安政七年(1860)から先祖代々継承してきた地蔵講の世話人は現在もなお6軒である。
代々の地蔵講の人たちが崇敬してきたのは天理市三昧田(さんまいでん)町にある咳之地蔵だ。
昔は子供が土だんごを供えて祈願していた。
満願の際にはアメを供えたという地蔵会式を営む講中は春日神社の社務所に寄りあう。
かつてはこの地ではなく、村の北外れの上街道(初瀬街道)付近の田んぼにあったという。
その辺りはドウ、ロクジゾウ、ミョウゴウサンとも呼ばれる小字名があるそうだ。
調べてみれば国道信号三昧田町より北方に「名号」の小字地があるかつての上街道だ。
ここら辺りは東大寺所領であったそうだ。
旅人を守ってきたという地蔵さんは南無阿弥陀佛の六字名号石。
六地蔵ともよばれていた地蔵石は天正八年(1580)三月二十四日の刻印が見られるようだが、背面であるだけに未確認。
講中も見ることができない地蔵堂に納められている。
六字名号の下にはなにやら文字が見えるが判読できない。
記録のために一度は奇麗に拓本にとって残しておきたいと講中が話す。
昭和5年に移されたのち、昭和6年3月13日に建立された地蔵堂で落慶式が営まれた。
そのときに写された写真が残っている。
建立された地蔵堂の前でモチを搗く杵と木臼。
「奉納 咳之地蔵尊」と書かれた幟もある。
モチを搗く姿は当時の人たち。
婦人は和服姿だ。
大量に搗かれたモチを丸めている。
搗いたモチは参拝者に配ったと伝わる記録写真には当時の人の名も調べて残しているそうだ。
咳之地蔵さんに供えた御供。
コモチを持った三方にダイコン、ゴボウ、ニンジンの生御膳。両脇にはリンゴ、アメ、パン、バナナの御供立てに鏡餅。
お花も飾った。
お供えは地蔵堂横にある石塔にも捧げられる。
上部に欠損がみられる残欠の石塔には阿弥陀仏が肉彫りされている。
丹波市にある迎乗寺(こうじょうじ)は浄土宗。
エビス祭りで名高い市座神社の西側にある寺は800軒の檀家をもつ大寺だそうだ。
2月15日には涅槃の掛軸を掲げて法要を営んでいると話す住職が来られるまでの時間は講中が残した文書を再確認されていた。
昭和5年9月10日の日付けがある『咳之地蔵尊 堂宇建築寄附芳名帳 世話人』によれば寄附浄財を集めて回った行程が書かれていた。
天理の長柄から奈良の京終(きょうばて)迄の汽車賃は2人分で36銭だった。
近くではなく遠来まで寄附を募って出かけた先は京都までも。
汽車を乗り継いで京都は市電。
2人分で1円70銭だった。
浄財を募った人たちは村を出ていった分家、嫁入り先まで含んでいたのである。
当時集めた浄財の合計は672円。
当時の物価状況が判る史料である。
浄財を募った人たちの名は『昭和5年 浄財喜捨芳名帳 咳地蔵尊世話人』に残されている。
「喜捨」は「きしゃ」と読む。
寄付はしたいが貧しい。
それでも惜しむことなく浄財は喜んで寄付するという意味で芳名帳に記された人たちを「喜捨人(きしゃじん)」と呼ぶと講中は云う。
地蔵堂が建立されたときも屋根瓦であった。
長い年月で経年劣化。
昭和55年10月15日には屋根を葺き替えた。
そのときも浄財を集めたが村費と世話人で賄ったと話す。
地蔵堂の傍らに「文政七年(1824)甲年十二月吉日」の刻印がある石塔がある。
深い四角彫りがある石塔はおそらく灯明が置かれたのであろう。
世話人のN氏の先祖が願主となって建之したそうだ。
その石塔が示す年代が地蔵講の始まりだったと話す講中の営みは毎年の3月15日。
一枚ごとに刷られた「咳之地蔵尊 御膳帳」に「三月十五日會式 山邊郡朝和村大字三昧田 有志者」と記されている。
また「大御膳金 二十銭 小御膳金 十銭」の紙片もある。
かつての会式には浄財による御供があったようだ。
紐で綴じた昭和7年、9年、12年、15年の「咳地蔵尊御膳帳」や「咳地蔵尊諸入費帳」も残されている。
大切な講中の記録である。
ある大学の先生が調べた結果を由来に書きしるした文には「三昧田咳乃地蔵尊由来 江戸時代流行の辻地蔵尊にして、庶民子供の守本尊として、信仰され咳の地蔵尊とて崇拝をしていた。その地蔵尊は江戸初期の銘年号があり(徳川家光公の頃年号末定) 尚近傍の十三塔の中にも藤原期の重根がある 弘化□年 約三百年前」とある。
弘化二年の年代期を記した燈籠が春日神社境内にある。
弘化二年は1845年だ。
今から170年ほど前である。
学者が残された十三石塔年代はとは一致しない。
藤原時代は寛平六年(894)から寿永三年(1184)の頃。
これは相当な開きがある文の内容。
一体どういうことなのであろうか。
