蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

断捨離と人間関係

2022-10-16 | わたし
書きたいことがない。
毎日、楽しい。
だから、書く意欲が湧かない。
わたしのブログは、マイナスチャージから得るエネルギーだということが、よくわかった。

全然、思いつかない。
思いついても書く気がしない。
なんじゃいな、これ。

秋になって気候が良く、身体に感じる空気も爽快。
岸田総理はじめとする、政府には思うことはあるが、書くには至らない。
なんじゃいな、これ。
わたしは世捨て人か?

断捨離を少しして、その分、整理整頓すると、綺麗になり気持ちよくなった。
1%を抜き取り試して体験してみて、残りの99%を想像するかのような、試供品で様子がわかるような、先が見通せるかんじか。
量や時間の配分、ペースも決めると予想図がハッキリする。
が、先行きが明るいと頑張らず安心してしまって、断捨離の手を緩める可能性がある。

それより、ブログに書くような内容を最近、日々、口から音声でリアルに面と向かって発声しているから、溜まらない。
しかも独り言の一方通行ではなく、しっかりわたしの言っていることを理解してくれ、賛同までしてくれる。(口先だけの同調かも知れないが)
褒めてくれることもあり、けなされることもある。
つまり、リアル友が出来たということだ。
わたしの言うことなんか、誰も興味ないだろうと思い、ブログに吐いていた。
それが、なんと!
受け止め、反応してくれ、さらに感想を言ってくれ、言葉や行動を介して、意見、考え、感想のラリーの応酬になっている。
でも場外に球が出る場合もある。
空振りの時もある。
が、日本語が通じ、同じ業界に身を置く身で、裏話までツーカー。
同じ経験を共有し、同じ温度の、同じ位置レベルに属した、ほぼほぼわたしと等身大の人物である。
かと言って、ものすごく熱く急接近するかというと、ある程度の距離は保つ。
そういう友達は、今まで出来なかった。
というか、わたしが数々の失敗を重ね、学習し、失敗から学び、ちょうど良い位置関係にいられるように調整した結果だろうと思う。
正に、失敗は成功の元。
学習能力を身につけたということだ。
長く生きていれば、それだけ経験値が上がる。

モノの断捨離と同じく、人間関係も整理整頓した。
すると、なんとスッキリはするものの、隙間風ビューでもなく、ギスギスうら寂しくもなく、ちょうど良い温度になった。
見直し、再編成してみるものである。
切ってしまうのではなく、仕切り直し。
長押しリセット。
また組み立てる。

更に時間が経過すると、埃やら垢やら錆が付いて滑りが良くなくなることもあるだろう。
その度に、見直し、キュキュっと磨くと良いようだ。


ちなみに、、、
どんな良好な人間関係を築いていても、言わないほうがよい(こころの中だけに留めておく)こともある。
何でもかんでも、思いついたことをどんどん考えなしに精査せず口に出すのは混乱を招いたり、相手を不快にさせたり傷つけたりする。
かつてのわたしの失敗例では、考えなしの人の言葉に痛手を受けたが、相手は自分のどんな言葉が相手を不快にさせているのか全く分からなかった。想像できなかった。
相手は自分の言葉が相手を傷つけていることだけは分かったが、どの言葉なのか分からない。
なぜ傷つくのかが分からない。
なのでトラブルを避けるため、全く何も言わなくなった。
1か0か、で、0になった。

どの内容が良くて、どれが悪い、と、いちいち説明しなければいけないって?
わたしは絶望的な気持ちになった。
何度か繰り返すと学習するはず、とわたしは思っている。大の大人なのだから。
幼児でもだいたいわかることを、大の大人に言葉で説明しなければ分かってもらえない、そんな関係性は???
言語、国、歴史、男女差、年齢、文化、宗教、信条、社会背景の違い???
経験が全く異なる異次元の世界の人ならまだしも、
そんなに違わない、同じ地域のごく身近な人なのに、そこまで(いちいち口に出して説明しないと)分からないことに驚く。
年齢も教育もエリアも、ほぼ同じなのに。
個体差なのか、相手を理解しようという気持ちがないからなのか。
分からなさすぎて、分かり合えるような努力を放棄すると、自然に馴染むかというと、自然に破綻し消滅する。消えてなくなる。
言葉を介さず、態度や行動で示すようになる。
自然になりゆきで消滅する場合と、意図的に消滅する場合と、意図しないのに外的要因で消滅する場合がある。
そして、時の経過で変化する。
人間関係は糸が絡み合って、非常に複雑難解なのである。


秋桜日和

2022-10-15 | 日々のこと
秋は、いいなあ。
最高。
暑い夏が終わった後、ほんの短い期間しかないけれど。
冬までの間、清々しい空気を吸い込んでおこう!

