5年前の平成21年12月19日に訪れた奈良市柳生町山脇。
大きな岩下に山の神を祀った祠があった。
その前にナンテンの木が植生する。
そこにぶら下げていた斜めに切った細い竹を二本重ねたモノ。
名前は判らないが、山の初仕事に入る前に赤い実をつけたナンテンの枝木を挿していた。
村人の話しによれば、山の神に参って、山仕事の安全や無事を願って、拝んでから山に入ったと云う。
山脇垣内の他、7軒の人たちそれぞれがぶら下げて、山に入り、もう一つの竹に挿したナンテンを供えていると話していた。
日程は固定でなく12月初めの日曜日。
早朝に参った数時間後の11時に参集する。
米粉を水で練ったシトギを重箱いっぱいに入れて供えて拝む。
シトギはとんどを燃やして焼く。
そのままでは焼くことができないのでバランの葉の上に置いて焼く。
味はないと云っていた。
そのような話しを聞いて5年目。
山の神参りの様相を拝見いたしたく第一日曜日の7日に訪れた山脇垣内。
当番にあたる男性が山の神の下でとんどを燃やしていた。
昔から第一日曜日だったと云う。
山の神を祀った祠は平成25年に建て替えた。
屋根は恒常性を保つため銅板に葺き替えた。
内部には小幣を祭っている。
その祠の背部が山の神だと思うと話す。
背部は大きな岩である。
かつては自然崇拝として崇めたのであろう。
いつから山の神に参るようになったのかは若い私たちは聞いていない。
山の神と云えばとんどを燃やして賑やかだった。
とんどにサツマイモを埋めて焼いた。
それが美味しかった。
もう止めようかと思っていたが、今年もすることにしたと話す当番さん。
前回に供えていた竹の筒を見本にして作ったと云う。
本来なら節と節の中央辺りを竹の皮一枚残してそぎ取って背中合わせするのであるが、この年は簡略化されて二つに割って先を斜めに切ったものを背中合わせに括った造りにしたようだ。
その場にやってきた婦人は昭和12年生まれ。
山の神の左手にある家で生まれ育ったと云う。
嫁入り先は柳生町。
近くに住んでいるので毎年こうしてやってくると云う。
婦人が話すに、山の神に集まるのは山脇垣内周辺の他垣内を含めて7軒。
山の口講と呼ぶ7軒は山をもっている家だそうだ。
昔は山行き。
ナンテンの実を供えて炭焼きとか、山の仕事に行くときにナンテンを供えて山の神さんを拝んでから山へ出かけていったと云う。
山に入るのは割り木を作ったり、炭焼きをするのが仕事。
ヤマキリ(山伐り)の仕事に行くときはナンテンを挿した竹筒を山に持っていく。
「お酒も供えたやろな」と云う。
ナンテンの実を添える竹筒は三つだったと思うと話す。
婦人が子供のときからしていた。
家の前だったからとんどの火にあたっていた。
これが楽しみだったと云う。
とんどには講中以外の村人も火にあたりに来たそうだ。
はっきりとは覚えてないが、「12月7日やったかな」と話す。
バランの葉にシトギを乗せて焼く。
シトギはお米を水に浸けて柔らかくした。
スリバチに入れてスリコギで細かくすり潰す。
とろーんとしたシトギをバランに乗せて焼いて食べる。
その日は「やまのくち(山ノ口) やまのくち(山ノ口)」と口々に云っていたと思いだされる。
そのような話しを伺っていた時間帯。
子供を連れた人たちや老婦人もやってきた。
さっそくあたるとんどの火。
囲んで談笑する。
賑やかな様相になってきたとんどに長老も。
山の神の横にある家のご主人は今でも山行き仕事をしている。
ナンテン添えの竹筒は二つ用意する。
一つは山に行く人が出かけた山に持っていってぶら下げる。
もう一つが山の神さんのナンテンの木にぶら下げる。
昔はいっぱい吊っていたと云うだけに山仕事の人たちが多かったのであろう。
山の神さんに参る日は12月初めの申の日だったと云う男性は昭和15年生まれ。
先ほど昔の様相を語ってくれた婦人のお兄さんだったのだ。
男性はナンテンの実を添えた竹筒は「ゴンゴ」と呼んでいた。
「山ノ口講」は山行き仕事をしていた7軒。
山入りする日は「山の口」。
いわゆる山の口開きであろう。
その名を付けた山の仕事仲間の講中が「山ノ口講」だったのだ。
