蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

しあわせシーソーゲーム

2016-02-20 | 人生

母に会ってきた。
何も心配事は、ないようで、穏やかな顔をしていた。
綺麗に髪をカットして染めてもらって、こざっぱりした清潔な服装に身を包み、血色の良い顔色だった。

 「もし、なにか心配事があったとしても、心配したところで、どうしようもないのだから、心配しないことやね」
とわたしは言っておいた。
「何も考えることがないなら、眠る時に100から3ずつ引いて、数の計算しながら寝たら?」
と提案すると、横になると、おやすみ3秒で、あっと言う間に眠りにつき、朝が来るそうだ。
「睡眠薬のお世話にならないと眠れない人もいるのに、健康でなによりやね」と言い、けっこうなことと受け止めた。
決して嫌味ではない。
本人は、理解していないだろうけれど。

わたしが1歳か2歳の頃の話をしてくれた。
広々としたお花畑にわたしをちょこんと座らせて、遊ばせていたという、わたしの大好きな話だ。
わたしたち、きょうだいを産んだ時の話や、当時の家の様子など、懐かしい話で花咲き、
そのせいで時間をすっかり忘れ、バスに乗り遅れてしまった。

どこからどう見ても、まともで穏やかな母だが、
ドラマに、作りこまれた伏線があるのを発見するかの如く、やはり、現実はどこか、ほんの少し、本当にほんの少しだけ歯車が合わない部分がある。
人間は、きっちり歯車が合わないと、社会生活は送れない。

異常に気づきながら、気づかないふりをして、そっとしておくのが一番だと、わたしは考える。
完璧主義で、ご両親の老いた姿に接していない人には想像できないことだろう。
子育ての経験も、自分の思い通りにはならないという、理想と現実のギャップを受け入れる試練になる。


おんなの人生レース。
母と義母、現実としては、義母が母を追い抜かしたと感じたが、今日は、母が義母を追い抜かしたと思った。
毎日、シーソー。

その理由は・・・
義母は、辛い時期、辛かったことを延々と話す。
母は、楽しかったこと、自分やこどもたちが幼かった頃などを楽しそうに話す。
彼女たちの人生。
(二人とも、共通点は、たいへん熱心な働き者である。ぐうたらや、怠け者の対極)
客観的に見たり、近くで接したりすると、母のほうが、自己チューだ。
歯を食いしばって頑張り、成果を上げているのは、義母である。
評判もよく、慕われ、高く評価されるとすると、義母だろう。
だが、頑張る人は、その疲れが晩年にどっと、自分に跳ね返ってくるとすると・・・

自己チュー街道まっしぐらのわたしは、この自己チュー、母親譲りかも知れないと、慄きながらも、
決して悪くはないかも、と思ったりしている。
ただし、自分は救われるが、周りは、ちょっと迷惑・・・。当然ながら、プラス評価は期待できない。
そのあたり、バランス感覚を磨いて、できるだけ迷惑をかけないよう、自己チュー磨きをしようと思う。


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