秋桜、大大大大好き。一面、秋桜。
素敵な秋晴れを楽しんだ。



強敵

2022-10-11 | 日々のこと
ミニミニミニ鬱は続く。
バロメーターは何か?
ブログに何なりと書く意欲が減退している。
やはりわたしは、活力を書くことから得ている。
ご飯を食べるかのごとく。
食べると元気になる。
書かないと元気になれない。
元気がないから書く気が起こらない。
鶏が先か、卵が先か。

断捨離のブツ(靴)を今朝、ゴミに出した。
なんと、カラスにやられた(ようだ)。
靴なんか食べられないのに、ゴミペールに入り切らなかった、大きな透明ビニール袋を食いちぎり、カラスが中身を掘り出そうとしていたと思われる。
チラシの紙を一緒に入れていたが、チラシは破られ紙切れとなり、道路に落ちていた。
紙切れゴミは拾ったが、わたしは、そのまま出かけるため、その後に起きるかも知れないカラス被害を見届けることが出来ない。
後ろ髪を引かれながら、早くゴミ収集車が来ないかなあと首を長くしつつ、足早にバス停へ急ぐ。
帰った時はどうなっていることやら、、、心配だ。

それにしても、カラスとネズミとゴキブリは、次の時代に絶対に生き残る。
山から降りて来るイノシシや熊も、最近は脅威である。
怖いものがイッパイ。
人間が一番怖いのだが。

お互いの棲息ゾーンをはみ出すと、トラブルになり、被害が発生する。
ニュースも暗いことばかり。
楽しい話題は自分の家庭内だけだ。
それで十分すぎるぐらい十分だ。


暇つぶし、つぶした後は?

2022-10-09 | 日々のこと
今、ミニミニミニ鬱、こころの空洞。
何もする気力のない、何も興味が湧かない空っぽ状態に陥っている。
別に何があったわけでもない。
大きな節目や、何かを卒業した、乗り越えたわけでもない。
が、、、ちょっと時間がズレて遅く症状がやってきたのかも知れない。

何が原因なのだろう、、、。
最近、空洞時間を過ごしながら考えてみる。
考える必要はないのだが、昨夜はあまりにも何もする気にならなくて、19時を過ぎた頃に早々と寝室に入り就寝した。
その直前にはNHK TV「ニッポンに蒸気機関車が走った日」という歴史ドキュメント番組をしっかり見た。
何か魂を奪われるように、気が抜けたのか。
日本の近代化、第一歩頃のお話だった。
西郷隆盛、岩倉具視などが登場。
琉球の国が日本の統治下になった日でもあるらしい。
蒸気機関車が初めて走る日に招かれた琉球の王の次席?(王の次の位にいる)人がいた。
その子孫である女性が先祖の写真を見せながら説明し語り継いでいた。
琉球のこと、知らないなあとわたしは思った。

パスポートが必要だった時代に、父が旅行していたのを覚えている。
わたしは、沖縄海洋博が開催された1975年に、父の知人宅に姉と一緒に宿泊させてもらったことがある。
沖縄返還が1972年だと、たった3年後にもかかわらず、学生だったせいか、パスポート感覚ゼロの普通の感じだった。

話は脱線。
で、他に見たい番組もなく、(隣室のTV音が聞こえる中)したいこともなく、したい気にもならず、寝た。
こうやって活気が失われて行くのだろうか。

しかし、眠いわけでもないのに、疲れているわけでもないのに、寝る(眠る)のは、疲れる。(逆説パラドックスです)
あー、かなり頑張って寝たからそうとう時間が経っているだろうとトイレ時に時計を見ると、なんとまだ0:30。
いつもなら布団に入ろうとする時間。
健康体で寝るのは体力が要ると痛感した。
朝までその調子。
何回、何作、夢を見たことか。
最後の夢は、とても楽しい、これからの生活に期待が持てる内容だった。
終わり良ければ全て良し、か。


