山添村の大字広代(ひろだい)でオコナイが行われると知って出かけたが、場所は存知していなかった。
広代は大字春日から大字中峰山へ向かう間にある。
村落は未だに入ったことがなく彷徨っていた。
通りすがりに歩いていた男性に尋ねたところ、これより南側の山麓であると云う菅原神社。
到着したときには3人の村人がおられた。
オコナイ取材の申し出を伝えたが、許可は区長でなければと話される。
しばらく待てばやってきた区長、前区長らの返答は「この日だけの開帳、神さんやからご本尊さんの撮影は厳禁」であるが、オコナイの作法をされる村人らを写すのは構わないと云う。
条件がついた行事の撮影は立ち位置が難しい。
お許しをいただいて本尊厨子脇に座ることにした。
氏神さんを祀る菅原神社が鎮座する広代。
拝殿に掲げた扁額には「天満宮」と書かれていた。
行事が始まるまでの時間帯。
鎮座する後方の山が気になった。
登る道は狭いが参道がある。
それに沿って行きついた地に木の鳥居があった。
愛宕さん、それともコンピラさんであろうか。
それよりも少し歩けば山の神の石が建っていた。
村人の話しによれば正月の七日。
午前0時ともなればお供えをする人が来ると云う。
時間帯は決まっておらず、村人めいめいの時間帯にやってくるそうだ。
山添村各大字の山の神参りにはクラタテやカギヒキの作法が知られているが、その件はどうやらされていないようだ。
さて、広代のオコナイが行われる場は氏神さんの菅原神社境内に建つ観音堂である。
平安時代後期の作と伝わる十一面観世音菩薩立像を安置している。
宿院仏師若しくは下御門仏所に関係する仏師が作ったとされる山添村の指定文化財。
厨子両扉に美如龍王(びじょりゅうおう)並びに赤誠童子(せきせいどうじ)画が描かれていると立て看板に記されていた。
オコナイ行事を世話するのは三人のトーヤ(当家)。
廻りで担うトーヤである。
予め版木で刷ったごーさんのお札をT字型に割いたハゼノキに挟む。
初めて体験されるトーヤの一人は長老から教わって挟んでいた。
長老は大字春日の申祭りで奉納される菅生春楽社の人。
謡いをされている一人だが、ウルシに被れるから触れることができないと云って近寄らない。
ハゼノキはハゼウルシの木であったのだ。
ごーさんのお札にある文字は右上に「牛」。
右下は「王」でもなく「玉」でもなく、宝印の形である。
左側には「寶印」の文字があり、中央に「観樂寺」であった。
かつての広代には観音堂とは別に「観樂寺」と呼ばれていたお寺があったそうだ。
お札には三カ所に朱印が押される。
「昔はお札の東西南北と中央の五カ所だった」と話す。
ご本尊前の祭壇に載せたお供えは葉付きのダイコンとニンジン。
洗い米と塩を盛った皿もある。
刷ったごーさん札の横には大餅帳(たいぺいちょう)もある。
傍にはハゼウルシに挟んだ4本のごーさんも立てた。
集まった村人は大老講(だいろうこう)と呼ばれるオトナたち。
年齢順に上座から西・東に分かれて交互に座る。
そろそろ始まるという直前、もう一人が「取材させてください」と上がってきた。
存知する人物は葛城のYさんだ。
Yさんは何年も前から広代のオコナイに来ているという。
オコナイは村の初祈祷。
はじめに二人を村人に紹介されたのは区長さんだ。
自己紹介をして初祈祷が始まった。
祈祷されるのは大字春日の不動院住職。
高野山で修業をされたと云う。
ローソクを灯して祈祷願文を唱える。
神名帳および大餅帳を詠みあげる。
そして、般若心経、真言を唱える初祈祷は正月の修正会。
昔は日中、日没、後夜(ごや)の一日三回の悔過作法であったそうだ。
おもむろに始まった太鼓打ちのランジョー。
端っこに居られた長老が長いバチでドン、ドンと打ち叩いた。
かつては大勢の子供たちがお堂にやってきて障子をガタガタさせるとか、障子紙をバリバリに破ったそうだ。
「今日だけは天下御免や」と云って子供たちが作法していたランジョー。
