おはようございます。三泊四日の京都・大阪祭り旅から帰ってきました。その報告を始める前に、書き留めておいた歌舞伎記事を載せいと思います。人気の海老蔵、猿之助出演の演目です。
七月大歌舞伎の柳影澤蛍火(やなぎかげさわのほたるび)。海老蔵が柳沢吉保を演じるというので、楽しみにしていた。はじめて観る演目だったが、筋立ても斬新で、こっけいな場面もあったりで、面白くみさせてもらった。
柳沢吉保というとぼくには石坂浩二の顔が浮かんでくる。たしか、大河ドラマだったはずと調べると、南條範夫原作の”元禄太平記”(1975)で、吉保側から忠臣蔵をみるというものであった。そのときの、吉保のプロフィルは、綱吉により小納戸役から側用人に取り立てられ、やがては石高22万石の大名となり、権勢は絶頂を迎える。そこへ赤穂浪士の討ち入り事件が発生し、その措置の不手際がきっかけとなり、凋落を迎え、綱吉も病死する。家宣に接近し、巻き返しを図るが、不調に終り、潔く権力の座から去る。
歌舞伎の吉保は、昭和の黙阿弥と呼ばれた、宇野信夫の作で、通説や俗説をふんだんに取り入れて拵えたもので、史実とは随分、違いがある。でも、トータルでみると、吉保の人生の栄枯盛衰がよく描かれていて、そのときどきのエピソードが多少、あるいはがらりと(笑)違うだけである。
序幕に、いきなり貧乏暮らしをしている海老蔵(弥太郎)が登場する。父と許嫁おさめ(右近)と慎ましく暮らしている。そこに犬役人がどかどかと入り込んで来て、犬に石を投げた罪で父親を捕えようとする。その騒ぎで父親は転び、打ちどころが悪く、亡くなってしまう。
二幕目は二の丸桂昌院の場。もう三年の月日が流れている。つてで、城内の職を得た弥太郎は、綱吉の生母、桂昌院の覚えめでたく、三百石の側用人にまで出世している。同様に、寵愛されて、のしてきた護寺院隆光(猿之助)とは犬猿の中(実はそのふりをしている)だが、桂昌院(東蔵)が二人を呼び寄せ、和解させようとする。何故、嫌うのかと隆光に問うと、弥太郎が幼児の腹掛けをしているからだと言う。実際、着けていたが、そこには、綱吉から受けた恩を忘れるな、と記されていた。ちょうど、綱吉(中車)が来て、それをみて、感激し、腹巻の三の字に墨を入れ、五として、その場で五百石に加増させた(笑)。皆が帰ったあと、桂昌院が、綱吉は女嫌いで世継ぎができぬ、いい考えはないかと、弥太郎に尋ね、身を投げ出すのだった(笑)。
三幕目では、弥太郎改め吉保は、桂昌院の気持ちをおんばかり、許嫁おさめを小姓の恰好をさせ、綱吉に差しだすのだった。懐妊させようというハラだった。出世のためなら何でもやるという吉保になっていた。
四幕目。それから、五年が経過した。吉保は三万五千石の大名になっている。綱吉の側室となったおさめは懐妊し、揺るぎない権勢を誇る吉保であった。おさめは、内緒で、ときおり吉保の屋敷を訪れている。一方、側室のお伝(笑三郎)も懐妊し、綱吉の寵愛がこちらに移ってる。そのとき、どちらかの子が綱吉の胤ではないという占いが出たと隆光が綱吉に告げる。狼狽した綱吉は、策を弄して、それがお伝の方であることを知る。吉保はお伝と不義の相手を切りすてる。
さらに5年がたち、吉保は15万石の大名になったが、綱吉の跡目相続争いで、大老一派と対立している。そんな中、病床の桂昌院が、腰元たちの前でおそめと吉保の不義の疑いを話し、その場で吉保にあられもなく縋り付く。ついに、吉保は、罵言を吐き、桂昌院に手をかける。
そして、一年後の大詰め。吉保の下屋敷のある、駒込の六義園の場。大老一派の勢力が増し、吉保も心身共に弱り切っている。折から、おさめが訪れ、貧乏時代からの来し方行く末を語る。そこに隆光が現れ、今までの裏で通じてきた関係を解消したいという。吉保はかっとなって斬ってしまう。そのとき、吉保も血を吐くが、おさめが最前、入れた茶に毒を入れていたのだ。一緒に死ぬつもりだったのだ。そして、先におさめの息が絶える。吉保も自分の人生を顧み、結局得たものは女の心と情だったと悟り、後を追うのだった。
はしょってしまったが、大筋、このような筋立てだった。通し狂言ということで、長いお芝居だったが、海老蔵と猿之助のすばらしい競演、中車の綱吉も良かったし、また、(今年、人間国宝になられた)東蔵のうまい、こっけいな演技もあり、十分、楽しめた。


現在の六義園(つつじの頃)

鳥文斎栄之による《福神の軸を見る美人》 注文主の柳沢信鴻が隠居していた、江戸時代後期の六義園の風景↓

では、みなさん、今日も一日、お元気で!ぼくは一日、旅の疲れをいやすため、外出は少なめに、室内の仕事(お祭り旅行記)に専念します。