それにしても、、、
あまりにもすることがなく、昨日、夕方頃は、断捨離をした。
耳垢がいっぱいボロボロ取れるように、不要な靴がいっぱい。
おもしろいぐらいに、ポイポイと廃棄ダンボール箱に投げ込んだ。
お取り置きしたい、新古品は新古品用ダンボールに詰め込み、2階の(広い)一角を占領する、ほぼ不用品コーナーへ押しやり積み重ねた。
新古品ではあるが、たんなるコレクションなので集めて保管することに意義があるため、使うアテもなく(こういう行動やスタンスは、断捨離実践者やミニマリストには糾弾され、時流の真逆となる)、いざとなれば、2階のモノは全て廃棄。
廃棄までのお別れ期間である。
惜別タイムを設ける。
老人ホームに入る時は身体ひとつ。
それまでの、こころの贅沢。

が、待てよ、と思った。
この調子で断捨離していくと、全く何もすることがなくなってしまう。
断捨離という未実行・未処理のタスクを抱えているからこそ、(何もすることがない時のために虚無感に襲われないよう)用事を残している、自分はすべきことがあると自覚できる。

では、身一つの人は?
毎日毎日、思い残すことがなく、澄んで研ぎ澄まされた一日一日なのでは。
肩に荷物(文字通り)が乗ってなく、気楽、軽いのでは。
荷物はなくても、「仲違いしていた肉親に一目会いたい」だとか、こころの荷物は背負っているかも知れない。

こころの荷物はシリアスだが、ブツの荷物は物理的に解決できる。
しかし、全く何もすることがなくなり、する気もなくなると、断捨離すらしないのだろうか。
とりあえず、靴を断捨離してスッキリしたかというと、澄み渡るには至らず、
ではあるものの、こころの空洞を埋めるには、時間つぶしには、断捨離は役立つかも、と思った。
だが、単純にただ捨てるだけのモノの断捨離だけではなく、いろいろ背負っているものの断捨離、引き継ぎは、憂鬱だったりする。


ブログ依存症ではなく互助会

2022-10-08 | ブログ
ブログ村エッセイで見かけた、とあるブログ記事。
ブロガーさんの夫さんの「どうせブログなんて書いても誰も読まないのに」という、ぽろり発言。
これに、わたしに変な火が着いた。

以下は、あくまでも「わたし」に関して。
読んで欲しくて書くのではない。
書いた結果、それが読まれるのは悪くない。
読んで読んで。わたし、わたし、とアピールしたいわけではない。
さらに、複雑めんどくさいのは、書いたくせに読まれたくない、という場合もある。
なら、書いてもアップするなよ、ということになり、その摩訶不思議な心境は人にはわからないと思うが。
深情、情熱の発露の結果が、文章の山。
ダラダラでも良い。

書いて封印しているものもある。
実は隠し子のように、若かりし日に創設した別ブログがなんと、あと2つもある。
ほぼほぼ閲覧数は限りなくゼロに近い幽霊ブログなのだが。(誇張ではなく)
わたしがこの世を去る前に、指が動かなくなる前に、目が見えなくなる前に、消滅させておかねば。
ネット宇宙のゴミは早めに撤去すべきなのだが、、、。
パスワード的なものを探すのが面倒。
そのうち、そのうち、と、放置したまま。
ひょっとすると、また書き溜め用にキープしておくかも知れない。(が、時間的に、それはない)

何しろ、脳がおしゃべりなのだ。
ピーチクパーチクうるさくてしかたない。
これは次から次へと脳に浮かんだまま脳外に出してお掃除しないと、脳がパンクしてしまう。
ゴミ屋敷化してしまう。
だが、ゴミは行政の決めた時間、場所に出さないと、不法投棄は罪になる。
そもそもわたしは、そんなヘイトスピーチ的なものは、アウトプットしない常識ある社会人である。
というか、自分自身が不快になる。
暴力は嫌い。
アントニオ猪木は良い人だったとしても、わたしはプロレスやボクシングは好きになれない。
女の子的なものが好き。
お花だとか、お人形だとか、布、服、光り物、調度品、工芸品、綺麗な優美なものが好き。
美術(建造物、絵画含む)、芸術(音楽、ダンス含む)、映画も好き。
キレのある斬新なもの(テーマ、題材、切り口、空間、建造物)も刺激を受ける。
最近は、「自然」も好き。「大自然」なら大感動。
美しい自然の中に身を投じると幸福感に満たされる。
なので、プロレスとかは無縁なのだ。

