昨年の4月3日に立ちよった明日香村の稲渕。
取材した閏年の庚申モウシアゲの話題で盛り上がった。
その場に居られた男性が話したお寺の行事。
お寺は龍福寺である。
お堂に集まるのは4軒の講中。
そのうちの一人であったTさんは84歳。
お堂のいうのは境内に建つ大日堂なのか、それとも元五重層石塔だとされる覆堂であるのか存知しない。
ネコヤナギの枝木に版木で刷ったお札を挟む。
僧侶が般若心経を唱えているという行事に興味をもった。
正月初めの頃にされると云っていたTさんの家を訪ねた。
ネコヤナギの木は集落下を流れる飛鳥川。
普段は流れが緩やかな飛鳥川に架かる飛び石がある。
その付近に生えているカワヤナギはかつてたくさん生えていた。
終戦当時のことだ。
国有林だった雑木は国がだす補助金で材木となる杉の木を植林した。
そのころから、雨が降れば汚れた泥の川。
豪雨のときには溢れるほどの水量になり土嚢をしなくてはならない川になった。
雑木林であれば山に水が溜まる。
大量な雨であっても溢れるほどではなかった。
水量はそれほどでもなかった。
今では雨量によって泥の川。
あっという間に流れていくが、天気が回復すればカラカラに乾く川になった。
そんな関係かどうか判らないがどこにでも河原に生えていたカワヤナギは僅かになったと云う。
下流の村では代掻きもできないぐらいの乾いた田んぼ。
そんなときには水を入れた茶瓶で田んぼに水を入れた。
僅かな水で田植えをした。
その後に降る雨に助けられて田はなんとか育ったと云うかつての飛鳥川にはカワエビやジャコがうようよ生息していた。
そのカワエビとジャコはネギとともに炊いてマツリの御供にしていた。
五つの講があって、それぞれが供えていた。
いつしか纏めて一つの講にした。
食べていた会所は旧暦閏年のモウシアゲをする庚申講と同じ場である。
ヒラにアゲを乗せた膳もあったが、随分前に止めたそうだ。
そのような昔話をしてくれたTさんが属する講はドウコウと呼ぶ。
ドウコウはお堂でされることから充てる漢字は「堂講」。
別名にショウモンコウがある。
充てる漢字は「証文講」であろう。
4軒の講家は「かつて裕福であったろう、お金を貸すぐらいの財産家で多くの証文書があった」と話す。
4軒の講中で営んできた稲渕のドウコウ。
十数年前に龍福寺本堂を建て替えた。
その際に木材を供出されたN家。
自前の山から伐り出した材木を提供されたのである。
ドウコウはT家の他、S家、O家にN家の4軒だった。
うちN家は老婦人が住まいする講中。
身体が不自由な身ゆえ休まざるを得ない。
かつては7軒もあったドウコウ。
昔からある家で継承してきたが、村を出たりすることで、少なくなった講中に木材を提供されたお礼にということでN家に是非ともと仲間入りを願った。
そういうことで現在は5軒。
N家は参加できずに実際は4軒の営み。
かつては6日か、7日にされていたドウコウの営みは集まりやすい日曜日に移った。
今年、当番にあたるN家がオデン(御膳)を作って天徳山龍福寺(現在は浄土宗)に供える。
オデンを供える高杯の台裏に天文十一年(1542)の記銘があるらしい。
そのころにはドウコウが存在していた証しである。
ドウコウが集まる午後3時。
お堂の中で昔からある版木をすってごーさんを作る。
右に牛玉、左に宝印とあるごーさんは中央に天特山龍福寺の文字があるらしい版木の横に記銘があり、享保年代(1716~)の墨書があると云う。
墨は竃の煤。
集めて水で溶いて椀に入れる。
ザラザラした墨を版木に塗る。
それに半紙をあててごーさんにする。
(H26. 1. 3 記)
取材した閏年の庚申モウシアゲの話題で盛り上がった。
その場に居られた男性が話したお寺の行事。
お寺は龍福寺である。
お堂に集まるのは4軒の講中。
そのうちの一人であったTさんは84歳。
お堂のいうのは境内に建つ大日堂なのか、それとも元五重層石塔だとされる覆堂であるのか存知しない。
ネコヤナギの枝木に版木で刷ったお札を挟む。
僧侶が般若心経を唱えているという行事に興味をもった。
正月初めの頃にされると云っていたTさんの家を訪ねた。
ネコヤナギの木は集落下を流れる飛鳥川。
普段は流れが緩やかな飛鳥川に架かる飛び石がある。
その付近に生えているカワヤナギはかつてたくさん生えていた。
終戦当時のことだ。
国有林だった雑木は国がだす補助金で材木となる杉の木を植林した。
そのころから、雨が降れば汚れた泥の川。
豪雨のときには溢れるほどの水量になり土嚢をしなくてはならない川になった。
雑木林であれば山に水が溜まる。
大量な雨であっても溢れるほどではなかった。
水量はそれほどでもなかった。
今では雨量によって泥の川。
あっという間に流れていくが、天気が回復すればカラカラに乾く川になった。
そんな関係かどうか判らないがどこにでも河原に生えていたカワヤナギは僅かになったと云う。
下流の村では代掻きもできないぐらいの乾いた田んぼ。
そんなときには水を入れた茶瓶で田んぼに水を入れた。
僅かな水で田植えをした。
その後に降る雨に助けられて田はなんとか育ったと云うかつての飛鳥川にはカワエビやジャコがうようよ生息していた。
そのカワエビとジャコはネギとともに炊いてマツリの御供にしていた。
五つの講があって、それぞれが供えていた。
いつしか纏めて一つの講にした。
食べていた会所は旧暦閏年のモウシアゲをする庚申講と同じ場である。
ヒラにアゲを乗せた膳もあったが、随分前に止めたそうだ。
そのような昔話をしてくれたTさんが属する講はドウコウと呼ぶ。
ドウコウはお堂でされることから充てる漢字は「堂講」。
別名にショウモンコウがある。
充てる漢字は「証文講」であろう。
4軒の講家は「かつて裕福であったろう、お金を貸すぐらいの財産家で多くの証文書があった」と話す。
4軒の講中で営んできた稲渕のドウコウ。
十数年前に龍福寺本堂を建て替えた。
その際に木材を供出されたN家。
自前の山から伐り出した材木を提供されたのである。
ドウコウはT家の他、S家、O家にN家の4軒だった。
うちN家は老婦人が住まいする講中。
身体が不自由な身ゆえ休まざるを得ない。
かつては7軒もあったドウコウ。
昔からある家で継承してきたが、村を出たりすることで、少なくなった講中に木材を提供されたお礼にということでN家に是非ともと仲間入りを願った。
そういうことで現在は5軒。
N家は参加できずに実際は4軒の営み。
かつては6日か、7日にされていたドウコウの営みは集まりやすい日曜日に移った。
今年、当番にあたるN家がオデン(御膳)を作って天徳山龍福寺(現在は浄土宗)に供える。
オデンを供える高杯の台裏に天文十一年(1542)の記銘があるらしい。
そのころにはドウコウが存在していた証しである。
ドウコウが集まる午後3時。
お堂の中で昔からある版木をすってごーさんを作る。
右に牛玉、左に宝印とあるごーさんは中央に天特山龍福寺の文字があるらしい版木の横に記銘があり、享保年代(1716~)の墨書があると云う。
墨は竃の煤。
集めて水で溶いて椀に入れる。
ザラザラした墨を版木に塗る。
それに半紙をあててごーさんにする。
(H26. 1. 3 記)