フランス、ドイツでは、えらい雨、らしい。
セーヌ川が氾濫などとは、想像もできない。
ずいぶん前のいつか、フランスに行った時も、
「このラインまで水が浸かりました」と、建物に残る浸った跡を指して、説明を受けた。
先月、ドイツに行ったが、豪雨に遭わなくて幸いだった。
ハナシは、ごろりと変わる。
わたしの年齢、見かけで、「初対面の人とお会いする」と仮定する。
当然、よほどの何か、大きな取引や儲け話でも持ちかけない限り、なんの魅力もインパクトもない。
ましてや、男性であれば、ご縁があるのは、うら若き女性、妙齢の美女が好ましい。
しかも、わたしは、典型的日本人。
自分をアピールしない。
(日本じゃないんだから、当然ながら、もの言わなければ誰も自分をわかってくれないのに)
この年齢、容姿、語学力、発言力で、なんのアピールもしないと、誰の目になど映らないであろう。
ふと、わたしと接していたにもかかわらず、わたしのことなど、目に映っていなかったと思われる人々、シーンが、目に浮かんだ。
それはそれで、当たり前のことであり、べつにショックでもなんでもない。
わたしは、自分というものをとても客観的に見ている。
なにも特徴のない、人になんの働きかけもしないで、まして、自分がなぜ、そこにいるのか、なぜ、その人と対面しているのか、
そういう説明もなく(仮にあったとしても、興味を抱かれないと思うが)
そんな自分をアピールすることは、よほどのシチュエーションや熱意、意図がないと無理だろうと感じる。
5年前、パリの蚤の市で、商品の交渉をしている、すごいオーラを放つ、うら若き女性を見た。
おそらく、バイヤーであろうと想像する。
「パリで、一人で仕事やっているんだ!!」オーラである。
一生懸命の気持ちが全面に出て、攻撃的でもあり、必要以上に無理しているような、かえってキャパのなさを感じた。
わたしは、生まれてから今まで、本当の意味での深刻な切羽詰った状況に面したことがない。(鈍感なせいもある)
なので、オーラはない。
さびしいかといえば、たいして、さびしくない。
いまさら、殿方もさることながら、人にアピールしたいとは思わないし、相手がなにも感じないのは、お互い、無関心さを示す距離感の現れだと思う。
もう少し若い頃、アメリカにほんのちょっとだけ行った時は、ほんのちょっと、人を寄せ付けないオーラがしていた(らしい)。
本人は、必死で頑張っているのである。
でも、結局は、最後は、依存モードまるだしで、人様の好意に甘える格好になってしまった。
その頃には、人を寄せ付けないオーラは、完全になくなっていたことだろう。
あのオーラは、虚勢だったように思う。
蚤の市のバイヤー女性も、相手に見くびられないよう、必死で虚勢を張っていたのかも知れない。
それが、まぶしい、とか、輝いている、とか、素敵だ、とは思わず、
なんだか、追い込まれた悲壮感のようなものと、負けん気とが合わさったような、痛々しいほどであった。
商売には、それぐらいは必要なんだろう。
わたしは無理にアピールすることもなく、同じ周波数を傍受する人だけ、わかってくれたらよいと思っている。
決して、ぱっと一目見て、どうこうというタイプではない。
長い時間がかかる。
興味を示してくれない人に、興味を示してもらおうと、あえて働きかけるのは、ビジネスだけでいい。
興味を感じてもらえないということは、同じものを持っていないということで、
それから共有する時間が無駄になる前に、事前の面談で振り落とされているようなものだ。
もし、何度か、会う機会が重なれば、会話も増え、最初のイメージとは違うこともあるだろうが、
一期一会の場合は、そんなこともない。
まあ、それで、いいのではないか。
ふと思い出す、顔、顔。ワンシーン。
一期一会も、あっさりしていて、うす塩味仕立てで、
こってりした濃厚な思い出の合間、合間の、箸休めの彩には悪くない。