とかとか、などなど、、、読む人のことなど全く眼中にないことを延々と脳内から流れるままに綴っている。
ではあるものの、自分が気持ちいいものだけを摘んでアウトプットしている。
とは言え、その日の気分、ノリによっては、マイナス感情、鬱憤を吐き出して、ストレスを発散している。
何かを通して、発散するプロセスは、プロセスやボクシングファンと共通しているかも知れない。

わたしの場合、脳内にある「不安事項」は、脳内にだけ留めることが多い。
書きたくなるような「不安事項」は、書く場合もある。
選択には法則やルールはなく、気分次第。
常に自分を冷静に見つめている自分と同時進行して生きている。
子供の時からである。

言語を自覚したのは、わたしが幼稚園ぐらいの時。
思ったことが、音や文字として現れずに脳内にどんどん流れるように出現する。
その時は、脳内だとは気づかず、知らず、もわっとした空中のような空気のようなものから現れた。
この感覚は、2番目孫が4歳ぐらい?の頃に、わたしに話してくれたことと似ている。
彼は、「K(自分のこと=僕)は、思っているけど言ってないだけ」と拙い言葉で口にしたが、わたしは彼の感覚を理解した。
言語とこうやって共に歩むんだ、成長していくのだ。
思うこと、考えること、感じること、それをアウトプットする人と、しない人、また、したくない人、出来ない人がいる。
アウトプットの方法も、いろんな手段、方法がある。
表情、動作、所作、行動。
行動にも、その場の瞬間的な行動と、中期、長期的な行動がある。
生理的、抑圧的、能動的、自発的、強制的、思考的、計画的、、、
暴力や人助け、芸術、、、幅広い。
また、意識した場合と無意識の場合がある。

意識すると、問題意識を持つようになると、考える、調べる、考察する。
たんなる興味の場合と、のっぴきならぬ避けて通れない場合がある。
マイナス方向とプラス方向がある。
自分の生きざまに伴い、興味や情熱の対象も変わってくる。

と、あーだこーだ、は、今、自分の脳内整理をしている。
仕分け作業。
わたしは、この仕分け作業が大好きなのだ。
と、話は逸れに逸れている。

話を元に戻す。
ブログ村エッセイのブロガーさんの夫さんが仰るところの、誰も読んでないブログを一生懸命書く、いわばブログ依存症は、はい、わたしです。何か?
ただし、ブログはほんの最近(15年前)始めたばかりで、書くことは、中学1年から。
アタマの中だけで言葉遊びは幼稚園児の時から。
それは単なるわたしの癖、性質、特徴であり、別に特技でもなんでもない。
趣味。
自分に小さな穴を開け空気を通して、自分を助ける杖のようなもの。
杖がスポーツの人もいるだろうし、芸術の人や、ものづくりの人もいるだろう。
人それぞれ。
そして、解釈も人それぞれ。

ああ、長かった。
だらだら書いて、楽しかった。
生産性はないが、わたしが救われたらそれでよし。
めでたし、めでたし。

※最後までお読みいただいた方、お疲れ様でした。
時間泥棒いたしました。すみません。



書き損じ

2022-10-05 | ブログ
あれからしばらく未公開記事をいくつか抱えている。
自意識過剰も甚だしい。
自意識過剰とは、、、「勘違い」「こだわり」「自分流美学」でもある。
気に入らない作品はガシャーンと叩き割って壊す、陶芸家のごとく。
(ちょっと欠けたりヒビが入った食器でも使っているわたしだが、、、最近は、口をつけるグラスなどは唇を切ったり指を切ったりするのはバカバカしいので、危なっかしいものは捨てる)

世界中の誰もが共鳴、賛同してくれなくても、存在を知られなくても、自分一人が洞窟の中で仏像を彫っていればそれでよし。
が、一人や二人、洞窟仲間がいるのも楽しいと思う。
洞窟アパートみたいなのがあって、一人一人が洞窟タイプの個別の部屋で仏像を彫っている。
何年かに一度、仏像展覧会があって、即売会も兼ねていたりして。
誰が買うの?
みんな自分で自分の仏像を彫っているから、人の仏像は欲しくない。
が、人の作品からヒントやインスピレーション、影響を受けるかも知れない。
自分の発想にはない着眼点がある。
これ、同人誌や、趣味、同志の会、ファンの集いに似ている?

