昭和59年から2年間をかけて調査記録した奈良県教育委員会発刊の『大和の野神行事』報告書がある。
それによれば、橿原市北妙法寺町で行われていた行事名はノガミサンと書かれていた。
ノガミの場はススツケ祭り(平成23年から中断中)をしていた地黄町より西へ数百メートルの地域だ。
かつて北妙法寺村は土橋村・中曽司村・地黄村・曽我村・五井村・寺田村・慈明寺村・大谷村・小槻村からなる高市郡真菅村に属していた。
明治22年(1889)のころである。
その後の昭和31年に市町村合併によって真菅村の村名は消滅したが、各村の名は橿原市の町名で継続された。
橿原市内に存続するノガミの行事は北妙法寺、地黄町、五井町、四条町、慈明寺町、見瀬町、古川町がある。
東坊城町は形式を替えて出垣内が復活させた。
調査報告書には忌部町もあった。
昭和32年頃には途絶えているというが、私が聞いた話しでは大谷町の八幡神社で農神祭と呼ぶ祭典があるらしい。
それはともかく北妙法寺のノガミサンは村の人曰くツナクミの名であった。
北妙法寺は本村で27戸。
昔からの旧村農家であれば18戸。
そのうちの5戸が専業農家になるそうだ。
旧村を囲むように西、南側は新興住宅地。
建築が増えるにつれて、屋就川(若しくは八釣川)から西側集落の旧村は見えなくなった。
地区の氏神さんは春日神社。
社殿傍に建つ公民館は村の寄り合いにも集まる場である。
この辺りは小字垣内。
昼過ぎともなれば村の男性たちが公民館横の集落道に集まって綱を組み始めた。
長老らが太く結った綱は蛇頭(じゃがしら)だ。
ワラ打ちをすることなく、3本組みに束ねた2本のロープを電信柱に括りつける。
それが蛇胴になる心棒。
三人がかりで結っていく。
藁束をその都度手渡して継いでいく。
三人が持っているのは二本のロープに三本拠り。
長いロープを受け持つ三人はその拠り方を見ながら、お互いが捻じれたロープを手渡していく。
ツナクミをする人たちは長老、年配者ばかりだ。
かつては1月7日がツナクミの日であったが、今では集まりやすい第二日曜日に移したと云う。
昔は綱を結う人とロープを持つ人が掛け合うように声があがっていたと話す。
30分ほどすればおよそ20mの長さの蛇の胴体ができあがった。
長老らが縄を結って作った蛇頭(耳・口もある)を胴体の先端に取り付けて、金属製の梯子にぐるぐる巻きで調えた。
一旦、ジャができあがって一旦は休憩。
公民館に上がって一服する間に子供たちが絵馬を墨書で書いていた。
描くのは牛の姿であるが、小学校低学年の子供の腕では牛に見える・・とも言えない絵馬が愛らしい。
隣についたお爺ちゃんがカマやクワを書いていく。
「奉納」の文字も墨書し、竹で作った幣も調える。
公民館でのひとときは春日神社の新嘗祭に供えたにごり酒やお茶で過ごす。
それは蛇に取り付けるのであるが、明日香村稲渕の行事取材に向かわなくてはならず、断念した。
調査報告書によれば調査年の3年前。
昭和56年頃であろうか。
今では旧村農家全戸の行事であるが、当時は輪番で廻る当屋制度があったようだ。
ワラを持ちよる家は当屋。
長い綱を結って組む際に仲間うちで巻きあったとある。
蛇ができあがれば集落南側を流れる屋就川上流にあるヨノミの木に巻き付ける。
その場に向かう道中では、年内に婿養子と嫁取りした家に出向いて土足で家まで上がり込んで家人に巻き付けたとある。
ジャは梯子に乗せて、当屋、アトサキ当屋、手伝い人らが担いでヨノミの木に巻き付けたようだ。
その場は村の入り口であると書かれていた。
ツナクミの日より二日後に再訪した北妙法寺。
胴体は幹周りが太くなったヨノミの木の下。
上の方には巻き付けた蛇頭がある。
蛇頭を揚げた方角はアキの方。
今年は東北東である。
そこには竹の幣と墨書された牛に農具の絵馬や奉納の書の重ね合わせが見られた。
ツナクミの際に話していた長老の回顧話。
当時は、蛇を巻きつけたままの人を近鉄電車付近にあった壕に放り込んだと話していた。
(H26. 1.12 EOS40D撮影)
