「正一位藤丸大明神」の幟や提灯を掲げて祭典を営む天理市東井戸堂の八軒屋地区。
4月15日には地区の周囲にある八王子さんに提灯を掲げるハツオージサンがある。
田畑にぽつりとある塚らしき付近に提灯を立てる。
その数は8か所。
二手に分かれて掲げるので拝見するには2年もかかる。
平成21年、22年に取材させていただいた地区である。
当時に聞いていたオシタキさんの行事は川の傍に鎮座する稲荷神社で行われる。
八軒屋はその名の通りのかつては八軒の集落であったが現在は50軒ほどに膨れ上がった。
南、北、中島、出屋敷垣内の稲荷講ヤドがそれぞれ供えた御供はダイコン、ニンジン、シイタケ、ホウレンソウの立て御膳。
そこに三角のアブラゲ2枚とモチゴメを蒸したセキハンも供える稲荷神社オシタキさん。
「オシタキさん」は「お火焚き」が訛った行事名であるが、火の祭典もなく石上神宮の神官が来られての祭典である。
「オシタキさん」は3月の初午祭と12月のオシタキさんの年2回。
祭典を手伝うのは地区の長寿会の方々。
てきぱきと動き回る。
かつては村の神主が祭祀していたと話す稲荷神社は拡幅など何度も改修工事がされてきた川。
その都度において北へ北へと移動したという。
稲荷神社の社はかつての春日大社のコミヤサンであったと伝わる。
西井戸堂町にも移ったことがあるらしい。
西井戸堂町には山邊御縣坐神社が鎮座する。
遷宮の際に東井戸堂へ遷された社を稲荷社として祀られたそうだ。
朱塗りの鳥居にその年月があると云う。
拝見すれば昭和43年12月と平成16年10月。
どうやら昭和の時代だったようだ。
稲荷神社の本殿は真新しい。
それが平成16年だったと話す長寿会の人たち。
祓えの儀、祝詞奏上、玉串奉奠の神事を終えれば御供を下げる。
垣内のヤドが供えた御供はそれぞれの垣内に戻っていく。
祭典の後片付けもてきぱきと済ませた人たちは社務所にあがって直会で祭典を終えた。
(H24.12. 8 EOS40D撮影)
4月15日には地区の周囲にある八王子さんに提灯を掲げるハツオージサンがある。
田畑にぽつりとある塚らしき付近に提灯を立てる。
その数は8か所。
二手に分かれて掲げるので拝見するには2年もかかる。
平成21年、22年に取材させていただいた地区である。
当時に聞いていたオシタキさんの行事は川の傍に鎮座する稲荷神社で行われる。
八軒屋はその名の通りのかつては八軒の集落であったが現在は50軒ほどに膨れ上がった。
南、北、中島、出屋敷垣内の稲荷講ヤドがそれぞれ供えた御供はダイコン、ニンジン、シイタケ、ホウレンソウの立て御膳。
そこに三角のアブラゲ2枚とモチゴメを蒸したセキハンも供える稲荷神社オシタキさん。
「オシタキさん」は「お火焚き」が訛った行事名であるが、火の祭典もなく石上神宮の神官が来られての祭典である。
「オシタキさん」は3月の初午祭と12月のオシタキさんの年2回。
祭典を手伝うのは地区の長寿会の方々。
てきぱきと動き回る。
かつては村の神主が祭祀していたと話す稲荷神社は拡幅など何度も改修工事がされてきた川。
その都度において北へ北へと移動したという。
稲荷神社の社はかつての春日大社のコミヤサンであったと伝わる。
西井戸堂町にも移ったことがあるらしい。
西井戸堂町には山邊御縣坐神社が鎮座する。
遷宮の際に東井戸堂へ遷された社を稲荷社として祀られたそうだ。
朱塗りの鳥居にその年月があると云う。
拝見すれば昭和43年12月と平成16年10月。
どうやら昭和の時代だったようだ。
稲荷神社の本殿は真新しい。
それが平成16年だったと話す長寿会の人たち。
祓えの儀、祝詞奏上、玉串奉奠の神事を終えれば御供を下げる。
垣内のヤドが供えた御供はそれぞれの垣内に戻っていく。
祭典の後片付けもてきぱきと済ませた人たちは社務所にあがって直会で祭典を終えた。
(H24.12. 8 EOS40D撮影)