精度、完成度、芸術性が高まると、バイヤーが現れるかも知れない。
あるいは、個展を開いたり、何度も入展するとスポンサーが現れたり。
権威ある日展とか。

芸術で身を立てるのは身を削る。
学校の音楽の先生や、美術の先生は、両方バランス良くやっている。
バランスが良いって、いろんな見方ができる。
市民生活も楽しいと思う。
わたしは芸術家ではないので。

生産性という側面で価値を察ると、ほとんどのことは、生産性がないとみなされる。
生産はモノだけではない。
大量生産、大量消費の時代は終わった。
余計なモノを作らない努力が必要か。

抽象的なことばかり書いている。
だってわたしにとって、「抽象」はラクだから。
のらりくらり逃げられる。
現実からの逃避。脳のお散歩。
他人の各自の抽象を突き詰めることは出来ない。
が、哲学的には出来るらしいが、辛気臭く面倒。
わたしは、すぐ眠くなる。

ちなみに、わたしが書き溜めた非公開記事、公開しないように思う。
その時の熱情はその時にしかないので、時間が経つと違和感を覚える。
肉湧き血が踊らない。
で、ボツとなる。
では、アップしている記事は、肉湧きに踊るスゴイものかというと、全くそんなことはない。
時間潰しには効力を発した。
自己満足度の高い暇つぶしが出来た。
その使い切った脳と時間の蝉の抜け殻が、記事。
噛んだ後のチューインガムみたいなもの?
たんに書くことが好きなだけなのだが。

今日の記事は、すこぶる面白くない。
でも自分の閉塞感ある流れを変えるために、アップしよう。
あ、今、書きたいことが具体的に頭にシャキーンと浮かんだ。
が、もう遅い、時間がない。
また今度。

※助走のみの記事にお付き合いいただき、申し訳ありません。


バズった?

2022-10-03 | ブログ
わたしのもう一つの趣味関係のブログ(日記)が、ミニミニミニミニバズった。
わははと笑うぐらいのミニミニミニぶりなので、「バズった」と入力する手が、あまりにも大袈裟で馬鹿騒ぎで震える。
小規模すぎて。

でも、わたしにしてみれば、バズったのだ。
いや、「バズった」はあまりにも違いすぎるので、書き方、表現を変えよう。
「いつもより閲覧数が、その記事だけぴょこんと増えた」
そんなかんじか。
「バズった」を改めてここで全面否定しよう。

で、別にバズったわけではないのだが、次の記事をアップできないでいる。
閲覧数が激減するのがわかりきっているからだ。
じつにくだらない心理状態。

いつも気楽に、気張らず力まず、適当にひょいひょいと短時間で好きなことを書いている。
中身なんか、たいしたことはない。薄い。
考えてない。こころに思い浮かぶまま。
(蝶ブログと同じスタンス)
反応があまりないと気楽に自分らしく楽しめるのではあるが、予想を超える反応があると自意識過剰になってしまう。
歩く時、右手と右足が同時に出るかんじか。
他のメンバーさんの、多い閲覧数の記事を見ても、なぜ多いのか全く理解出来ないものもあるし、これは大ヒット!と頷けるものもある。
人物自体に人気や影響力のある人の日記(記事)は、おもしろくなくてスカでも、閲覧数は多い。
更に、閲覧数が多くなってくると、釣られてて益々多くの人が見に来る。相乗効果。人集り。
一発屋や一過性のブームだったりすることもあるので、歌手のヒット曲や新人芸人の売れ方に共通するものがある。
わたしはプロではないので、気が軽い。背負うものやプレッシャーがない。
あるとすると、こだわりか。
わたしなりの美学。(ぷぷぷ)
一つや二つの失敗やバズり(恥ずかしげもなくまだ言ってる)は、自分のブログ人生を左右しない。
だから素人は大成しない。

だが、少し気になって、いつものように書けないのが難点。
ではあるものの、閲覧数が日頃の低調ぶりに戻れば、完成度や激減ぶりなど何の気にすることもなく、本来の自分モードで肩の力を抜いて書ける。
しばらくすると平時の何ごともなかったかのように日常になっている。 

さあ、また、くだらない独り言が書ける!
これ、けっこう楽しいのだ。



マッチポンプ(自作自演)

2022-10-02 | わたし
わたしは、自分自身の能力よりも、今いる位置のほうが上である。
今の年齢のわたしの体力、身体能力、作業能力、頭脳能力を冷静に評価し、それに相応しい位置を当てはめると、気分が悪くなり落ち込むため、評価したくない。
「正当に自分の能力を評価されていない」あるいは「実際より下に評価(低評価)されている」と嘆く、冷遇されている人の真逆である。
ではあるが、評価にはいろんな角度、面、見る側の見方があるので、一概に決めつけられない。
それに、冬に備えて、若い頃に活性化した養分を貯蔵しているから、生きながらえる(延長)分には蓄えはまだ底をつかない。

