蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

目指すは「無」

2024-04-26 | 老い
自分の蝶ブログは、ガラクタ入れになったり、玉手箱になったり。
なんでも突っ込んでいる、オモチャ箱である。
整理整頓しないで量を増やすのみ、は、わたしの日常とピタリ重なる。
質を追求し、厳選し、良いものだけを残せばよいのに。
まさに、断捨離も終活も手付かずの、自分の家と同じ。
脳があの世に行ったら、ブログ終いは、誰かに頼んでおこう。
メンドクサがられて、延々とブログ使用料が引き落とされるかも。
gooさんには長年お世話になったので、(微々たる)投げ銭代わりにお納めください。
というか、gooが存続しているか、心配ではあるが。

蝶ブログを紙媒体や、ダイジェスト版に納めようかと一時、考えて調べたことはあるが、今はこのままでよいと考える。
これ以上、わたしの私物のモノを増やすのは憚(はばか)られる。
電子データなら月々、わずかな利用料で預かってくれるし、第一、嵩張らない。
これからのわたしの目標は、モノを増やさないこと。
その後、徐々に減らして行くのが理想的展開。
だが、現実的には、わたし自身の消滅と共に、モノは全て廃棄。デフォルト。
コンピュータのように、ゼロか、1か。
選択肢は2つのうちの、1つ。
しかし、自分が消滅したら、モノを廃棄できない。
あとは全て任せた!と、負の遺産を押し付けることになる。
せめて、負の遺産だけはリセットしておかねば。
ゴミなら廃棄すれば済むが、処分するのに手間暇、労力とお金がかかるものは、後の人が迷惑だ。
ということは、ゴミも大量にあると廃棄にお金がかかる。
遺品整理屋さんは、ゴミの中に、ピカリと光る金目のモノがあると想像するが。
あるとも限らない。

立つ鳥跡を濁さず。
立つことを視野に入れて生きていくことになる。
いつも枕元には明日着る服のみを置いて寝る。全ての持ち物はそれだけ。
あと、スマホと充電器。
スカッとカッコイイが、災害備品、備蓄品など買い揃え、食品は買い替えたり、何も無しでは不安だ。

頭の中はどんどん記憶が衰えていくのがわかる。
それと共に気力が減少する。特に好奇心の、がた減り。
人生の節目、季節の移り変わりを実感する。
これから本格的に老人になっていく。
入り口でウロウロではなく、既にゲートを突破している。
無になる準備、無に向かう道のり、元気に意気揚々と、楽しく鼻歌まじりに、、、とは、まだそうは行かない。
老いの季節にどっぷり浸かると、また具合よくギアチェンジした走行になるのだろう、、、けれど。
季節の変わり目はやはり調子が良くない。

母と、わたし

2024-04-20 | 老い
母がわたしの年齢の時、母はどんな風だったか。
父が他界した頃だ。 
未亡人になってもなんのその、前と変わらぬパワフルさでガンガン生きていた。
やはり、母とわたしでは、生まれつきのパワーが違うのか。
とりあえず10年はそれまでと変わらず。
だが、10年を過ぎると徐々に老化の波が見えるようになった。
今、小学6年のわたしの初孫(母のひ孫)がハイハイする頃、田舎の実家を訪れた。
孫の年齢から逆算してみると、10年ちょっと前になる。
あの頃から、今思えば、少し認知症の予兆はあった。
ああ、わたしも後10年か、、、。
しんみり、、、。
この時間、大切にしなければ、、、。

今から母に逢いに行く。
まだまだ母は元気なのだ。


①わたしの年齢(70代手前〜。バリバリ元気な今後10年)
→②次の10年(80代〜。少しずつ老化、要支援にスライド)
→③更に次の10年(90代〜。要介護)
→④また更に100歳〜(天寿を全うするまで、要介護)

父も、舅も、姉の舅も80歳になる前に他界した。
この世とのキレイなお別れだ。
男性に比べて女性は長生きする。

母は、元気ではあるが、一人では生きていけない。
ベッドからの移動は、ブランコみたいなマシーン。
更に、今度、お相手してくれるロボットが導入されるとか。
大学と実業界と福祉分野(介護)のコラボで共同開発されるらしい。
今はその実験段階だとかで、利用者としての協力、承認が必要。
借りられるものなら何でも、「人の手」以外も借りる。
人手不足である介護は、特に。

