月参りの薬師さんを終えた南六条南方の婦人たちは南側にある観音堂に場を移す。
「観音堂にお砂の袋があります」と見せてくださったのは四国八十八カ所霊場で賜ったお砂だ。
昭和の時代に村の人が四国に参った。
町内安全を願って授かったお砂は4月21日のお大師さんのときに踏むと云う。
聖地の砂を踏むことで四国八十八カ所を巡拝したことと同じのありがたい功徳になるそうだ。
かつて観音堂で営んでいたのは観音講の人たちであったようだ。
毎月17日がお勤めであった。
今では村の婦人の長寿会が行っている。
観音堂に安置されている仏像は2体。
いずれも十一面観世音菩薩立像である。
永正二年(1505)三月に宮境内に移したと伝わる十一面観世音菩薩立像である。
脇侍に2体の四天王像がある。
右・広目天と左・増長天(若しくは持国天)のようだ。
伝承(萬葉集畧解・大和名稱録)によれば往古は龍王山(引手山とも)眞福寺と呼ばれていた宮寺で安置されていた。
その地はカンノンバタケと呼ばれる小字であるようだ。
仏像を安置する段には弘法大師像もある。
お砂踏みをされる4月21日の営みは観音堂でされるらしい。
薬師さんと同様にお花を飾ってローソクを灯す。
堂師が前に座って念仏を唱える。
観音さんの念仏は先ほど唱えた真身観文(しんじんかんのん)から始める。
一節ごとに鉦を叩くのも同じである。
薬師堂よりも僅かに広い観音堂ではあるが堂内にあがれる人数は限りがある。
念仏を終えると西国三十三番のご詠歌を唱える。
始めは番外のいのうえの観音さんだ。
きいのくにの一番から通しで唱えるご詠歌は二十三番で休憩。
長丁場のご詠歌はどことも同じ個所で休憩される。
お茶を一服いただいて二十四番から再開する。
続けて新四国七十九番のご詠歌も唱えた。
導師が叩く鉦とともに打たれるおリン。
一番ごとに2回だ。
たにぐみ、ならにがつどう、かうや山、ぜんこうじなどの番外も。
最後に般若心経を三巻唱えて終える観音さんの月参りは一年に12回のお勤めである。
『庚 文政三年辰春(1820) 願主矢利揚げる奏文 本尊十一面観世音』の扁額が掲げられている観音堂には萬治二年(1659)に寄進された鰐口があった。
「施主 聖明明尼敬白 萬治二年 衆生為三源楽世三月十八日」の文字が読み取れた。
当時は尼僧がおられたようだ。
(H25. 3. 9 EOS40D撮影)
「観音堂にお砂の袋があります」と見せてくださったのは四国八十八カ所霊場で賜ったお砂だ。
昭和の時代に村の人が四国に参った。
町内安全を願って授かったお砂は4月21日のお大師さんのときに踏むと云う。
聖地の砂を踏むことで四国八十八カ所を巡拝したことと同じのありがたい功徳になるそうだ。
かつて観音堂で営んでいたのは観音講の人たちであったようだ。
毎月17日がお勤めであった。
今では村の婦人の長寿会が行っている。
観音堂に安置されている仏像は2体。
いずれも十一面観世音菩薩立像である。
永正二年(1505)三月に宮境内に移したと伝わる十一面観世音菩薩立像である。
脇侍に2体の四天王像がある。
右・広目天と左・増長天(若しくは持国天)のようだ。
伝承(萬葉集畧解・大和名稱録)によれば往古は龍王山(引手山とも)眞福寺と呼ばれていた宮寺で安置されていた。
その地はカンノンバタケと呼ばれる小字であるようだ。
仏像を安置する段には弘法大師像もある。
お砂踏みをされる4月21日の営みは観音堂でされるらしい。
薬師さんと同様にお花を飾ってローソクを灯す。
堂師が前に座って念仏を唱える。
観音さんの念仏は先ほど唱えた真身観文(しんじんかんのん)から始める。
一節ごとに鉦を叩くのも同じである。
薬師堂よりも僅かに広い観音堂ではあるが堂内にあがれる人数は限りがある。
念仏を終えると西国三十三番のご詠歌を唱える。
始めは番外のいのうえの観音さんだ。
きいのくにの一番から通しで唱えるご詠歌は二十三番で休憩。
長丁場のご詠歌はどことも同じ個所で休憩される。
お茶を一服いただいて二十四番から再開する。
続けて新四国七十九番のご詠歌も唱えた。
導師が叩く鉦とともに打たれるおリン。
一番ごとに2回だ。
たにぐみ、ならにがつどう、かうや山、ぜんこうじなどの番外も。
最後に般若心経を三巻唱えて終える観音さんの月参りは一年に12回のお勤めである。
『庚 文政三年辰春(1820) 願主矢利揚げる奏文 本尊十一面観世音』の扁額が掲げられている観音堂には萬治二年(1659)に寄進された鰐口があった。
「施主 聖明明尼敬白 萬治二年 衆生為三源楽世三月十八日」の文字が読み取れた。
当時は尼僧がおられたようだ。
(H25. 3. 9 EOS40D撮影)