事故、事件、災害、病気、怪我などの不幸にも見舞われず、今日まで生きて来れたのは、運が良かったとしか言いようがない。
神に感謝するのみである。
この神は、わたし自身が自分の神様(一人二役)で、しかも信者は1人限定なので、他者とは共有できない。
監督と主演、脚本が同一人物、ついでに観客も自分、のようなもの。
(プロデューサーとスポンサーには協力していただくとして、、、)
さらにこの自分劇場、自分映画は、公開していない。
シェアは不可能。
守護神とは少し違う。
「守護神」というと摩訶不思議な霊にリンクしているようで(思い込みだとしても)、自分の意志とは裏腹にくっついて来る気持ち悪いニュアンスをわたしは敬遠する。
たとえ先祖の目に見えない加護がわたしを守ってくれる、という発想だとしても、「霊」そのものには抵抗がある。
わたし独自が作り出している「霊」の概念がある。
実際、霊に接触したという話や人がいるが、わたしは耳を貸さない。
納豆やギャンブルが嫌い、のようなかんじ?
目に見えないものが「霊」だとすると、せめて、成仏し昇華した「魂」であるならまだしも。

霊が禍いして悪さする、不幸に陥れるという説がある。
悪霊が取り憑くらしい。
悪霊を取り除かなければならないとか。
除霊。
実際、不幸が続く家や物件だとかには、除霊してもらうことがあるようだ。

この手の考え方には、ほんの少しのスキや落ち度やマイナスが生じると、たちまちに胡散臭い人が嗅ぎ付けて来る。
霊媒師、霊、、、などなどとは関わりたくない。
人の不幸に、蜜にたかる蟻のように群がる人々がいる。
心身が弱っていると、思考力が停止する瞬間があるので要注意。
が、藁をもすがる気持ちというものがあるのだろう。
科学が解決できないことを精神世界で解決しようとする。
科学で解決できないことは山のようにある。
原因や現象はわかっていても、根本的に解決できない。
隕石が飛んで来ないようには出来ない。
巨大隕石を迎撃できない。
ゲリラ豪雨など、雨の量を調整できない。
せいぜい、予想や予報、先人の知恵やAIを駆使して危機管理し、被害を最小限に食い止めるぐらいか。
地球温暖化対策には啓蒙啓発が必要。
あるいは、哲学か宗教に解決や救いを求める。
芸術なんていう方法もある。
音楽療法だとか、動物と触れ合って改善する療法だとか。
こころと身体はリンクしている。


たまたま幸運にも、不幸に見舞われなかった。
大きなプラスは、大きなマイナスがないこと。
プラマイゼロで安堵。
ほんの少しでもプラスなら儲けものである。

マイナスになった時はどうするか。
事後処理、やるべき義務はこなして、あとは引っ込む。
ジタバタせずに、じっとしておく。
傷が癒えるまで洞穴から出ない。
自然治癒力に任せる。

損切りしても、いつまでもマイナス、血が止まらない時は、それはそれ。
それも運命。
最低限の処置を施し、復活を信じて待つしかない。
復活を信じなければよいかも。
希望を絶たれ、絶望感に見舞われるのではなく、復活しようと思わない、という選択も一つの道である。
だが、普通、人間は弱いので、絶望すると生きていけない。


わたしは自分の力以上の場所に生を受けた。
死ぬ時は、等身大の自分か。
誰も評価してしてくれるわけではない。
評価を求めて行動するのは、わたしの美学に反する。
評価は自分が自分に下す。
が、現実を見ずに理想ばかり追い求めるのは、痛い。
現実をちゃんと正確に見て、正確に理解して把握するのが大事。
元も子もない、情けない現実を突きつけられても、耐えられるラフな精神が必要。
あるいは、ハッキリ見えすぎるメガネから、あまりよく見えないメガネに掛け替える。
老化で自然に目は曇る、、、神様からのプレゼントか。


ちなみに、話はころっと変わる。
商業と芸術は、相容れないが、微妙な関係。
仲良くしなければ。
宗教と政治とカネが結びつき、絶大な権力を生む。
お手上げだ。歴史は物語る。歴史は繰り返す。