それにしても、母は幸せな人生だったと思う。
まだ元気に生きているのに、「だった」と過去形にしているが。


※写真は、先一昨日の、大規模な公園の藤





元々苦手な人

2024-04-19 | 老い
ご近所にお住まいのBさん。
蝶ブログにも何度もご登場いただいた。
(ご本人の許可は得ず。得る必要も義務もないが)
43年前から関わりがある。
初めてお会いした頃は、わたしは独身。
Bさんは、お店を長く一人で経営され、当時はご主人も存命。
華やかな方であるが、わたしは超苦手。
ご近所なので、嫌でも顔を合わせる。

「単なる苦手」が「超苦手」になり、その状態が長く続いたが、お歳を重ねてちょっと弱気になられ、最近は「普通」になったと思いきや、またまた「苦手」に返り咲いた。

今週のバス停。
いつものように、誉め殺し。
他の人の耳があるので、わたしは声を小さくしていた。
褒め殺しの内容が、聞き捨てならない、過ぎ去りし時代の過去の価値観であったため、わたしは、小さい声ながら、一気にベラベラと異論を唱えた。
すると彼女の顔色が変わった。

「上品なお声で仰るから、聞こえないわ。
80歳過ぎたら、綿棒で耳の掃除したら良くないそうですね」
と、仰る。
顔色の変わり方が、かつての姑とソックリ。
自分には理解できない、わけのわからないことを一気にまくし立てられる拒絶感、不快感が襲ってくるのだろう。
認知症初期の症状で、他人から自分に対する行動から受ける印象に、そういう感覚があるそうだ。
Bさんも、片足入っているようだ。
早かれ遅かれ、皆んなそうだけど。

顔色を変えた後、遅れてバス停にやって来たご近所Cさんの顔を見るなり、
「奥さん!お元気?
80歳過ぎたら、綿棒で耳の掃除したら良くないそうですね」
と話しかけていた。
わたしは、明らかに、聴き役から外された。

一方的に(怖い顔で)まくしたてるのは、NGであると、再認識した。
聴こえないのではなく、わからないことや聴きたくないことは、脳がシャットアウトする。
初期症状である。
高齢の人には、大きな声で、耳元近くで、ゆっくり、はっきり、短い単語で話さなければならない。
介護職や医療関係の人たちは、皆さんそういうアプローチをされている。
わたしは、家庭外であり、家の外なものだから、つい、普通の人に接するようにしていて、特別な話し方をすることを心がけていなかった。
が、複雑な話やプライベートな話なんかは、皆さんがいるバス停ではとても出来ず、相手の言うことを笑顔で聴いて頷くしかない。
わたしは、ボランティアさんでも専属ヘルパーさんでもなく、ましてや「苦手な人」歴が長い人には、そうすぐに優しく親切にできない。
これからは、高齢であることを念頭において、対応すると良い。
が、元々苦手な人にそこまで頑張るかどうかは定かではない。

やはり、元気な頃にどういう態度で接していたか、好感度はどうだったか、という過去のやりとりは、現在、未来の行動に対して受ける気持ちに影響がある。
家族であろうが、友人であろうが他人であろうが、同じかも知れない。

わたしの場合、元気な頃に、好き勝手してあちこちに敵を作ってしまっていたら、、、それはそれで、元気な頃、自分は満足している。
まだ訪れていない(予兆はあるものの)健全ではない時のことまで心配して憂慮していたら、せっかくの黄金時代が褪せる。
かと言って、人のフリ見て、やはり他人に映る自分も多少意識したほうがいいと自覚した。
この年齢になって、ようやく気づくことがある。

老化による変化なら仕方ないが、それまでのお互いの関係性の積み重ねた時間は、事実として消せない不動のものであると感じる。
関わりが長ければ長いほど、状況も変化し、色んな側面を持つ。

