12月12日(金)に「東京オリンピック・パラリンピック招致サポーター大集合!」という催しが開かれました。私は知人から聞き、WEB上から入場券を取得して参加しました。
会場の「国立代々木第一体育館」は、1964年に東京オリンピックが開催された時の水泳会場です。今回は一階がアリーナになり、大きな会場となりました。入場者は1万人。熱気にあふれていました。
8年後のオリンピック、次回のロンドン大会に続いて行われる大会の候補地は、今年6月、立候補都市として「東京、シカゴ(アメリカ)、リオデジャネイロ(ブラジル)、マドリード」の4都市が選定されました。そして、来年10月にはこの中から開催都市が決定することになっています。
東京は選定の時には得点は一位で通過しました。評価点が低かったのは都民や国民の熱意が低いという一点だけでした。
この催しでは、「招致運動」をさらに盛り上げるため、北島康介選手が登場し、東京オリンビック・バラリンビック招致応援党の党首ということになりました。北島選手は、テレビでなく近くで見ると、オーラを感じるのが不思議でした。写真は党首となった北島選手が石原都知事と握手しているところ
他にも多くのアスリートが登場しましたが口々に「オリンピックをもう一度東京で開き、次の世代にトップアスリートの競技する姿を見せたい」といっていたことです。
私が高校生3年の時に「東京オリンピック」がありました。この時「ボクシング」と「サッカー」を会場で実際に見ました。
ボクシングは準決勝を見ました。ボクシングは、後にも先にもこの時しか実際に見たことはありません。
まず感じたのは、「会場、リンク、選手のトランクスといったものがとても美しい」ことでした。その反面、パンチが本当にあたったときには凄い音がするということが驚きでした。
日本の選手ではバンタム級に桜井孝雄選手が登場、堅実なアウトボクシングを展開し勝ちました。その後、決勝でも勝って金メダルを獲得しています。さすが地元ということもあって声援はたいへんなものでした。
強い印象に残っているのは、ヘビー級でした。準決勝というものものの、おそらく、これが事実上の決勝戦であったと思います。ジョー・フレージャー選手(アメリカ)とロシアの選手の戦いでした。ロシアの選手は身体が大きく、ヘビー級としては小柄なジョー・フレージャー選手は1R、2Rと攻め込まれ敗色濃厚でした。しかし、3Rになり決定的なパンチがヒットしました。この時でした、静まりかえっていた会場にいた多くのアメリカ人が・・・こんなにいたのかと驚きました・・・ 一斉に立ち上がり拳を振り上げて強烈な声援を始めたのです。当時、アメリカとソ連は冷戦の時代、それを映し出すかのような凄まじいばかりの光景でした。ジョン・フレージャー選手はKO勝ちをしました。そして、金メダルも獲得しています。さらにプロ入りし、世界ヘビー級のチャンピオンにもなりました。
サッカーは聖火の燃える国立競技場で決勝を見ました。中央ヨーロッパの隣国同士のハンガリーとチェコスロバキアとの試合でした。
当時は、日本ではサッカーは人気がありませんでした。チケットは母親が譲り受けて私一人で見に行きました。今だったら、なかなか手に入らないでしょう。
当時、サッカーは体育の時間にはプレイしていたとはいうものの、現在のようには詳しくは知らず、試合のことは良く覚えていませんが、センターライン付近から強烈なシュートを放った選手がいて、今でも強い印象に残っています。この試合はハンガリーが勝ち優勝しました。
もう一つ、「マラソン」で三位に入った円谷幸吉選手が思い出として残っています。私は、高校時代は陸上競技部員で、夏の霧ヶ峰の合宿に行ったとき、まだ無名だった円谷幸吉選手はアジア大会には出られず、同じく霧ヶ峰にある日本陸連の合宿所で一人練習をしていました。私たち三人の長距離部員が、クロスカントリーコースで何周も回っていた円谷選手と一緒に、一周走らせてもらってもいいですかと円谷選手のコーチに聴いたところOKということでした。そこで、一緒に走らせてもらいました。一周1kmほどのコースでしたが、走り出し途端に、もうついて行くことが出来なかったことを覚えています。
円谷選手は、オリンピックの時は大歓声の中、国立競技場には二位で入ってきました。しかし、イギリスの選手に残念ながら、抜かれてしまいました。円谷選手は、あとで「追われているのに気がつかなかった」と話していました。この時の優勝はアベベ選手でした。
以上が、私の「1964年の東京オリンピック」の思い出ではありますが、「やっぱり、オリンビックに出場するトップアスリートは素晴らしいということです。そうした人々を、次世代の人達のためにも、ぜひ東京に呼びたい」と思います。
「アトラクション」では、ポスターでも少し見られるように、STAS(元松竹歌劇団)のラインダンス、市川右近・左近さんの歌舞伎の「連獅子」が行われました。連獅子はきらびやかでした。獅子が私のすぐ真横の通路を走るのをみて歌舞伎の迫力を身を持って体験出来ました。
また、東京女子体育大学の新体操部の演技もありました。
最後を締めたのは「鬼太鼓座(おんでこざ)」。尺八との合奏「アメージング・グレース」が素晴らしい演奏でした。
オリンピックは、こうした日本の素晴らしい伝統文化を世界に伝えていくことにも良い機会であると思います。