今、わたしが孫が宿題をしている隣で静かに読んでいるのは「世界の歴史」。
その前に眺めていたのが、世界地図。
次女が、長女の2番目孫K(次女の甥)に、8歳の誕生日に先日プレゼントした動物図鑑を、孫Kが持ってきた。
その図鑑のカバーの裏には、2つの世界地図が描かれ、左半分には国名分けされた地図、右半分は標高地図になっている。
わたしはじっと見ていた。
意外にクロアチアが広い国土を有することに驚いた。
世界の主な山脈も、ほほぅと眺めた。
日本は世界地図の真ん中に位置していた。
子供の頃はもちろん、ごく最近まで、日本が真ん中に描かれている世界地図になんの疑問も抱かなかった。
が、「極東」とよく言われていたことにも何の抵抗も意識も持たず、すんなり受け入れていた。
真ん中にあるのに、なぜ極東なの?なんて、全然思わなかった。
眠っている意識というものは、そんなものだ。

で、今、わたしは「世界の歴史」を見ているわけだが、「読んでいる」のではないのは、、、。
漫画だからだ。
漫画であろうが文字ギッシリであろうが、書いてある内容は同じ。
ページはまだマンモス時代からやっと古代文明に差し掛かるところ。
先は長いが、面白い。60の手習。
識字能力がないようなかんじで、読み進めていく。
この漫画は、じつはわたしが子供たちのために、35?年ぐらい前に買ったもの。
いずれ自分が読むことになるとは、同時は思いもよらなかったか、ちらりと脳裏をかすめたか定かではないが。
この漫画、日本の歴史シリーズなどもまだ控えている。
知っていることを知らないこととして再度触れるのは、面白い。
脳が喜んでいる。
これは学校で試験があるわけでもなく義務でもなんでもないので、完全に脳が解放されている。
自由な状態で自由意志で自主的にすることの素晴らしさ、楽しさ。
解放される喜びを噛み締めている。

だが、最後に。
書物に書かれている内容は、ころっと変わる場合がある。
歴史は書き替えられる可能性もあることを脳の隅っこに置く。
一つの考えや知識に凝り固まっては危険である。
しかし、多種多様な情報が渦巻くインターネットの海に溺れてしまわないよう、自分の核が必要だ。
フェイクニュースにいたっては、どう防御すればよいのか。
大変な時代である。


泣かれた朝

2022-10-01 | 子育て
秋晴れ。

孫、小学生男子児童(2年生と4年生)、2人がやって来た。
日によっては、親も下の女児きょうだいたちも来ず、男児2人だけのこともある。
親の仕事の関係でスケジュールが刻まれている。

なかなか来ないと、ひょっとして今日は来ないのかな?と思ったりする。
GPS機能搭載、手のひらサイズの携帯用の子供見守りツールを下の男児(弟)Kは親に持たされている。
学校からの行き帰りなど、移動中もどこにいるのかわかるようになっている。
帰宅が遅いとまだ学校にいるのかチェックできる。
昨日は、GPSでは家に到着したものの、家から移動しない。
1時間近く経って、兄ちゃんYと首を揃えて我が家に現れた。

ああ、来てくれたのね。
大歓迎!!となる。
来たら来たでうるさいのだけれど。

・・・・・
シルバーウィークの旅行で、わたしは男児たちと同室に部屋を割り振られた。
男児ジジババチームである。
女性はわたしのみ。
その一方で、女児保育所組はパパママチームへ。
パパママチームは、男性はパパのみ。
男女比率が偏っているが、お互い、性別枠を通り越した年齢。
問題なし。
それはよいのだが、男児たちは寝相が悪く、安眠妨害甚だしい。
まあそれはそれとして。
2日目はさらに、ジジババ男児チームは分割され、ジジ&下男児K、ババ&上男児Yが同室になった。
この4人は大人1人に子供1人、お互い好きなように組み合わせてオッケーということだったが、早いもの勝ち、リクエスト制、空気を読む、強硬一方的、、、なんでも良かった。
さあ、誰が誰を取る?睨み合いが続いた。
相思相愛もあり得るが、どっちも嫌、なんてのも大いにあり得る。
片思いや、人気集中や、余りモノ売れ残りになることも想定内。
さあどうする?誰にする?
遠慮、思惑、気遣い、忖度が渦巻く静かな時間。
穏やかな睨み合いの後、自然な流れで(主にわたしの意向)、組み合わせは決まった。
別にトラブルも混乱も、後のクレームも(さほど)なかった。
ジジは下の男児K、ババは上の男児Yになった。
めでたし、めでたし。
わたし以外に要望(リクエスト)を持つ人物はいなかったので、すんなり行った。