※写真は、一昨日、広大な公園の一角で見た、竹とタケノコ。

快適な方向にスライド

2024-03-24 | 老い
認知症は、なにも致命的な病気ではない。
誰もが関わりのあることだろう。
認知症専門医が、認知症になることもある。
大国の元大統領や首相であっても同じこと。
多くの家族には経験がある。
問題は、他人のことだと捉えていて、対岸の火事であり、決して自分とは関係がないと思っていること。
65歳以上の5人に1人は認知症と言われる現実を、全く、どこか他所の国のことと見ていること。

夫婦で2人共に認知症だったとしても、家庭内での暮らしは社会に出ていないので外からは把握しにくい。
現に、ご近所のご夫婦が認知症だったが、夫さんは妻さんを認知症ではないと言っておられた。
元教師の夫さんのほうが妻さんより後から遅れて認知症になった。
ご夫婦ともに明るい快活な方々だった。

認知症にも、軽度と重度があると思う。
かく言うわたしも、認知機能の衰えを認知症の入り口と思っているフシがある。
認知機能も多岐にわたり、老化していない正常な人でも、注意力、集中力、理解力、決断力、段取り、など、認知機能レベルが高い人も低い人もいる。
それをなんでもかんでも「老化による認知機能の低下」を「認知症」と位置付けると、尊厳やプライドを傷つけられるだろう。
わたしは、若い時から相当な天然だったため、老化で追い討ちがかかって天然に磨きがかかっているものの、自分のミスには慣れている。
老化なのか、生まれつきなのか、境界がわかりにくい。ボーダーレスとなっている。
(反省を促すには良くないことだが)

だがしかし、自覚はある。
困るのは、自覚がない人である。
自分はちゃんとしている!!と、ミスを認めず否定するだけならまだしも、怒り出したりする。
それが老化のせいなのか、そういう性格なのかが、わかりにくい。
挨拶する程度のお付き合いや、ウォーキングやハイキングでご一緒するだけなら、問題ない。
(迷子になられては主催者には支障があるが)
少し高めの能力を必要とする場合は、困る。
しかも、仲間だったりペアだったりすると、チームワークを乱す。
特に一般的な日帰り登山のような、日が落ちる前までに帰還しなければならないと、一人の人のペースが遅くなると全員の足を引っ張り、引いては全員の生命の危機に及ぶ場合がある。
レベルを合わさなければならない。
ある人が病気で足を悪くされたのだが、「速度が遅くなり皆さんに迷惑をかけるかも知れませんがよろしく」と登山参加希望をされた。
が、冷徹と取られるかも知れないが参加を断られた。
1人の欲求のために、全員が命のリスクに晒されるのは回避したいところだ。

断られたことによってプライドは傷ついたことだろう。
が、仕方ない。しがみついて、周りに迷惑をかけることがある。

ある団体旅行。
旅の大ベテランのご夫婦が、集合場所に現れない。
添乗員さんが走り回ってことなきを得た。
そのご夫婦の妻さんが、場所によっては歩行に困難があり、別の参加者の人たちに抱えられてその場を回った。
添乗員さんは気を使って、他の参加者の皆さんにお礼の品を配っていた。
夫さんは全然知らん顔。
足の悪い人をみんなでサポートするのは美談ではあるが、決してお安くない旅行代金だった。
そこそこの費用を払っているので、自分が手厚くサポートしてもらえると思って参加した人もいるだろう。
自分のことばかり自己主義だと非難されると思うが。
一生懸命貯めたお金で時間をやりくりして参加できた有料ツアーに、自由参加の全くの他人のお世話まで引き受ける、素晴らしい人格が備わっている人は立派だ。

だが、思い遣りのこころが足りない場合もある。
自分もいっぱいいっぱい、苦しいアップアップの状況では、他人を思い遣る余裕がない。

日本人は、気を使い過ぎると言われる。
他人に迷惑にならないように我慢しすぎて悲劇を生むケースが見られる。
自分を追い込み過ぎず、適度に他人に甘えよ、他人に助けを求めよ、寄りかかれ、という声を最近耳にする。
ギリギリのところで我慢し過ぎると自分が壊れる。


話がまたまた脱線している。行ったり来たり。
生きて行く限界の話はさておき。 

避難先の団体行動とはまた違う、
(次元が違う)自由参加の団体旅行のケースに話は戻る。
団体行動になると、また別の感覚が生まれる。
わたしは団体旅行が苦手。
足並み揃えて集合場所、時間が気になって、ゆっくり観て回ることが出来ない。
特にトイレタイムは苦痛。
想定外に混んでいたりすると、自分ではどうしようもない。
なので、ゆっくり行程の少人数設定、または個人旅行にする。