ちなみに当番のTさんを手伝っていたもう一人の若い男性は息子さん。
親父さんから始めて聞いた「山の口」の日である。
その場をハイカーが通っていった。
「今日はイベントですか」と云うハイカーたちには山の神参りのことは知ろうともせずに680m先の「一刀石」に向かっていった。
「一刀石」の場は柳生町在住の石田武士宮司の案内を受けて平成22年8月22日に訪れていた。
拝見した場は天岩立神社手前の山の石仏。
ここで役行者さんたちがサカキ立てをされてお坊さん(おそらく真言宗立野寺)が錫杖を振って作法をする雨乞いの行事であると聞いた。
聞いてはいるものの未だに訪れる機会を得ていない。
山の神参りはそれぞれの講中単位だ。
そろそろ始めようかとローソクに火を灯した当番が声を掛けた。
家族連れ、或いは個々に手を合せる山の神参り。
念仏を唱えることもなくただただ手を合せて交替する拝礼である。
かつては老婦人の何人かが山の神の前で念仏を唱えていたらしい。
「もう忘れてしまった」と云って手を合わした。
お参りはこれだけだ。
供えることもなかったセキハン。
モチゴメで炊いたセキハンであるがアカメシと呼んでいた。
お重に詰めたセキハンは箸で摘まんで手渡す。
受けるのは手だ。
いわゆるテゴク(手御供)の作法であろう。
受けたセキハンはバランの葉に乗せていただく。
手で掴むことなく葉を口元に寄せていただくのだ。
もっちりしたセキハンは甘くて美味しい。
私も味わうありがたい御供いただきである。
セキハンをいただいたバランの葉。
今度はシトギが配られる。
お玉で掬ったシトギをバランの葉に注ぐのだ。
どろりとしたシトギは平らに広げる。
べたーとした感じに盛るのだ。
それを下火になったとんどで焼く。
直に焼けば葉が燃えてしまうので鉄製の編み焼きをとんどに置いていた。
そこにめいめいが置くシトギ乗せのバラン。
火の勢いで燃えることもある。
しばらくすれば周りに焦げ目がついたシトギ。
白っぽかったシトギは半透明色になった。
もう少し焼けばひびが入る。
そういう状態になれば食べごろである。
焼けて焦げたバランごといただくシトギの味。
まるでカキモチのような味である。
カキモチもシトギも原材料はお米。
甘くて美味しいお米の味なのだ。
当番が云った。
「今年は隠し味を入れてみた」である。
どおりで甘い味がするシトギに感動する。
とんどを囲んで世間話をする婦人たち。
柳生では「ハミ」を「ハメ」と呼んでいたので驚いたという婦人の出里は山添村だった。
とんど場の横に立ててあった二股の木。
それを「マタギ」と呼んでいた。
洗濯干しにも使う「マタギ」はクリやカキの実を採る道具にもなる。
その場合は「ハサンバリ」と呼んでいる。
「ハサンバリ」は「挟み張り」。
枝が張っているからそう呼ぶと云う。
そのような会話をしていた「山ノ口講」の人たち。
時間ともなれば会食に出かける。
かつては当番の家でもてなす会食の場であったが、負担を避けるために近くの料亭を利用するようになったと話す。
山脇の長老が「ゴンゴ」と呼んでいた竹筒。
この月の1日に訪れた奈良市茗荷町。
イノコのクルミモチを作っていたOさんも同じように「ゴンゴ」と呼んでいた。
茗荷町を含めた田原の里の幾つかの地域では山の神参りがあるらしい。
1月10日辺りだったという山の神参りは「山の口」。
いわゆる山仕事に入る日である。
参る際には「ゴンゴ」と呼ぶ竹で作った筒に酒を注いて供える。
節目、節目を残して竹を伐る。
中央は竹の皮一枚を残して伐る。
細くなった部分を曲げてできあがった竹筒に酒を注ぐと話していた。
「ゴンゴ」は決して「五合」が訛ったものではないようだと云ったのは奈良民俗文化研究所代表の鹿谷勲さんだ。
写真家のKさんが調べた室生市史によれば「ゴンゴ」と書いてあったそうだ。
また、十津川の大字旭では竹筒を「タケノゴンゴ」と呼ぶようだ。
「ゴー」と呼ぶのは大字竹筒であると「十津川かけはしネット」に書いてあったが「ゴンゴ」を充てる漢字は一体何であろうか。
類似例を調べなくてはならない。