その文書も大切にしまわれた講中の文書には明治32年から大正8年間の郵便貯金記入簿もある。
興味深かったのは通帳にあった郵便貯金條例だ。
明治23年8月12日公布、明治24年1月1日實施された法律第63号の条例文は民俗文化としていずれ役に立つときがくるであろうと写させてもらった。
そのような調査を進めていた頃、迎乗寺の住職が到着した。
ご挨拶をされて地蔵堂にあがる。
講中も堂内にあがるが目一杯。
それ以上の参拝者は堂外となる。
ローソクに火を灯して始まった地蔵会式は最初に阿弥陀さんの回向。
迎乗寺のご本尊は阿弥陀如来坐像であるがゆえの回向だ。
次の法要が咳のお地蔵さんである。
講中が焼香される会式は20分ほどで終えた。
村の人たちも供えた御供も下げて分ける。
供えたモチは5合ずつ集めたモチゴメ。
当番のヤドで搗いたそうだ。
6軒で3升(この年は2升)のモチは鏡餅に6合。
残りをコモチにしたという。
そのモチも配られる。
モチ搗きの様相は昭和5年と状況ではないが、配ることは同じだ。
かつてはヤドの家に集まって会食をしていた講中。
陽が落ちる前には地蔵堂の扉を閉めて一旦は解散する。
世話人が再び集まる場所は料理屋。
何代にも亘って継承してきた世話人たちの懇親会である。
世話人の一人が話してくれた大和神社のちゃんちゃん祭。
3月24日にはちゃんちゃん祭のカザグルマを製作するという。
「もしよろしければ」と案内された。
ありがたいことだ。
三昧田の頭人児(とーにんご)は二人。
兄・弟頭屋の2軒である。
今年の回りの垣内は西垣内。
O氏が住む垣内である。
三昧田は四つの垣内である。
ちゃんちゃん祭は旧村の行事。
村の戸数は47戸であるが、全戸からではなく毎年垣内が交替する。
その順番は東、南、北、西垣内である。
4年に一度も回りの垣内である。
戸数は垣内によって大きく幅がある。
今年に担う西垣内は9戸。
2軒が兄・弟頭屋にあたるから16年に一度はあたる計算になるそうだ。
他の垣内はもっと多いからそれより回りの年数が長い。
一番短いのが西垣内である。
頭屋家の子供が頭人児となるが、いつも、いつも対象の子供が居るとは限らない。
そのような場合は垣内の内外問わず村の子供にお願いする頼みの借り子。
それでも充足しない場合は、例えば隣村の兵庫まで借りてくるという。
(H25. 3.15 EOS40D撮影)
代々の地蔵講の人たちが崇敬してきたのは天理市三昧田(さんまいでん)町にある咳之地蔵だ。
昔は子供が土だんごを供えて祈願していた。
満願の際にはアメを供えたという地蔵会式を営む講中は春日神社の社務所に寄りあう。
かつてはこの地ではなく、村の北外れの上街道(初瀬街道)付近の田んぼにあったという。
その辺りはドウ、ロクジゾウ、ミョウゴウサンとも呼ばれる小字名があるそうだ。
調べてみれば国道信号三昧田町より北方に「名号」の小字地があるかつての上街道だ。
ここら辺りは東大寺所領であったそうだ。
旅人を守ってきたという地蔵さんは南無阿弥陀佛の六字名号石。
六地蔵ともよばれていた地蔵石は天正八年(1580)三月二十四日の刻印が見られるようだが、背面であるだけに未確認。
講中も見ることができない地蔵堂に納められている。
六字名号の下にはなにやら文字が見えるが判読できない。
記録のために一度は奇麗に拓本にとって残しておきたいと講中が話す。
昭和5年に移されたのち、昭和6年3月13日に建立された地蔵堂で落慶式が営まれた。
そのときに写された写真が残っている。
建立された地蔵堂の前でモチを搗く杵と木臼。
「奉納 咳之地蔵尊」と書かれた幟もある。
モチを搗く姿は当時の人たち。
婦人は和服姿だ。
大量に搗かれたモチを丸めている。
搗いたモチは参拝者に配ったと伝わる記録写真には当時の人の名も調べて残しているそうだ。
咳之地蔵さんに供えた御供。
コモチを持った三方にダイコン、ゴボウ、ニンジンの生御膳。両脇にはリンゴ、アメ、パン、バナナの御供立てに鏡餅。
お花も飾った。
お供えは地蔵堂横にある石塔にも捧げられる。
上部に欠損がみられる残欠の石塔には阿弥陀仏が肉彫りされている。
丹波市にある迎乗寺(こうじょうじ)は浄土宗。
エビス祭りで名高い市座神社の西側にある寺は800軒の檀家をもつ大寺だそうだ。
2月15日には涅槃の掛軸を掲げて法要を営んでいると話す住職が来られるまでの時間は講中が残した文書を再確認されていた。
昭和5年9月10日の日付けがある『咳之地蔵尊 堂宇建築寄附芳名帳 世話人』によれば寄附浄財を集めて回った行程が書かれていた。
天理の長柄から奈良の京終(きょうばて)迄の汽車賃は2人分で36銭だった。