いろんな経験をして、自分に適したものが快適だと感じる。
命をつないで行くギリギリのところで、自分が周りに迷惑をかけるのとは別の、
遊びの要素がある場合は、気を遣わなくてよいものを選びたい。

そうやって段々、自分の行動範囲を狭めて行っている。
あるいは、自分が快適な居場所を求めて、別の行動内容に徐々に移って行っているような気がする。






年上の友人たち

2024-03-08 | 老い
知り合いの方々。
友人?のカテゴリーに入るかも知れない。
わたしは、親友認定の基準がへんに厳しいため、親友はいない。
自分を開示しない主義なので。
腹黒をさらけ出す勇気がない。

友人となると、まあまあいる。
皆さん、わたしより年上。(同世代もいる)
なので、人生経験はほぼフルコースでされている。
就職、結婚、子育て、リタイア、介護、看取り、、、。
あとは、ご本人(と配偶者)の病気、看取られが残るのみ。
フレイルの方はいない。
が、今のままのライフスタイルだと、あと数年でフレイル突入だろうと予測出来る人はいる。
車を使って歩かない人。
自分に無理をしないのはストレスが溜まらないため、意外にフレイルにならないかも知れないが。
やはり、最低限、日常、歩くのは必要だと感じる。
身体がしんどくなると、そんな理想も吹き飛ぶのかも知れない。
何もトラブルが起きていない事前に予防するのは、ハードルが高い。

気力があるうちに、老人ホームに入居するのは、一つの良策だ。
配偶者の病気が急に進んで、二人でゆっくり施設を吟味する時間がなかった、と、ある人は後悔されている。
自立出来なくなる前に、夫婦でじっくり検討すべきだったと。
わたしの母は、認知症が少し出た段階で老人ホームに入所したが、意識や頭脳がはっきり正確に明確な時も混在し、理性ではわかっていながら、かなり抵抗した。
が、認知症がとことん進む前で良かった。
ギリギリのところだった。

ある程度の高齢になると、自立出来なくなる自分を想定して、出来る限り周りに世話にならず、一人で生活していきたい、と、あれこれプランを練る。
フレイルぐらいになると、かなり選定決定までの時間は限られ短くなる。
まだフレイルが訪れていない場合は、いずれその時期が来ることを予想して、考えておく。
じわじわ来るのは、ある意味幸せか。
あるいは、突然来るほうが幸せか。
神のみぞしる。
今日を大切に生きるしかない。

とかなんとか、わたしはやるべきことが山のようにあり、うんざりしている。

ちなみに、ブログ村エッセイのブーツさん。
幅広い教養には脱帽。
美術と世相を、独自の切り口で展開。
ピリピリキリキリ心地良く脳が喜ぶ。
リアル体験ゾーンにいる裕さんとはまた違う、脳内博識解説。


高齢ドライバー

2024-03-07 | 老い
高齢の人は、自分より若い人と交流を持つと、それはそれで刺激になる。
ただし、程よい歳の開きが望ましい。
あまり離れ過ぎると相手の気持ちや感覚が理解できない。
少し前は自分はそうだった、とか、少し経つとこうなるのか、とか、参考になったり、自覚する助けになる。
さらに、高齢の人は、その人が若い頃、お近づきになりたくてもなれないほど、格段に差があっても、老化によって少し能力が低下して、以前より差が縮まり身近に感じる。
ではあるものの、プライドばかり高い、能力の低下を認めない高齢の人は、老害予備軍になる恐れがある。
そこそこ素直な、能力が低下しても、わたしよりまだまだ、うんと上だったりするため、プライドは保たれる。
しかも、惜しみなく知識や見解を示してくれる。
ただ、考えが偏っていたり、間違いを平気で押し通したりする人は、やはり老害予備軍となる。

