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親戚の告別式参列のため和歌山に行った。
亡くなられた方は高齢だが、やはり別れは辛い。
その人の人生を想い、出棺の時には涙が流れる。
天国では先に旅立たれた連れ合いが待っているだろう。
告別式に参列すると日ごろご無沙汰の親戚や知人と再会する。
告別式の時にだけお会いする人がいっぱいだ。
「ご無沙汰です。また告別式でお会いしましたね」
そんなご挨拶をして近況を知らせ合う。
親の世代から私たちの世代に交代して、その席で繋がりを確認する。
子供たちもみんな大きく立派になり、
私たちもまたこの子たちの次世代に交代していくのであろう。
人生の大きな節目には結婚式とお葬式がある。
結婚式は半年や1年前から準備が整われる。
けれどお葬式は連絡を受けて通夜まで数時間しかないことがある。
一日留守にしていて5時半に帰宅したら、その日の7時から通夜だと
留守番電話に入っていたことがある。
通夜の時間まで1時間半。
心の準備をする間もなく喪服に着替えて電車に乗ったこともある。
「死」とは予期せぬ時にやってくるものだ。
どんなに高齢になっても「死」を予期して生きる者はいない。
明日は必ず同じようにやってくると信じて眠りにつく。
だからこそ安心して眠りにつける。
けれどそれとは反対に、若いからといって必ず明日があるとは限らない。
私は40代、50代で亡くなられた友人知人の告別式に何度も参列した。
それに娘や息子の同級生の突然の死には言葉を失う。
人生にこんな番狂わせがあっていいものかと悔しい。
だからこそ老いも若きも
時間というものを大切に生きなきゃいけないと思う。
この世の中、かなり不平等に出来ている。
みんな一緒ではない。
ここに生まれた人生と、自分に生まれた運命を背負って一生を生きる。
けれどどんな人生でもひとつだけ平等がある。
それは「死」である。
どんな人にも「死」は平等にやってくる。
人は生まれた時から「死」に向かって歩き始めているのだ。
だからこそ幸せな人生も過酷な人生も生きてゆけるのだ。
告別式が終わり、たくさんの人たちに見送られて出棺した。
喪主の挨拶に涙をそそる。
永遠の別れが迫っている。
きっとまた天国で新しい人生が始まると信じて旅立たせたい。
こんな時しかお目にかかれない人たちと「弔いの膳」を囲み
故人を偲んでお酒やお料理を頂く。
その席の中央で
人生を全うして生きた故人の写真が笑っているように見えた。