(H26.12. 7 EOS40D撮影)
大きな岩下に山の神を祀った祠があった。
その前にナンテンの木が植生する。
そこにぶら下げていた斜めに切った細い竹を二本重ねたモノ。
名前は判らないが、山の初仕事に入る前に赤い実をつけたナンテンの枝木を挿していた。
村人の話しによれば、山の神に参って、山仕事の安全や無事を願って、拝んでから山に入ったと云う。
山脇垣内の他、7軒の人たちそれぞれがぶら下げて、山に入り、もう一つの竹に挿したナンテンを供えていると話していた。
日程は固定でなく12月初めの日曜日。
早朝に参った数時間後の11時に参集する。
米粉を水で練ったシトギを重箱いっぱいに入れて供えて拝む。
シトギはとんどを燃やして焼く。
そのままでは焼くことができないのでバランの葉の上に置いて焼く。
味はないと云っていた。
そのような話しを聞いて5年目。
山の神参りの様相を拝見いたしたく第一日曜日の7日に訪れた山脇垣内。
当番にあたる男性が山の神の下でとんどを燃やしていた。
昔から第一日曜日だったと云う。
山の神を祀った祠は平成25年に建て替えた。
屋根は恒常性を保つため銅板に葺き替えた。
内部には小幣を祭っている。
その祠の背部が山の神だと思うと話す。
背部は大きな岩である。
かつては自然崇拝として崇めたのであろう。
いつから山の神に参るようになったのかは若い私たちは聞いていない。
山の神と云えばとんどを燃やして賑やかだった。
とんどにサツマイモを埋めて焼いた。
それが美味しかった。
もう止めようかと思っていたが、今年もすることにしたと話す当番さん。
前回に供えていた竹の筒を見本にして作ったと云う。
本来なら節と節の中央辺りを竹の皮一枚残してそぎ取って背中合わせするのであるが、この年は簡略化されて二つに割って先を斜めに切ったものを背中合わせに括った造りにしたようだ。
その場にやってきた婦人は昭和12年生まれ。
山の神の左手にある家で生まれ育ったと云う。
嫁入り先は柳生町。
近くに住んでいるので毎年こうしてやってくると云う。
婦人が話すに、山の神に集まるのは山脇垣内周辺の他垣内を含めて7軒。
山の口講と呼ぶ7軒は山をもっている家だそうだ。
昔は山行き。
ナンテンの実を供えて炭焼きとか、山の仕事に行くときにナンテンを供えて山の神さんを拝んでから山へ出かけていったと云う。
山に入るのは割り木を作ったり、炭焼きをするのが仕事。
ヤマキリ(山伐り)の仕事に行くときはナンテンを挿した竹筒を山に持っていく。
「お酒も供えたやろな」と云う。
ナンテンの実を添える竹筒は三つだったと思うと話す。
婦人が子供のときからしていた。
家の前だったからとんどの火にあたっていた。
これが楽しみだったと云う。
とんどには講中以外の村人も火にあたりに来たそうだ。
はっきりとは覚えてないが、「12月7日やったかな」と話す。
バランの葉にシトギを乗せて焼く。
シトギはお米を水に浸けて柔らかくした。
スリバチに入れてスリコギで細かくすり潰す。
とろーんとしたシトギをバランに乗せて焼いて食べる。
その日は「やまのくち(山ノ口) やまのくち(山ノ口)」と口々に云っていたと思いだされる。
そのような話しを伺っていた時間帯。
子供を連れた人たちや老婦人もやってきた。
さっそくあたるとんどの火。
囲んで談笑する。
賑やかな様相になってきたとんどに長老も。
山の神の横にある家のご主人は今でも山行き仕事をしている。
ナンテン添えの竹筒は二つ用意する。
一つは山に行く人が出かけた山に持っていってぶら下げる。
もう一つが山の神さんのナンテンの木にぶら下げる。
昔はいっぱい吊っていたと云うだけに山仕事の人たちが多かったのであろう。
山の神さんに参る日は12月初めの申の日だったと云う男性は昭和15年生まれ。
先ほど昔の様相を語ってくれた婦人のお兄さんだったのだ。
男性はナンテンの実を添えた竹筒は「ゴンゴ」と呼んでいた。
「山ノ口講」は山行き仕事をしていた7軒。
山入りする日は「山の口」。
いわゆる山の口開きであろう。
その名を付けた山の仕事仲間の講中が「山ノ口講」だったのだ。