しかしながら、正しくバランス良く老化するのは、実に難しい。
客観的に判断する力が衰えると思われる。
誰しも自分を正当化したい。

(自分とは歳の開きがある)お年寄りの人とは、脳内で自由に交流する。
そのほうが、お互いにウィンウィン。
一緒に行動するにはやはり壁がある。
体力の個人差がある。
自分の心身が無理のないように動きたいため、人に合わせるのは苦痛になる。
それに、人によって苦手な行動がマチマチ。
トイレ不安のある人や、長く歩くのが辛い人、色々。
なので、脳内で交流すると自由。
一緒に実際に同じ空間、時間で行動しなければ、感動を共有できないわけではない。

だが、体を動かさず、家から一歩も出ず、脳内だけで活動すると、リアルな瞬間的なライブ反応が得られない。
ネットの向こうで生動画で繋がるのもありだが、やはり、実物の息遣いは直接感じられず、脳内の感覚に近くなる。
コロナ真っ最中はそれしかないが。
在宅勤務ならそれでよいが。

同じウォーキングをしても、室内でランニングマシーンで歩くのと、屋外で歩くのでは目に映るものが違う。
天候、季節、空気、景色、人々、、、その時だけの状況を肌で楽しむ。
脳内だけでは、実際に直接、直に感じるものとは当然違って来る。
そのリアルな反応が嫌で、刺激が強すぎたり、不快に感じたりすると、外に出ない人もいるが。
自分をどのへんまで出すか。
プロテクターの強度はどんな程度のものか。

ある高齢の方。
車で運転して好きなところに出かけておられる。
ご自身の心身が自立出来なくなって運転出来なくなったら、落胆して、活力をなくして、どうしようかと嘆くだろうと仰る。
だが、、、わたしは実は(例え近所のランチ店でも)車で一緒に出かけるお誘いを受けても尻込みする。
高齢ドライバーの事故が多いからだ。
本人は自覚がなくても。

トラブルが起きてから免許返上するのではなく、車でなくても行動できる方法を先に考えたほうが良いと思う。
(地域によっては、車がないと生活出来ない状況がある。
が、都会で引き起こされる交通事故とはまた違う)

わたしが暮らしている生活圏においては、車がなくても、公共交通機関を使えばどうにかなる。
どうしても車でしか行けないところは、工夫するか、やめるか、である。
緊急ののっぴきならない場合はタクシー利用もあり得る。
援助の手がない、経済的にも苦しい人は、行政機関に相談し、尚、改善出来ない場合は、どうすればよい?
いざという時の身内が近くにいる人は、それでもそろそろ車の運転は見合わせたほうが良い。
高齢になり車の運転があやしくなった母の場合、姉が母の車を売り払ったので、強制的に運転出来なくなった。
身内でもないと、そんなことは出来ない。
が、どんなに車の運転が上手な人であっても、高齢ドライバーの場合、わたしは助手席に座るのは遠慮したい。
知人の高齢の方は、歩くのが嫌いで、前は近所のスーパーに歩いて行っていたが今は車で行くそうだ。
それは、逆にしたほうがよいと思う。
車をやめて、歩いて行く。
必要であれば、嫌でも歩く。
だが、身内でもない人にそんな忠告はお節介だろうと思い、何もわたしは口に出さない。
身内も忠告しているのかも知れないし。

足、腰が悪い、痛い、だから、歩くのは避けて車を使う。
これは悪循環だが、仕方ないのか。
車を使わず、歩くのも嫌、となると、家から出ない。
そうやって、徐々に老いのソフトランディングか。

わたしの周りの人たちを見ていると、そういう流れが多い。
わたしも、いずれそうなる。

車で出かけたい、外の世界を楽しみたい高齢ドライバーさんとは、しかしながら、今後は、わたしとしては、ドライブ同行は控えたい。
つまり、距離を置きたい。
ということは、やはり自分の年齢や心身能力に合った人と交流することが、しっくりいく。


衰えにも色々あるけれど、、、

2024-03-02 | 老い
蝶ブログを私物化し(当たり前。わたし専用のブログ。毎月、使用料、払ってます)、好き放題に書く。
何を?
もう何度も何度も書いているのに、しつこく同じことを書く。
これはわたしをはじめ、高齢者の特徴でもあるが、ひとつ、老化現象ではないところもある。
それは、、、自覚していることだ。
(買い物も、家に既に買い置きしていることを自覚しながら、また買う)

