、これもあれも石岡瑛子の仕事かと何度も思った。
たとえば、山本海苔店の缶のデザイン。
レニ・リーフェンシュタールの「ヌバ」展のポスター。
「地獄の黙示録」のポスターもだが、赤一色でまとめられたエレノア・コッポラによるメイキング本「ノーツ」のブックデザイン。

有名な一連のPARCOの広告、ドミニク・サンダの起用を提案したのは石岡らしい。
映画の素材をまったく使わないヴィスコンティの「イノセント」のポスターの大胆さ。

余談だがチャン・イーモウ演出の北京五輪の開会式用の衣裳展では、背景に開会式の映像が投影されていたが、それが完全にイーモウ映画の映像になっていた。当たり前だが撮影監督出身の演出家としてはカメラワークも演出していたのだろう。

数々の映画での衣裳ももちろん展示されていたが、基本単色にくっきりとしたシルエットなものが多い。
キャラクターに従属する衣裳というよりは、俳優と一体となってオブジェとして主張する意匠といった印象。

マイルス・デイビスのTUTUの没スケッチがいくつも並べられていたのは興味深かった。
前でLPがくるくる回転して音が出ていたが(増幅したものなのか、別に出しているのか)、レーベルももちろんデザインされている。

「MISHIMA」で使われた二つに割れるようになっている金閣寺のミニチュア(といっても見上げるばかりの大きさだが)が展示されていて、表面は木の生地を使って割れた内側が金色であることがわかる。
金閣寺の“美”は表面的に見てわかるものではなく、内側に胎内回帰的にこもって観念として浸るものなのを端的に表現したものと思える。

どう考えてもPARCO文化全盛の頃は生まれてもいなかったような若い客が多い。「MISHIMA」の展示もそうだったが、石岡のインタビュー映像を取り囲んで熱心に見ている。

近くの深川資料館通りに古本屋が二軒もあるとは奇特な話。もっとも古本ばかりでなく、石岡瑛子の評伝「TIMELESS 石岡瑛子とその時代」(河尻亨一著)も置いてある。
小さい方で荻昌弘の「歴史はグルメ」を購う。もう図書館で借りて何度か読んだ本だが、今後手に入るかどうかわからないので。




 

「アーニャは、きっと来る」

2020年12月06日 | 映画
娘のアーニャと生き別れになった父親がフランス南部の田舎町に潜伏して他のユダヤ人の子供たちを匿いスペインに脱出させようとするのを、半ば偶然から協力することになる地元の羊飼いの少年の回想として描く。

脱出劇としてのサスペンスもあるが、あまりどぎつく引っぱらない。ずっと後になってからの回想形式ということもあって、どこか寓話的な感触がある。

ナチスドイツ占領下の南フランスを舞台にしていてもセリフが英語というのは興を削ぐ。イギリスとベルギーの合作でフランスは資本参加していないのだな。
ジャン・レノやアンジェリカ・ヒューストンが脇の重要な役で出ているのも国際的マーケットを想定してだろう。

ナチスの方にも娘を亡くして嘆き悲しむ軍曹といったキャラクターが出てきて、一方的な虐殺者というレッテルオンリーではない。
このあたりも時代が下った影響だろう。

主人公たち羊飼いがスペインのフランス寄りのバスク発祥のベレー帽をかぶっているところから、舞台がフランスでもスペイン寄りなのがわかる。





「サッドヒルを掘り返せ」

2020年12月05日 | 映画
ロケ地巡礼というのが流行っている、というか元からあることだけれど、いったん破棄されて何もないただの人里離れた草っ原になっている「続・夕陽のガンマン」のクライマックスの墓地に仕立てられていた場所を発掘するだけではなく、映画撮影用に作られた十字架群を復元するまでに至る。
巡礼を通り越して聖地を作ってしまうファンたちのエネルギーの記録として面白い。