住職が「もうええ」と云われるまで続けていたそうだ。
その昔は、お堂の出入り口の扉をガタガタゆすったとか、外側の板壁を僧侶がドンドンを叩いてぐるりと廻っていたと云う悪魔祓いのランジョーである。
山添村で行われているオコナイは、かつて10カ大字にあったが、今では当地広代の他、大字春日や遅瀬、吉田、大西の5カ大字になったと住職が話す。
一瞬で終わったランジョーの作法は立ち位置から動けず撮り損ねたが、一回だけサービスにしてくださった。
ありがたいお言葉に移動したが、向こう壁であった。
初祈祷を終えた住職は般若湯(酒)をいただいて一服する。
退座された、それからしばらくは当家が摂待される直会に移る。
席に着いたオトナたちに酒を注ぐ当家。
お重に盛った漬けものを口にしてお酒をよばれる。
1時間ほどの直会が終えればごーさん押し。
当家が持つ朱印を一人、一人の額に押していく。
ベンガラの朱の色がくっきりと額に残る。
笑っている男性は元大和郡山市の住民。
今国府町でリカーショップの「凡壺(ぼんこ)」を営業していた大将(大久保利洋)である。
何年か前に大和郡山市の店をたたんで山添村の春日に移った。
その後、大将の奥さんの出里になる大字広代で農家民宿を開業された。
一日一組限定の「里舎(みちのりのやど)」はテレビ放送の「人生の楽園」に取りあげられたことがある。
早朝にお会いした人が大将であったのだ。
農家民宿は今国府町の隣町の小林町の住民が伺ったことがあると云っていた。
出合いは広代で繋がったのである。
それはともかく、祈祷されたごーさんの札は村人が持ち帰って一旦は神棚に置いておくと云う。
4月の半ばともなれば苗代に持ちこんでお札は竹若しくは代用のカシの木に挟んで立てていると云う。
苗箱はJAで購入するようになってからは、苗代を作ることもなくなり、田んぼになったと云う。
その場には花があるヤマツバキも立てるそうだ。
(H26. 1. 5 EOS40D撮影)
広代は大字春日から大字中峰山へ向かう間にある。
村落は未だに入ったことがなく彷徨っていた。
通りすがりに歩いていた男性に尋ねたところ、これより南側の山麓であると云う菅原神社。
到着したときには3人の村人がおられた。
オコナイ取材の申し出を伝えたが、許可は区長でなければと話される。
しばらく待てばやってきた区長、前区長らの返答は「この日だけの開帳、神さんやからご本尊さんの撮影は厳禁」であるが、オコナイの作法をされる村人らを写すのは構わないと云う。
条件がついた行事の撮影は立ち位置が難しい。
お許しをいただいて本尊厨子脇に座ることにした。
氏神さんを祀る菅原神社が鎮座する広代。
拝殿に掲げた扁額には「天満宮」と書かれていた。
行事が始まるまでの時間帯。
鎮座する後方の山が気になった。
登る道は狭いが参道がある。
それに沿って行きついた地に木の鳥居があった。
愛宕さん、それともコンピラさんであろうか。
それよりも少し歩けば山の神の石が建っていた。
村人の話しによれば正月の七日。
午前0時ともなればお供えをする人が来ると云う。
時間帯は決まっておらず、村人めいめいの時間帯にやってくるそうだ。
山添村各大字の山の神参りにはクラタテやカギヒキの作法が知られているが、その件はどうやらされていないようだ。
さて、広代のオコナイが行われる場は氏神さんの菅原神社境内に建つ観音堂である。
平安時代後期の作と伝わる十一面観世音菩薩立像を安置している。
宿院仏師若しくは下御門仏所に関係する仏師が作ったとされる山添村の指定文化財。
厨子両扉に美如龍王(びじょりゅうおう)並びに赤誠童子(せきせいどうじ)画が描かれていると立て看板に記されていた。
オコナイ行事を世話するのは三人のトーヤ(当家)。
廻りで担うトーヤである。
予め版木で刷ったごーさんのお札をT字型に割いたハゼノキに挟む。