書く前から、あるいは、書きながら、
あ、これ、2回目だ、、。
3回目?5回目?
さすがに10回は書かないが、事実は一つではあるものの、手を変え品を変え、当時の心境が時を経ると少し変わる。
(それが高じると、意図せず事実まで変わることがある)
1日1日、時は動いているので、同じ時間、時刻は2度とない。
だから、同じ事を書いても、毎日、日々、更新される(はず)。
だが、マイナーチェンジのため、書いた本人にしか違いがわからない。
なので、読む人は、ああまたか、うんざり、、、これ、何回目???となる。
過去の出来事で印象に残る、こだわっている経験なのだろう。
何度も何度も書いているうちに、自分の想いが精製される。


それはそうと、、、
趣味仲間の男性。高齢のお方、Aさん。
絶対に自分が高齢であることを認めない。
身体本体も身体能力も運動技能も頭脳も、衰えている自覚が全くない。
なので、この人の言う通りに従っていたら、わたしの身体が壊れる。
なので、ほんの少しでも具合が悪い予兆があると、わたしはストップする。 
自分の身体は自分で守らなければ、誰も責任を取ってくれない。
ましてや、わたしが具合が悪くなったとしても、付きっきりで看病してくれるわけでもなし、ヘルパーさんを雇ってくれるわけでもなし、最期まで看取ってくれるわけでなし。
せいぜい救急車を呼んで救急病院まで救急車に同乗してくれるぐらいだ。
わたしの家族が到着するのが仮に夜遅くになるとすると、病院の医療従事者の方々にあとは任せて、とっとと自宅に帰って行くだろう。
まだ病院に搬送されるまで付き合ってくれたとしたら「御の字(→死語)」。
そういう図が見えるため、自分の身体は自分で守る。
オリンピックの強化選手でもあるまいし、年寄りのお遊びに、身体を張る気は、全くない。
いつでも、「はい、さようなら」と荷物をまとめて帰る、退路を確保した、こころの準備はしている。
運命共同体でもない、お遊び(趣味)の関わりは、所詮、お遊びで、いつでも抜けられるニュートラルな場所にいる。
わたしにとって、趣味なんてそんな程度。
「生きがいだ」なんて真剣に思っていたとしても、本当の生きがいは、楽しい浮ついたことばかりではなく、生きるか死ぬかの、ギリギリを死守するための努力、みたいなものか。

話を戻す。
このAさんは、人の話を聞かない。
というか、聞きたい話しか聞こえない。
かつての晩年の姑と同じ。
脳がカチコチに固まって縮んでいるのだと推測するが、本人には自覚がない。
なので、そんな人と、あまりまともに話をしないほうが身のためである。
どうせ聞いてないだろうと、それをいいことに、わたしも好き勝手をしゃべる。
耳の聞こえない人同士の会話のようだ。

たとえば、二人一緒に同時に、別の趣味仲間と話していたとする。
話題は、かなり狭い共通の趣味分野。
広い範囲の会話ではない。
にもかかわらず、Aさんは話の内容をちゃんと聞いていないで、自分が好きな傾向の話だけが脳に残る。 
この脳のメカニズムは、自分を傷つけない。
プライドは保てる。
が、現状を把握していないだけである。
そういうことが、段々わかってきた今日この頃、まともに深刻に向き合わないことにしたほうが良さげだ。
その方向で舵切りしようと決めた。

歳を取ると心身共に衰えが現れるが、それを自覚出来ないところが、最も大きな衰えだと、人のフリ見て痛感する。


忘れたことを忘れる

2024-02-10 | 老い
さて、これからどうしよう。
今日のことではない。
今後のビジョン、見通しである。
長期的な計画は立てられない。
せいぜい、中期的計画。
(人生の残り時間を考えると)
しかも、息をしていても、わたしのアタマがふやけている可能性があるので、脳みそが機能している間。
だとすると、またまた時間は狭まる。

最近、恐怖に襲われている。
恐らく、早かれ遅かれ、多くの高齢の方々が経験することだろう。
新しい自分に、恐れ慄く。
記憶力の著しい減退。
脳みそキャパ低下。
新しいことが覚えられない。
ほんの少し前のことも、えーっとぉ〜、と、一呼吸して脳みそをギュッと絞らなければ、なかなかすぐには思い出せない。
こんな直前のことも忘れる??と、ワナワナ愕然となる。
で、冷や汗をかきながら、どうにか思い出す。
どうしても思い出せない時は、スマホで調べて答えを見る。
スマホでは見つからない時は、数ヶ月経って、突然思い出して、気になっていたことの辻褄が合ったりする。
すーっと、解けて、溶ける。

例えば、アタマの隅に引っかかっていたキーワード、「小さなサイズのエコバッグ」。

なんだっけ? 
誰との話だっけ?
どういう関わりだっけ?