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会場の「国立代々木第一体育館」は、1964年に東京オリンピックが開催された時の水泳会場です。今回は一階がアリーナになり、大きな会場となりました。入場者は1万人。熱気にあふれていました。
8年後のオリンピック、次回のロンドン大会に続いて行われる大会の候補地は、今年6月、立候補都市として「東京、シカゴ(アメリカ)、リオデジャネイロ(ブラジル)、マドリード」の4都市が選定されました。そして、来年10月にはこの中から開催都市が決定することになっています。
東京は選定の時には得点は一位で通過しました。評価点が低かったのは都民や国民の熱意が低いという一点だけでした。
この催しでは、「招致運動」をさらに盛り上げるため、北島康介選手が登場し、東京オリンビック・バラリンビック招致応援党の党首ということになりました。北島選手は、テレビでなく近くで見ると、オーラを感じるのが不思議でした。写真は党首となった北島選手が石原都知事と握手しているところ
他にも多くのアスリートが登場しましたが口々に「オリンピックをもう一度東京で開き、次の世代にトップアスリートの競技する姿を見せたい」といっていたことです。
私が高校生3年の時に「東京オリンピック」がありました。この時「ボクシング」と「サッカー」を会場で実際に見ました。
ボクシングは準決勝を見ました。ボクシングは、後にも先にもこの時しか実際に見たことはありません。
まず感じたのは、「会場、リンク、選手のトランクスといったものがとても美しい」ことでした。その反面、パンチが本当にあたったときには凄い音がするということが驚きでした。
日本の選手ではバンタム級に桜井孝雄選手が登場、堅実なアウトボクシングを展開し勝ちました。その後、決勝でも勝って金メダルを獲得しています。さすが地元ということもあって声援はたいへんなものでした。
強い印象に残っているのは、ヘビー級でした。準決勝というものものの、おそらく、これが事実上の決勝戦であったと思います。ジョー・フレージャー選手(アメリカ)とロシアの選手の戦いでした。ロシアの選手は身体が大きく、ヘビー級としては小柄なジョー・フレージャー選手は1R、2Rと攻め込まれ敗色濃厚でした。しかし、3Rになり決定的なパンチがヒットしました。この時でした、静まりかえっていた会場にいた多くのアメリカ人が・・・こんなにいたのかと驚きました・・・ 一斉に立ち上がり拳を振り上げて強烈な声援を始めたのです。当時、アメリカとソ連は冷戦の時代、それを映し出すかのような凄まじいばかりの光景でした。ジョン・フレージャー選手はKO勝ちをしました。そして、金メダルも獲得しています。さらにプロ入りし、世界ヘビー級のチャンピオンにもなりました。
サッカーは聖火の燃える国立競技場で決勝を見ました。中央ヨーロッパの隣国同士のハンガリーとチェコスロバキアとの試合でした。
当時は、日本ではサッカーは人気がありませんでした。チケットは母親が譲り受けて私一人で見に行きました。今だったら、なかなか手に入らないでしょう。
当時、サッカーは体育の時間にはプレイしていたとはいうものの、現在のようには詳しくは知らず、試合のことは良く覚えていませんが、センターライン付近から強烈なシュートを放った選手がいて、今でも強い印象に残っています。この試合はハンガリーが勝ち優勝しました。
もう一つ、「マラソン」で三位に入った円谷幸吉選手が思い出として残っています。私は、高校時代は陸上競技部員で、夏の霧ヶ峰の合宿に行ったとき、まだ無名だった円谷幸吉選手はアジア大会には出られず、同じく霧ヶ峰にある日本陸連の合宿所で一人練習をしていました。私たち三人の長距離部員が、クロスカントリーコースで何周も回っていた円谷選手と一緒に、一周走らせてもらってもいいですかと円谷選手のコーチに聴いたところOKということでした。そこで、一緒に走らせてもらいました。一周1kmほどのコースでしたが、走り出し途端に、もうついて行くことが出来なかったことを覚えています。
円谷選手は、オリンピックの時は大歓声の中、国立競技場には二位で入ってきました。しかし、イギリスの選手に残念ながら、抜かれてしまいました。円谷選手は、あとで「追われているのに気がつかなかった」と話していました。この時の優勝はアベベ選手でした。
以上が、私の「1964年の東京オリンピック」の思い出ではありますが、「やっぱり、オリンビックに出場するトップアスリートは素晴らしいということです。そうした人々を、次世代の人達のためにも、ぜひ東京に呼びたい」と思います。
「アトラクション」では、ポスターでも少し見られるように、STAS(元松竹歌劇団)のラインダンス、市川右近・左近さんの歌舞伎の「連獅子」が行われました。連獅子はきらびやかでした。獅子が私のすぐ真横の通路を走るのをみて歌舞伎の迫力を身を持って体験出来ました。
また、東京女子体育大学の新体操部の演技もありました。
最後を締めたのは「鬼太鼓座(おんでこざ)」。尺八との合奏「アメージング・グレース」が素晴らしい演奏でした。
オリンピックは、こうした日本の素晴らしい伝統文化を世界に伝えていくことにも良い機会であると思います。
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