なぜわたしが上男児Yを選んだか。
他でもない、、、下男児Kは、強烈に寝相が悪いと聞いていたからだ。
ダブルベッドなので、寝相は重要な要因だ。
が、蓋をあけてみると、まあなんと上男児Y(兄ちゃん)も寝相の悪いこと。
わたしは蹴られまくり1時間置きに目が覚めた。
子供って、こんなに寝相が悪いものなんだ、、、一緒に寝ないから、すっかり忘れていた。
・・・・・

やきもきしていたが、元気よく現れた2人。
GPSによると、下男児Kは自宅に帰って1時間後に、うちに来た。
後から下校して帰ってくる兄ちゃんYを待っていたらしい。

2人の元気な顔を見ると、ホッとした。
孫たちは自分の家に居るほうが快適なのではないか、ばあちゃんちに来たくないのでは?
と、必要以上に安堵したには理由がある。

旅行のホテルでの朝、5時から起きて「一緒に遊ぼう」と、親の別部屋に行ってトランプを持ってきて準備していた下男児Kの要求をむげに断ったことをわたしは気にしていた。
あの時は同室の3人(ジジババ、上男児Y)全員が皆んな用事(ジジババ)やTVを見たかった(上男児Y)ため、下男児Kのリクエストを断った。
しつこく、遊ぼうよー、と下男児Kはアピールしていたが、皆んなにお断りスルーされ、しくしく泣き出した。
泣いてもなだめるわけじゃなし、トランプに付き合うわけじゃなし、3人ともそれまでの自分の行動を黙々と続けた。
「ごめん、これ今やらないといけないから遊べないのよ」とはわたしは言ったが、下男児Kは、しくしく泣くばかり。
遊べないものは遊べない。
「ひとりでトランプしろ」と上男児Yに言われ、三角座りして下男児Kは膝をかかえていた。
もう小学2年にもなって、いくらなんでもそんな自分の思いが達成できないからって、めそめそしているのには、可哀想でもあり、また、でもなあ、、、と、わたしは自分のことを優先するほうが大事と強行した。
とは言っても、自分の用事なんて仕事でも緊急事態でもなんでもない自由度の高いお遊びなのだが。

後でママに、この、めそめそ事件を報告すると意外な一言が返ってきた。
「Kは、大人は子供の要望を聞いてくれなくてもいいんだ、無視してもいいんだ、と学んだんじゃない?」
無視した我々が悪いかのような発言にわたしはいささか驚いた。
朝5時から旅先のホテルで子供のトランプに付き合わなければ非難されるのか?
何もすることがないのに、とか、気が進まないならいざ知らず、用事があるという歴然とした理由があるにもかかわらず。(が、たいした用事ではないところが堂々と胸を張れないところ)
単なるトランプではあるが、自責の念を持たなければならないのか、と、わたしの問題意識として脳内に引っかかっていた。

と、長々書いた。
そんなこんなで、そろそろYK兄弟が来る時間になっても来ないと、先日の旅行が頭に浮かんだ。
そういう事情があり、トランプ事件の翌日に本人Kに直接「ごめんねー」と謝ったものの、Kは深くこころを痛めて、ばあちゃんなんか嫌いになっていたらどうしよう、と懸念した。

しかし、孫の言うことばっかり聞かないばあちゃんである。
自分のことも優先することもある。
折り合いをつける。
気に入られるために、なんでもハイハイと要望を飲んでいたらロクなことがない。
フロアは傷だらけ、椅子やソファはクタクタ、べたべたぼろぼろ、仕方ないといってももう10年が経ち、まだ下は2歳(さらに次女のところには、1歳児もいる)、ばあちゃんの生活を脅かす。
なので、そこは、お互い調整が大事なのだ。

あんなに尽くした孫なのに、、、と将来、寄り付かなくなって嘆くよりは、
あまり無理に頑張って尽くさない。
自分が出来る範囲でする。
やがて寄り付かなくなる日は必ず来るから、後悔しないように今の孫たちとの日常を楽しむ。
今、将来、さじ加減が必要だ。
自分や周りに、あまり期待しないこと。
評価を求めてはいけない。
楽しみながら、出来る範囲で奉仕すること。

自分が、自分の祖母を見て、
子供たちから、子供たちの祖母を見て、
孫たちからわたしを見て、
孫育ても順送りかなと。