昨年末、気になりながら、年を越した。
年が明けて、次女が我が家に来た時、ミスタードーナツの景品を3種類、出して見せてくれた。
その中に、小さなサイズのエコバッグがあった。
あ、これだ!
これ、これ。
これが、引っかかっていたのだ。

年末に、娘たちとわたしのLINE話題の中で、ミスドの景品の話が、流れの中で、ちらっと出た。
別にどうってことなく、話は終わり、その後も何事もなく時は過ぎた。
ただ、小さなエコバッグ、いいなあ、欲しいなあと、その時のわたしの脳が隅っこで反応したようだ。
だが、それっきり話題にも上がらず、日常ルーティンに埋没し、脳を占めていた小さな引っかかりは、段々薄くなり消えてしまった。
消えているものの、何かを忘れた記憶はある。
問題は、何を忘れたか、忘れたこと。
探しようがない。厄介この上ない。
モヤモヤが残るのみ。

が、次女がうちに現れて、わたしがミスドの景品を目にした途端、モヤモヤが消えた。
やれやれ。
冷蔵庫内の探し物なら、場所は冷蔵庫内に限っているから食品に限定されるが、冷蔵庫以外の全般では、何を忘れたか忘れたなんて、探しようがない。
TVや映画の中のことだったりすると尚更。
全く困ったものだ。
だがしかし、偶然見つかって、ほっとしたものの、また明日にでも別の脳内での紛失探し物が湧き出てくるやも知れぬ。
息をするかのごとく、自然に物事を忘れる。
そして、忘れたことを忘れるのだろう。
自然の流れなら止めようがない。
ま、しかたない。


順調に物忘れ

2024-01-30 | 老い
どんどん浮世離れして行く、わたし。
自分の世界。
これがまた気持ちいい。 
時折、はっとして現実に引き戻される。
(スマホに没頭して、電車で、降りる駅を通過してしまうのは、日常茶飯事)

最近、自分の行動が信じられない。
悪い意味で。
◯◯し忘れる。
これが多い。
1番頻繁なのは、電源の切り忘れ。
地球温暖化スローダウンをこころの底から叫び、いつも、エアコンの省エネには細心の注意を払っているのに、、、もかかわらず、、、外出時に床暖房のスイッチを切り忘れ、木枯らしの中、帰ってきたら、室内は、ほんわか春。
ぎゃ。

電気敷毛布も、主がいないのに(寝てないのに)、一日中ぬくぬく、ほかほか。
ある日は、あまりにも暑くて寝苦しく、異常気象かと思いきや、電気敷毛布の設定温度が最強のダニ殺しモードになっていた。
ダニとともに、わたしも丸焼けになるではないか。

火事に至らなければいいと言っても、そういう問題ではない。
自己嫌悪。
今後、益々この傾向は強まるのではないかと戦々恐々。
少しぐらい家人の、トイレの電灯切り忘れは許す傾向にある。
自分に甘く人にも甘く。
2人で各々の失態を許し合うが、こころが広くなって良かったね、では済まされない。
防犯などの保安もさることながら、家の安全上、危険だ。

最近の田中角栄さん御殿を始め、ろうそくの灯りで家屋を全焼した話はゴロゴロしている。
信心のろうそく、家や家族を守りたいためのろうそくが、家を焼き尽くすという皮肉な結果をもたらす。
「神頼み」よりも、「自分頼り」という、神様仏様からの直々メッセージか。
神様仏様は、自分で目一杯、力の限り努力した上で、更なるダメ押し、安心の上の安心のためにお頼みするもののようだ。
が、ろうそくに関しては???
神様仏様にお聞きしたい。

