天理市の檜垣町から同市の遠田町を経て田原本町の唐古に八田などの正月飾り状況。
参拝を兼ねて拝見してきた。
「福粥」から始まって、大和郡山市の民家の砂撒き状況から、天理市、田原本町のごく一部も調査してきた。
ラストは住まいする大和郡山市。
本日の〆を飾るに相応しいと思って選んだ地は大和郡山市の外川町。
鎮座する八幡神社に砂の道が現存していたことを知ったのは平成25年の1月2日だった。
あれから4年も経った。
消滅している可能性も考えられるし、継続していることも・・。
それを現認しておきたい、と自宅に戻る途中にある外川町。
時間はたっぷりの余裕綽々で立ち寄った八幡神社
この年もされていた砂の道があった。
鳥居のところから一直線。
参拝に登る階段も一直線の砂の道が続く。
登っていけば直会殿の間を通って本社殿がある拝殿前までに繋がる砂の道はここで右折れして方向を替える。
その奥に行けばまたもや直角折れ。
その先は石段も据えている小社がある。
その小社はコミヤ(小宮)と呼んでいるようだが、調べてみれば大鷦(しょう)鷯(りょう)社ではないだろうか。
大鷦鷯(おおさざきのみこと)を祀る、いわゆる若宮さんであろう。
直会殿に数々の絵馬がある。
一枚は明治四拾貳年九月三日に「當村」名で寄進された外川町八幡神社を配置した様相である。
もう一枚は色落ち甚だしく一部は擦れた絵馬であるが、とても興味深い姿を表現していた。
「奉納 御神前 □□天□(たぶん神武天皇であろう)即位紀元貳千五百・・蔵」であろうか。
そうであれば明治時代初期の5年、或いは6年辺りが相当するであろう。
右手に居る女性と思われる人は筵に座ってなにやら作業をしている。
お米の選別であろうか。問題は左に立っている男性の姿だ。
山で伐ってきた薪を担ぐ男性の姿の像を見たことがある。
それがあったのは高取町の丹生谷である。
因光寺境内に建つ清九郎会館の間に建つ銅像は好好人で名高い大和清九郎。
そうであれば、右手の女性は母親である。
その絵馬に奉納したと思われる人の名がある。
判読し難いが「當村氏子 辻本清太郎」のようだ。
その人物は外川町八幡神社と、どのような関係があったのか知る由もないが、何故に大和清九郎の姿を絵馬にしたのか、できるならご本人の“思い”を聞いてみたいものだ。
大和清九郎に関しては社会人だったころの上司であるKさんが纏めた史料があるので、そちらを参考にしていただきたい。
これらの貴重な絵馬を拝見していたときだ。
階段を登ってくる足音が聞こえてきた。
お名前を伺えば氏子のSさん。
長年に亘って宮役員を務めているという。
役員は10人。
仰せつかって15年も役員をしているSさんは一番の年寄りになったという。
砂の道造りは12月25日の日曜日に一度したが、大雨で流れてしまったそうだ。
その関係もあるが、例年は大晦日の31日。
午後のはじめに神社・境内の清掃をし終えてから砂の道をするそうだ。
かつての砂の採取地は神社下にある富雄川。
護岸工事をしていない時代である。
川に下りて川砂を掬った。
それをモッコに入れて担いで運んでいたという思い出はSさんが子供のころ。
鮒もタナゴもいっぱい泳いでいた護岸工事をしてからは川の様相はすっかり変わって綺麗な砂が採れなくなるし、魚も消えた。
そういうこともあって今ではスーパーで売っている川砂を用いている。
砂袋は4袋。
量は多い。
外川町の宮役員は1~6組の選抜。
3年任期の宮役員であるが、Sさんは7組。
ずっと継続、継続を引退するまでが任期。
もう75歳にもなったというSさんは相談役みたいなものだという。
Sさんがいうには砂の道は神さんが歩く道。
「八幡神社の神さんが通らはる参道の砂の道だから、踏んだらあかん」という。
盛り砂は神さんが鎮座する。
鳥居とかにも盛り砂するのは神さんを迎えて降りてきてもらう門松。
今では極端に小さくなった松一品になってしまったという。
今では高台に鎮座する八幡神社であるが、かつては富雄川にもっと近い農協辺りの地であった。
いつの時代かわからないが、富雄川の氾濫に見舞われて神社は流された。
そういう大水害の影響は甚だしく、高台に遷したという。
田中町に堤防を作ったのはその関係であるという。
富雄川の決壊によって神社を遷したというのは田中町の氏子らも話していた。