ちなみに当番のTさんを手伝っていたもう一人の若い男性は息子さん。
親父さんから始めて聞いた「山の口」の日である。
その場をハイカーが通っていった。
「今日はイベントですか」と云うハイカーたちには山の神参りのことは知ろうともせずに680m先の「一刀石」に向かっていった。
「一刀石」の場は柳生町在住の石田武士宮司の案内を受けて平成22年8月22日に訪れていた。
拝見した場は天岩立神社手前の山の石仏。
ここで役行者さんたちがサカキ立てをされてお坊さん(おそらく真言宗立野寺)が錫杖を振って作法をする雨乞いの行事であると聞いた。
聞いてはいるものの未だに訪れる機会を得ていない。
山の神参りはそれぞれの講中単位だ。
そろそろ始めようかとローソクに火を灯した当番が声を掛けた。
家族連れ、或いは個々に手を合せる山の神参り。
念仏を唱えることもなくただただ手を合せて交替する拝礼である。
かつては老婦人の何人かが山の神の前で念仏を唱えていたらしい。
「もう忘れてしまった」と云って手を合わした。
お参りはこれだけだ。
供えることもなかったセキハン。
モチゴメで炊いたセキハンであるがアカメシと呼んでいた。
お重に詰めたセキハンは箸で摘まんで手渡す。
受けるのは手だ。
いわゆるテゴク(手御供)の作法であろう。
受けたセキハンはバランの葉に乗せていただく。
手で掴むことなく葉を口元に寄せていただくのだ。
もっちりしたセキハンは甘くて美味しい。
私も味わうありがたい御供いただきである。
セキハンをいただいたバランの葉。
今度はシトギが配られる。
お玉で掬ったシトギをバランの葉に注ぐのだ。
どろりとしたシトギは平らに広げる。
べたーとした感じに盛るのだ。
それを下火になったとんどで焼く。
直に焼けば葉が燃えてしまうので鉄製の編み焼きをとんどに置いていた。
そこにめいめいが置くシトギ乗せのバラン。
火の勢いで燃えることもある。
しばらくすれば周りに焦げ目がついたシトギ。
白っぽかったシトギは半透明色になった。
もう少し焼けばひびが入る。
そういう状態になれば食べごろである。
焼けて焦げたバランごといただくシトギの味。
まるでカキモチのような味である。
カキモチもシトギも原材料はお米。
甘くて美味しいお米の味なのだ。
当番が云った。
「今年は隠し味を入れてみた」である。
どおりで甘い味がするシトギに感動する。
とんどを囲んで世間話をする婦人たち。
柳生では「ハミ」を「ハメ」と呼んでいたので驚いたという婦人の出里は山添村だった。
とんど場の横に立ててあった二股の木。
それを「マタギ」と呼んでいた。
洗濯干しにも使う「マタギ」はクリやカキの実を採る道具にもなる。
その場合は「ハサンバリ」と呼んでいる。
「ハサンバリ」は「挟み張り」。
枝が張っているからそう呼ぶと云う。
そのような会話をしていた「山ノ口講」の人たち。
時間ともなれば会食に出かける。
かつては当番の家でもてなす会食の場であったが、負担を避けるために近くの料亭を利用するようになったと話す。
山脇の長老が「ゴンゴ」と呼んでいた竹筒。
この月の1日に訪れた奈良市茗荷町。
イノコのクルミモチを作っていたOさんも同じように「ゴンゴ」と呼んでいた。
茗荷町を含めた田原の里の幾つかの地域では山の神参りがあるらしい。
1月10日辺りだったという山の神参りは「山の口」。
いわゆる山仕事に入る日である。
参る際には「ゴンゴ」と呼ぶ竹で作った筒に酒を注いて供える。
節目、節目を残して竹を伐る。
中央は竹の皮一枚を残して伐る。
細くなった部分を曲げてできあがった竹筒に酒を注ぐと話していた。
「ゴンゴ」は決して「五合」が訛ったものではないようだと云ったのは奈良民俗文化研究所代表の鹿谷勲さんだ。
写真家のKさんが調べた室生市史によれば「ゴンゴ」と書いてあったそうだ。
また、十津川の大字旭では竹筒を「タケノゴンゴ」と呼ぶようだ。
「ゴー」と呼ぶのは大字竹筒であると「十津川かけはしネット」に書いてあったが「ゴンゴ」を充てる漢字は一体何であろうか。
類似例を調べなくてはならない。
(H26.12. 7 EOS40D撮影)