ちなみに、わたしの中の自分教・神様仏様は、無心すぎて、無邪気に無意識に、物忘れする。
ある意味、天国に一歩一歩、階段を登っているのか。
階段を踏みしめる時に踏み外さないよう、よく注意することが、自分教の教えである。
とかなんとか、何度も電気毛布や電気マットのスイッチがオフになっているか、確認している。
神様、今日は電源、これで大丈夫ですかねー。
それに気を取られ(かどうかは知らないが)玄関の鍵をかけ忘れていたりする。


老けたなぁと感じる時

2023-12-30 | 老い
人は、老化する。
体力、頭脳、メンタル。
どれかが飛び抜けて衰えるのではなく、どれも同時に少しずつ低下する。
わたしも、そう。

そう感じたのは、、、先日、10年前からの知人に久しぶりに会って。
(わたしのブログをご存知なのだが、もしお読みになったとしたら、ごめんなさい。
というか、ここでストップしてください)

わたしより歳上のその方は、わたしより早く歳を取る。 
そんな当たり前のことを事実として感じた。
そして、どんな元気な人も、どんな頭の良い人も、歳を取る。
これは避けられない。
特に、元々、わたしなんかより雲泥の差で頭脳が優れている人は、ほんの少しでもわたし寄りの老化を感じると、不思議な気になる。

父より11年若い母が老年の父のことをよく言っていた。
「あんなに賢かったお父ちゃんが、最近、前ほど賢くない」
前ほど賢くなくなった父でも、十分、その時の母より賢かったが。
父も父方祖母も、アタマは最期までクリアだった。
わたしもそうありたいが、体が言うことを効かなくなると、アタマだけ冴えていても辛いだけ。
アタマと体は同じ足並みで衰えていくほうが幸せだ。

で。
知人は、わたしの父と母の違いぐらい、わたしとは頭脳に雲泥の差がある。
そうなのだが、やはり寄る年並みには勝てない。
わたしが中学生の時に、家族全員で(同時、麻雀を覚えたばかりの兄、主導のもと)麻雀を一斉に始めた。(ただし母、除く。父、兄、姉、わたし)
その時に、当時50歳を超えていた父の覚えが悪かったことを記憶している。
わたしたち子供はスイスイ覚えるのだが、父はモタモタ。
チョンボも父にはわたしたちは寛容。
わたしは、父を頭脳明晰だと尊敬していたが、あれれ?新しいことは、若い人のほうが覚え易いのだと感じた。
歳を取ると、頭がカチコチになりやすい。
たとえ、頭脳明晰の50歳でも、普通の中高生には負けるようだ。
仕方ない。
生物は生まれてきたからには、その日から成長もするし、衰えもする。
避けられない宿命である。

というわけで、尊敬していたダントツ学業優秀の知人が、父同様に、ピーク時よりダウンしていた。
わたしは、ピークが12歳の時(人生のスタート地点あたり)だから、それから半世紀以上も経ちダウンが著しいけれど。

そして、かつて一緒に運動していた仲間だった知人だが、運動機能的にも衰えを感じた。
その人は、家庭の事情で時間が取れないこともあり、スポーツを全くしなくなったようなので、印象的にガクンと若さがなくなっていた。
どちらかというと、趣味は足腰を動かさない、アタマや感性を使うものなのだからか。
やはり、ウォーキングでもよいので、軽い運動は日常に取り入れたほうがいいと思った。
わたしも渋らず機会があれば、参加したほうが自分のためになりそうだ。

老けて見えたのは、ちょうど、歳を急に取る年齢に差し掛かっていたのかも知れない。
わたしだって、何年も会わなかった人には、同様のことを思われることだろう。
皆んな同じ。
誰だって歳を取って行く。
自覚症状がある場合もあるが、人の姿を見て、この人、歳取ったなあと感じることもある。
何度も言うようだが、当たり前なのだけれど。

ジタバタあがいても仕方ない。
落ち込むなどもってのほか。
年齢と共にやってくる変化を受け入れると、こころが落ち着く。
歳を取る感覚に慣れてくる。
アンチエイジングの人から見ると、だから老けるんだ!と叱咤されそうだが。
なんで自然の流れ、真理に逆らわなければならないのか、わからない。