近くではなく遠来まで寄附を募って出かけた先は京都までも。
汽車を乗り継いで京都は市電。
2人分で1円70銭だった。
浄財を募った人たちは村を出ていった分家、嫁入り先まで含んでいたのである。
当時集めた浄財の合計は672円。
当時の物価状況が判る史料である。
浄財を募った人たちの名は『昭和5年 浄財喜捨芳名帳 咳地蔵尊世話人』に残されている。
「喜捨」は「きしゃ」と読む。
寄付はしたいが貧しい。
それでも惜しむことなく浄財は喜んで寄付するという意味で芳名帳に記された人たちを「喜捨人(きしゃじん)」と呼ぶと講中は云う。
地蔵堂が建立されたときも屋根瓦であった。
長い年月で経年劣化。
昭和55年10月15日には屋根を葺き替えた。
そのときも浄財を集めたが村費と世話人で賄ったと話す。
地蔵堂の傍らに「文政七年(1824)甲年十二月吉日」の刻印がある石塔がある。
深い四角彫りがある石塔はおそらく灯明が置かれたのであろう。
世話人のN氏の先祖が願主となって建之したそうだ。
その石塔が示す年代が地蔵講の始まりだったと話す講中の営みは毎年の3月15日。
一枚ごとに刷られた「咳之地蔵尊 御膳帳」に「三月十五日會式 山邊郡朝和村大字三昧田 有志者」と記されている。
また「大御膳金 二十銭 小御膳金 十銭」の紙片もある。
かつての会式には浄財による御供があったようだ。
紐で綴じた昭和7年、9年、12年、15年の「咳地蔵尊御膳帳」や「咳地蔵尊諸入費帳」も残されている。
大切な講中の記録である。
ある大学の先生が調べた結果を由来に書きしるした文には「三昧田咳乃地蔵尊由来 江戸時代流行の辻地蔵尊にして、庶民子供の守本尊として、信仰され咳の地蔵尊とて崇拝をしていた。その地蔵尊は江戸初期の銘年号があり(徳川家光公の頃年号末定) 尚近傍の十三塔の中にも藤原期の重根がある 弘化□年 約三百年前」とある。
弘化二年の年代期を記した燈籠が春日神社境内にある。
弘化二年は1845年だ。
今から170年ほど前である。
学者が残された十三石塔年代はとは一致しない。
藤原時代は寛平六年(894)から寿永三年(1184)の頃。
これは相当な開きがある文の内容。
一体どういうことなのであろうか。
その文書も大切にしまわれた講中の文書には明治32年から大正8年間の郵便貯金記入簿もある。
興味深かったのは通帳にあった郵便貯金條例だ。
明治23年8月12日公布、明治24年1月1日實施された法律第63号の条例文は民俗文化としていずれ役に立つときがくるであろうと写させてもらった。
そのような調査を進めていた頃、迎乗寺の住職が到着した。
ご挨拶をされて地蔵堂にあがる。
講中も堂内にあがるが目一杯。
それ以上の参拝者は堂外となる。
ローソクに火を灯して始まった地蔵会式は最初に阿弥陀さんの回向。
迎乗寺のご本尊は阿弥陀如来坐像であるがゆえの回向だ。
次の法要が咳のお地蔵さんである。
講中が焼香される会式は20分ほどで終えた。
村の人たちも供えた御供も下げて分ける。
供えたモチは5合ずつ集めたモチゴメ。
当番のヤドで搗いたそうだ。
6軒で3升(この年は2升)のモチは鏡餅に6合。
残りをコモチにしたという。
そのモチも配られる。
モチ搗きの様相は昭和5年と状況ではないが、配ることは同じだ。
かつてはヤドの家に集まって会食をしていた講中。
陽が落ちる前には地蔵堂の扉を閉めて一旦は解散する。
世話人が再び集まる場所は料理屋。
何代にも亘って継承してきた世話人たちの懇親会である。
世話人の一人が話してくれた大和神社のちゃんちゃん祭。
3月24日にはちゃんちゃん祭のカザグルマを製作するという。
「もしよろしければ」と案内された。
ありがたいことだ。
三昧田の頭人児(とーにんご)は二人。
兄・弟頭屋の2軒である。
今年の回りの垣内は西垣内。
O氏が住む垣内である。
三昧田は四つの垣内である。
ちゃんちゃん祭は旧村の行事。
村の戸数は47戸であるが、全戸からではなく毎年垣内が交替する。
その順番は東、南、北、西垣内である。
4年に一度も回りの垣内である。
戸数は垣内によって大きく幅がある。
今年に担う西垣内は9戸。
2軒が兄・弟頭屋にあたるから16年に一度はあたる計算になるそうだ。
他の垣内はもっと多いからそれより回りの年数が長い。
一番短いのが西垣内である。
頭屋家の子供が頭人児となるが、いつも、いつも対象の子供が居るとは限らない。
そのような場合は垣内の内外問わず村の子供にお願いする頼みの借り子。
それでも充足しない場合は、例えば隣村の兵庫まで借りてくるという。
(H25. 3.15 EOS40D撮影)