(H26. 1.14 EOS40D撮影)
それによれば、橿原市北妙法寺町で行われていた行事名はノガミサンと書かれていた。
ノガミの場はススツケ祭り(平成23年から中断中)をしていた地黄町より西へ数百メートルの地域だ。
かつて北妙法寺村は土橋村・中曽司村・地黄村・曽我村・五井村・寺田村・慈明寺村・大谷村・小槻村からなる高市郡真菅村に属していた。
明治22年(1889)のころである。
その後の昭和31年に市町村合併によって真菅村の村名は消滅したが、各村の名は橿原市の町名で継続された。
橿原市内に存続するノガミの行事は北妙法寺、地黄町、五井町、四条町、慈明寺町、見瀬町、古川町がある。
東坊城町は形式を替えて出垣内が復活させた。
調査報告書には忌部町もあった。
昭和32年頃には途絶えているというが、私が聞いた話しでは大谷町の八幡神社で農神祭と呼ぶ祭典があるらしい。
それはともかく北妙法寺のノガミサンは村の人曰くツナクミの名であった。
北妙法寺は本村で27戸。
昔からの旧村農家であれば18戸。
そのうちの5戸が専業農家になるそうだ。
旧村を囲むように西、南側は新興住宅地。
建築が増えるにつれて、屋就川(若しくは八釣川)から西側集落の旧村は見えなくなった。
地区の氏神さんは春日神社。
社殿傍に建つ公民館は村の寄り合いにも集まる場である。
この辺りは小字垣内。
昼過ぎともなれば村の男性たちが公民館横の集落道に集まって綱を組み始めた。
長老らが太く結った綱は蛇頭(じゃがしら)だ。
ワラ打ちをすることなく、3本組みに束ねた2本のロープを電信柱に括りつける。
それが蛇胴になる心棒。
三人がかりで結っていく。
藁束をその都度手渡して継いでいく。
三人が持っているのは二本のロープに三本拠り。
長いロープを受け持つ三人はその拠り方を見ながら、お互いが捻じれたロープを手渡していく。
ツナクミをする人たちは長老、年配者ばかりだ。
かつては1月7日がツナクミの日であったが、今では集まりやすい第二日曜日に移したと云う。
昔は綱を結う人とロープを持つ人が掛け合うように声があがっていたと話す。
30分ほどすればおよそ20mの長さの蛇の胴体ができあがった。
長老らが縄を結って作った蛇頭(耳・口もある)を胴体の先端に取り付けて、金属製の梯子にぐるぐる巻きで調えた。
一旦、ジャができあがって一旦は休憩。
公民館に上がって一服する間に子供たちが絵馬を墨書で書いていた。
描くのは牛の姿であるが、小学校低学年の子供の腕では牛に見える・・とも言えない絵馬が愛らしい。
隣についたお爺ちゃんがカマやクワを書いていく。
「奉納」の文字も墨書し、竹で作った幣も調える。
公民館でのひとときは春日神社の新嘗祭に供えたにごり酒やお茶で過ごす。
それは蛇に取り付けるのであるが、明日香村稲渕の行事取材に向かわなくてはならず、断念した。
調査報告書によれば調査年の3年前。
昭和56年頃であろうか。
今では旧村農家全戸の行事であるが、当時は輪番で廻る当屋制度があったようだ。
ワラを持ちよる家は当屋。
長い綱を結って組む際に仲間うちで巻きあったとある。
蛇ができあがれば集落南側を流れる屋就川上流にあるヨノミの木に巻き付ける。
その場に向かう道中では、年内に婿養子と嫁取りした家に出向いて土足で家まで上がり込んで家人に巻き付けたとある。
ジャは梯子に乗せて、当屋、アトサキ当屋、手伝い人らが担いでヨノミの木に巻き付けたようだ。
その場は村の入り口であると書かれていた。
ツナクミの日より二日後に再訪した北妙法寺。
胴体は幹周りが太くなったヨノミの木の下。
上の方には巻き付けた蛇頭がある。
蛇頭を揚げた方角はアキの方。
今年は東北東である。
そこには竹の幣と墨書された牛に農具の絵馬や奉納の書の重ね合わせが見られた。
ツナクミの際に話していた長老の回顧話。
当時は、蛇を巻きつけたままの人を近鉄電車付近にあった壕に放り込んだと話していた。
(H26. 1.12 EOS40D撮影)
(H26. 1.14 EOS40D撮影)