その氾濫年は延宝年間(1673~)のようだ。
氾濫の影響を受けて神社を遷した地域は外川町、田中町の他、隣村の小南町、池之内町、満願寺町にもおよんだ。
氾濫の影響が広範囲に亘ったということだ。
ちなみに外川町には特定家による宮座がある。
奈良県庁文書の『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』資料によれば、外川町は8戸・八人衆の宮座であったが、時代は不明だが、20戸に膨れ上がった。
かつては八人衆が一般座衆の上位にあった。
15歳で入座した宮座とある。
Sさんの話しによれば、12~13軒の宮座は今も継承しており、座の営みはあるが、神社行事を務めることはないそうだ。
続けて話す外川町の年中行事。
昔は1月30日にしていた大トンドがある。
小正月の1月15日に移ったが、サラリーマン構成が多くなった今では第三日曜日の午後2時から3時。
かつては富雄川の河川敷であったが、現在は郡山西中学校向かいのゲートボール場である。
そこで行われる大トンドに振る舞いのぜんざいがあるというから一度は訪れてみたい。
神社行事の八朔祭は9月1日であったが今は第一日曜日。
かつては10月1日だった本宮(ほんぐう)祭も日程が替わって第一土曜日。
午後2時の神事に巫女さんが参席される。
今では三郷町に住む坂本家であったが、ほんの少し前までは大和郡山市若槻町に住む加奥家だった。
それ以前はといえば、村の女児が務めて神楽を舞っていたという。
その後の12月1日の新嘗祭も日程を変更されて第一日曜日。
時間帯も午後3時から2時に移ったというから、3行事すべてが午後2時である。
覚えやすくなった行事日・時間は記憶しやすい。
外川町の座中の一人であったYさん。
座の営みも教えてくださっていたが、平成22年の2月4日に他界されたこともあって行事取材は遠ざかっていた。
この日にお会いしたSさんにもそういうことがあって遠慮するようになったといえば、是非来ていただきたいと云ってくれた。
ありがたいお言葉に、できうる限り、機会を設けて寄せてもらうことにした。
(H29. 1. 2 EOS40D撮影)
参拝を兼ねて拝見してきた。
「福粥」から始まって、大和郡山市の民家の砂撒き状況から、天理市、田原本町のごく一部も調査してきた。
ラストは住まいする大和郡山市。
本日の〆を飾るに相応しいと思って選んだ地は大和郡山市の外川町。
鎮座する八幡神社に砂の道が現存していたことを知ったのは平成25年の1月2日だった。
あれから4年も経った。
消滅している可能性も考えられるし、継続していることも・・。
それを現認しておきたい、と自宅に戻る途中にある外川町。
時間はたっぷりの余裕綽々で立ち寄った八幡神社
この年もされていた砂の道があった。
鳥居のところから一直線。
参拝に登る階段も一直線の砂の道が続く。
登っていけば直会殿の間を通って本社殿がある拝殿前までに繋がる砂の道はここで右折れして方向を替える。
その奥に行けばまたもや直角折れ。
その先は石段も据えている小社がある。
その小社はコミヤ(小宮)と呼んでいるようだが、調べてみれば大鷦(しょう)鷯(りょう)社ではないだろうか。
大鷦鷯(おおさざきのみこと)を祀る、いわゆる若宮さんであろう。
直会殿に数々の絵馬がある。
一枚は明治四拾貳年九月三日に「當村」名で寄進された外川町八幡神社を配置した様相である。
もう一枚は色落ち甚だしく一部は擦れた絵馬であるが、とても興味深い姿を表現していた。
「奉納 御神前 □□天□(たぶん神武天皇であろう)即位紀元貳千五百・・蔵」であろうか。
そうであれば明治時代初期の5年、或いは6年辺りが相当するであろう。
右手に居る女性と思われる人は筵に座ってなにやら作業をしている。
お米の選別であろうか。問題は左に立っている男性の姿だ。
山で伐ってきた薪を担ぐ男性の姿の像を見たことがある。
それがあったのは高取町の丹生谷である。
因光寺境内に建つ清九郎会館の間に建つ銅像は好好人で名高い大和清九郎。
そうであれば、右手の女性は母親である。
その絵馬に奉納したと思われる人の名がある。
判読し難いが「當村氏子 辻本清太郎」のようだ。