「続 夕陽のガンマン」なんてついでみたいな邦題つけたのは、今みたいに歴史的名作としての評価と地位を固めていると、どうも座りが悪い。

ロケ地を再生してもテーマパークにはしない、という宣言はいいですね。
ただ、志通りにいくかどうかは心配になる。

忽然と映画の中の墓地が周囲とそぐわないまま再生しているのはソラリスのラストみたい。




「滑走路」

2020年12月04日 | 映画
中学のいじめ、切り絵作家の妻と美術教師の夫、厚生労働省の若手官僚の一見関係ない三つのエピソードが交錯しながら描かれる。

それがどうつながってくるのか、という趣向が工夫をこらしているのだけれど、ひねっているところと丁寧過ぎるのとが混ざって、全体とするとどうも間延びする。
作りすぎに思えるところも散見する。

時制が交錯させて、自殺を結論あるいは発端に置かずに、一種前向きな時点を映画の終わりに置いていうのは工夫。
ただでさえ陰々滅々になりがちなモチーフを、ポジティブな場面を終盤に置いてある程度作品自体は前を向こうとして描こうとしてはいる。

いじめられて自殺した子の遺族に許しを乞うというのは、遺族側にしてみればただでさえ重すぎるもところにさらに荷物を背負わせるみたいな話で、感心しない。

ないものねだり承知で言うけれど、いじめる側の問題解決ってないのかと思うぞ。感情論になるが、いじめの描写というのはフィクションであっても不快だし、悪くて対応が必要なのは加害者側だろう。

元になった萩原慎一郎の歌集というのは読んだことはないけれど、やはり最果タヒの歌集原作の「夜空は最高密度の青色だ」の映画化と非正規労働や貧困といったモチーフがかぶった感じで、詩というものが文学の中でも「カネにならない」ものだからというのと無関係ではない気がする。

詩そのものを導入しないでストーリー=ドラマ映画にするという選択肢は唯一のものかとも思う。寺山修司の「田園に死す」とかタルコフスキーの「鏡」、最近のビー・ガンの「凱里ブルース」みたいな先例もあるし。




「さくら」

2020年12月03日 | 映画
宣伝を見ていると犬と家族をメインにした感動作みたいなのだが、あまり大きく出ていないが監督が矢崎仁司というので首をひねった。

日本の同性愛映画のエポックである「風たちの午後」から最近の「スティルライフ オブ メモリーズ」までインディ系でマイノリティ(とされる)のセクシュアリティを扱うことの多い監督という印象があったので、どうつながるのだろうと思ったら、犬は描写の上ではごく控えめ。なんでこのタイトルなのだろうと不思議に思ったくらい。

まだ小さな娘が両親のセックスについて聞くと母親が噛み砕きながらも細かく具体的に答えて、他の家族もさほど気まずい一方ではなかったり、もう中高生になった男兄弟が一緒に風呂に入ったり、いわゆる普通の性的状況の型にはまらない。
どこかずらした感じというのは、学年で一番成績がいい女生徒が性的にごくあっけらかんと二番目に成績がいい次男とベッドインするところにもいえる。

同性愛がドラマのきっかけになるほど特殊なことと捉えず、全体のそれぞれどこかずれている人間描写のバリエーションの一つ程度の扱いなのがユニークなところ。

長男が野球選手なのにひっかけて神様はまっすぐな球を投げるかどうか、という喩え話が出るが、家族全員に対してくせ球荒れ球が連発される感。

後半のショッキングな展開に対して小松菜奈の奇妙に壊れた態度の描写が凄みがある。エクソシストか、と思ったくらい。

その中で、犬のさくらだけが気がつくといつもそこにいる、といった程度の存在感で、とりたてて可愛らしく振る舞ったり飼い主を癒したりしなくても、変わらずいるだけでいいという扱いは珍しい。終わってみると、それでさまになっている(気がする)。
原作はどうなっているのだろうと気になった。