初めて体験されるトーヤの一人は長老から教わって挟んでいた。
長老は大字春日の申祭りで奉納される菅生春楽社の人。
謡いをされている一人だが、ウルシに被れるから触れることができないと云って近寄らない。
ハゼノキはハゼウルシの木であったのだ。
ごーさんのお札にある文字は右上に「牛」。
右下は「王」でもなく「玉」でもなく、宝印の形である。
左側には「寶印」の文字があり、中央に「観樂寺」であった。
かつての広代には観音堂とは別に「観樂寺」と呼ばれていたお寺があったそうだ。
お札には三カ所に朱印が押される。
「昔はお札の東西南北と中央の五カ所だった」と話す。
ご本尊前の祭壇に載せたお供えは葉付きのダイコンとニンジン。
洗い米と塩を盛った皿もある。
刷ったごーさん札の横には大餅帳(たいぺいちょう)もある。
傍にはハゼウルシに挟んだ4本のごーさんも立てた。
集まった村人は大老講(だいろうこう)と呼ばれるオトナたち。
年齢順に上座から西・東に分かれて交互に座る。
そろそろ始まるという直前、もう一人が「取材させてください」と上がってきた。
存知する人物は葛城のYさんだ。
Yさんは何年も前から広代のオコナイに来ているという。
オコナイは村の初祈祷。
はじめに二人を村人に紹介されたのは区長さんだ。
自己紹介をして初祈祷が始まった。
祈祷されるのは大字春日の不動院住職。
高野山で修業をされたと云う。
ローソクを灯して祈祷願文を唱える。
神名帳および大餅帳を詠みあげる。
そして、般若心経、真言を唱える初祈祷は正月の修正会。
昔は日中、日没、後夜(ごや)の一日三回の悔過作法であったそうだ。
おもむろに始まった太鼓打ちのランジョー。
端っこに居られた長老が長いバチでドン、ドンと打ち叩いた。
かつては大勢の子供たちがお堂にやってきて障子をガタガタさせるとか、障子紙をバリバリに破ったそうだ。
「今日だけは天下御免や」と云って子供たちが作法していたランジョー。
住職が「もうええ」と云われるまで続けていたそうだ。
その昔は、お堂の出入り口の扉をガタガタゆすったとか、外側の板壁を僧侶がドンドンを叩いてぐるりと廻っていたと云う悪魔祓いのランジョーである。
山添村で行われているオコナイは、かつて10カ大字にあったが、今では当地広代の他、大字春日や遅瀬、吉田、大西の5カ大字になったと住職が話す。
一瞬で終わったランジョーの作法は立ち位置から動けず撮り損ねたが、一回だけサービスにしてくださった。
ありがたいお言葉に移動したが、向こう壁であった。
初祈祷を終えた住職は般若湯(酒)をいただいて一服する。
退座された、それからしばらくは当家が摂待される直会に移る。
席に着いたオトナたちに酒を注ぐ当家。
お重に盛った漬けものを口にしてお酒をよばれる。
1時間ほどの直会が終えればごーさん押し。
当家が持つ朱印を一人、一人の額に押していく。
ベンガラの朱の色がくっきりと額に残る。
笑っている男性は元大和郡山市の住民。
今国府町でリカーショップの「凡壺(ぼんこ)」を営業していた大将(大久保利洋)である。
何年か前に大和郡山市の店をたたんで山添村の春日に移った。
その後、大将の奥さんの出里になる大字広代で農家民宿を開業された。
一日一組限定の「里舎(みちのりのやど)」はテレビ放送の「人生の楽園」に取りあげられたことがある。
早朝にお会いした人が大将であったのだ。
農家民宿は今国府町の隣町の小林町の住民が伺ったことがあると云っていた。
出合いは広代で繋がったのである。
それはともかく、祈祷されたごーさんの札は村人が持ち帰って一旦は神棚に置いておくと云う。
4月の半ばともなれば苗代に持ちこんでお札は竹若しくは代用のカシの木に挟んで立てていると云う。
苗箱はJAで購入するようになってからは、苗代を作ることもなくなり、田んぼになったと云う。
その場には花があるヤマツバキも立てるそうだ。
(H26. 1. 5 EOS40D撮影)