その人物は外川町八幡神社と、どのような関係があったのか知る由もないが、何故に大和清九郎の姿を絵馬にしたのか、できるならご本人の“思い”を聞いてみたいものだ。
大和清九郎に関しては社会人だったころの上司であるKさんが纏めた史料があるので、そちらを参考にしていただきたい。
これらの貴重な絵馬を拝見していたときだ。
階段を登ってくる足音が聞こえてきた。
お名前を伺えば氏子のSさん。
長年に亘って宮役員を務めているという。
役員は10人。
仰せつかって15年も役員をしているSさんは一番の年寄りになったという。
砂の道造りは12月25日の日曜日に一度したが、大雨で流れてしまったそうだ。
その関係もあるが、例年は大晦日の31日。
午後のはじめに神社・境内の清掃をし終えてから砂の道をするそうだ。
かつての砂の採取地は神社下にある富雄川。
護岸工事をしていない時代である。
川に下りて川砂を掬った。
それをモッコに入れて担いで運んでいたという思い出はSさんが子供のころ。
鮒もタナゴもいっぱい泳いでいた護岸工事をしてからは川の様相はすっかり変わって綺麗な砂が採れなくなるし、魚も消えた。
そういうこともあって今ではスーパーで売っている川砂を用いている。
砂袋は4袋。
量は多い。
外川町の宮役員は1~6組の選抜。
3年任期の宮役員であるが、Sさんは7組。
ずっと継続、継続を引退するまでが任期。
もう75歳にもなったというSさんは相談役みたいなものだという。
Sさんがいうには砂の道は神さんが歩く道。
「八幡神社の神さんが通らはる参道の砂の道だから、踏んだらあかん」という。
盛り砂は神さんが鎮座する。
鳥居とかにも盛り砂するのは神さんを迎えて降りてきてもらう門松。
今では極端に小さくなった松一品になってしまったという。
今では高台に鎮座する八幡神社であるが、かつては富雄川にもっと近い農協辺りの地であった。
いつの時代かわからないが、富雄川の氾濫に見舞われて神社は流された。
そういう大水害の影響は甚だしく、高台に遷したという。
田中町に堤防を作ったのはその関係であるという。
富雄川の決壊によって神社を遷したというのは田中町の氏子らも話していた。
その氾濫年は延宝年間(1673~)のようだ。
氾濫の影響を受けて神社を遷した地域は外川町、田中町の他、隣村の小南町、池之内町、満願寺町にもおよんだ。
氾濫の影響が広範囲に亘ったということだ。
ちなみに外川町には特定家による宮座がある。
奈良県庁文書の『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』資料によれば、外川町は8戸・八人衆の宮座であったが、時代は不明だが、20戸に膨れ上がった。
かつては八人衆が一般座衆の上位にあった。
15歳で入座した宮座とある。
Sさんの話しによれば、12~13軒の宮座は今も継承しており、座の営みはあるが、神社行事を務めることはないそうだ。
続けて話す外川町の年中行事。
昔は1月30日にしていた大トンドがある。
小正月の1月15日に移ったが、サラリーマン構成が多くなった今では第三日曜日の午後2時から3時。
かつては富雄川の河川敷であったが、現在は郡山西中学校向かいのゲートボール場である。
そこで行われる大トンドに振る舞いのぜんざいがあるというから一度は訪れてみたい。
神社行事の八朔祭は9月1日であったが今は第一日曜日。
かつては10月1日だった本宮(ほんぐう)祭も日程が替わって第一土曜日。
午後2時の神事に巫女さんが参席される。
今では三郷町に住む坂本家であったが、ほんの少し前までは大和郡山市若槻町に住む加奥家だった。
それ以前はといえば、村の女児が務めて神楽を舞っていたという。
その後の12月1日の新嘗祭も日程を変更されて第一日曜日。
時間帯も午後3時から2時に移ったというから、3行事すべてが午後2時である。
覚えやすくなった行事日・時間は記憶しやすい。
外川町の座中の一人であったYさん。
座の営みも教えてくださっていたが、平成22年の2月4日に他界されたこともあって行事取材は遠ざかっていた。
この日にお会いしたSさんにもそういうことがあって遠慮するようになったといえば、是非来ていただきたいと云ってくれた。
ありがたいお言葉に、できうる限り、機会を設けて寄せてもらうことにした。
(H29. 1. 2 EOS40D撮影)