マドンナのナイショ話

あなたに話したいあれこれ

別れ

2005年10月22日 | 私の想い
sirohana

親戚の告別式参列のため和歌山に行った。
亡くなられた方は高齢だが、やはり別れは辛い。
その人の人生を想い、出棺の時には涙が流れる。
天国では先に旅立たれた連れ合いが待っているだろう。

告別式に参列すると日ごろご無沙汰の親戚や知人と再会する。
告別式の時にだけお会いする人がいっぱいだ。

「ご無沙汰です。また告別式でお会いしましたね」

そんなご挨拶をして近況を知らせ合う。
親の世代から私たちの世代に交代して、その席で繋がりを確認する。
子供たちもみんな大きく立派になり、
私たちもまたこの子たちの次世代に交代していくのであろう。

人生の大きな節目には結婚式とお葬式がある。
結婚式は半年や1年前から準備が整われる。
けれどお葬式は連絡を受けて通夜まで数時間しかないことがある。

一日留守にしていて5時半に帰宅したら、その日の7時から通夜だと
留守番電話に入っていたことがある。
通夜の時間まで1時間半。
心の準備をする間もなく喪服に着替えて電車に乗ったこともある。

「死」とは予期せぬ時にやってくるものだ。
どんなに高齢になっても「死」を予期して生きる者はいない。
明日は必ず同じようにやってくると信じて眠りにつく。
だからこそ安心して眠りにつける。

けれどそれとは反対に、若いからといって必ず明日があるとは限らない。
私は40代、50代で亡くなられた友人知人の告別式に何度も参列した。
それに娘や息子の同級生の突然の死には言葉を失う。
人生にこんな番狂わせがあっていいものかと悔しい。

だからこそ老いも若きも
時間というものを大切に生きなきゃいけないと思う。

この世の中、かなり不平等に出来ている。
みんな一緒ではない。
ここに生まれた人生と、自分に生まれた運命を背負って一生を生きる。
けれどどんな人生でもひとつだけ平等がある。
それは「死」である。

どんな人にも「死」は平等にやってくる。
人は生まれた時から「死」に向かって歩き始めているのだ。
だからこそ幸せな人生も過酷な人生も生きてゆけるのだ。

告別式が終わり、たくさんの人たちに見送られて出棺した。
喪主の挨拶に涙をそそる。
永遠の別れが迫っている。
きっとまた天国で新しい人生が始まると信じて旅立たせたい。

こんな時しかお目にかかれない人たちと「弔いの膳」を囲み
故人を偲んでお酒やお料理を頂く。
その席の中央で
人生を全うして生きた故人の写真が笑っているように見えた。



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