山添村の最奥の東に位置する大字に鵜山がある。
同じ大字名の鵜山は名張川を隔てた東の三重県名張市にもある。
両県に跨る同名地の鵜山は明治のころ(と思われる)に行政区割りされ、奈良県と三重県側に二つが存在することになった。
山添村大塩の住民K氏は奈良県側を西鵜山、三重県側を東鵜山と呼んでいる。
三重県側から言えば山添村の鵜山は大和鵜山と呼ぶ東大寺の所領地である。
その地にある寺社は真福寺に八柱神社だ。
当地に始めてやってきたのは平成25年の1月7日だ。
その日にお会いしたご婦人が話してくれた鵜山のオコナイ行事である。
長老が唱える般若心経がある。
オコナイに般若心経では僧侶の姿が見えない。
たぶんにそうであろう。
そのうちランジョーと呼ばれる作法がある。
ハゼノキを縁か何かに叩く。
その間には太鼓も打つ。
ランジョー作法をしているときの各家はどうしているか。
婦人が云うには各家の座敷を掃除するというのだ。
これはどういうことなのであろうか。
一般的にいえばランジョーは村から悪霊を追い出す所作である。
悪霊は家の座敷からも追い出す。
そういうことではないだろうか。
オコナイを終えた村の人は勧請縄を椿の木に架けると云っていた。
同時進行かどうかわからないが、村の初祈祷、つまり修正会にはオコナイにツナカケの両方をしている村がある。
山添村でいえば岩屋である。
興味を持ちづけてから早や5年。
ほぼ時間帯も聞いていたから、とにかく行ってみようということにした。
午後1時前、鵜山に着いてはみたものの誰もいない。
時間帯が違ったのか、それとも日にちが替わったのか不安になる。
どなたかが来られる可能性も捨てきれず、二日前に行われた山の神の痕跡を拝見していた。
前日は暴風雨であった。
雨がいかに激しかったかわかるクラタテに敷いた半紙である。
クラタテは四つ。
いずれも幣を取り付けている竹を四方に立てていた。
その真上にあるカギヒキ。
大木カシにぶら下げていた1本、2本。
いずれも藁で作ったホウゼンもある。
村の戸数は17戸。
山の神の御供は5年前より、また少なくなっていた。
さて、本日に行われるオコナイは真福寺である。
本堂一部の扉を開放していた。
鴨居に注連縄を張っている。
お参りに来られる人のために扉を開放しているのだろう。
賽銭箱があり、その横に松の束もある。
細い注連縄もあり、シキビと思われる葉を挿していた。
そこへ村の人と思われる男性がホンダ製の電動カートに乗ってやってきた。
行事取材のことを伝えたら受け入れてくださった。
男性はこの日に務める話しを堂下(どうげ)さん。
行事進行を手伝う役目にある。
ここ山添村では手伝いさんのことを堂下で呼ぶ地域は多い。
ほとんどと云っていいくらいに多い。
寺の扉を開けるから上がってと云われて入堂した真福寺は村の会所にもなっているようだ。
村の行事を下支えする手伝いの堂下さんの計らいで本尊を安置する場も案内してくださる。
正面は美しい姿の地蔵菩薩立像。
その下にある小像は不動明王であろうか。
右座は弘法大師。
左に阿弥陀仏であろうか。
その並びのさらに右横に役行者に赤鬼、青鬼の二体。
赤鬼、青鬼は前鬼に後鬼であろう。
その右横に架けてある掛図も弘法大師。
同寺は高野山真言宗である。
その弘法大師尊像を描いた掛図は新調されたのか、それとも修復されたのか、真新しい。
もしかとしてと思って掛図の裏面を拝見したら、あった。
表装仕直したときに昔の書を切って貼ったのだろう。
元の書面に寄進されたと思われる講中10人の連名書がある。
寄進年号は享保四亥年(1719)正月□一日。
右写し之講中5人の名もある。
その時代は弘化三年(1846)午六月。
表具云年とあるから表装仕直し。
さらに年月を経た昭和14年は手直し。
続けて平成6年9月に表具とあった。
300年も継承してきた弘法大師尊像の掛図である。
ちなみにお葬式の際にお墓にもっていった傘も残していると話してくれたが、実物を拝見する機会を逃した。
本堂を拝見させてもらって気がつく仏間の清掃時期。
1月はオコナイ行事の前。
3月は春の彼岸前。
5月は月末日。
8月はお盆の前。
秋の9月も彼岸前。
10月は村の祭りの前である。
いずれも掃除をされる人は堂下さん。
行事の日までに清掃されて、美しくしている。
そのような話題提供をしてくれる堂下さんは準備に忙しい。
しばらくすれば区長以下村の人たちもやってきた。
人数が多くなれば準備作業が捗る。
天井に吊っていた太鼓を降ろして床に置く。
太鼓を吊っていたロープを紐解けば緩やかに降りてくる。
手慣れた作業ぶりである。
先に来ていた堂下さんは用意していた注連縄に松葉とフクラソの枝木を挿し込む。
堂下さんが云うには、この注連縄は縄であっても勧請縄だという。
村の入口辺りに生えている太い椿の木がある。
その木に架ける勧請縄は一年間も鵜山の入口に祭られる。
悪霊が村に入ってこないように村を守る勧請縄を架ける地は「カンジョ」の名で呼んでいる。
もう一人は墨を摺る。
おそらくごーさん札の墨書であろう。
そう思った通りの墨書は手書き。
やってくる村の人が一枚一枚書いていく。
書いた文字は右から「牛王 真福寺 宝印」だ。
細筆で書いたものだから文字は細い。
そこに押す朱印は古くから使われてきた宝印。
角がすり減って丸い。
朱肉のベンガラにつけて印を押す。
来られる村の人、それぞれがごーさん札を書いているのが珍しい。
これまで数々のオコナイを拝見してきたが、村の人の各自一人ずつが作るのはおそらくここ鵜山だけではないだろうか。
もう一つの特徴は「蘇民将来」の紙片である。
名前書きの紙片もある。
「蘇民将来」の紙片の文字。
「そうみのしそんなり」の表現もあればカタカナ表記の「ソミノシソンモンナリ」とか「ソミン シソンナリ」というのもあるし、漢字書きの「蘇民生来子孫門也」もある。
何枚かに分けて書かれた紙片は、先を割っためろう竹(女竹)に挟んでいる。
枚数は家族の人数分であろうか、聞きそびれた。
これを見て思い出したのが、隣村になる別れの村の三重県名張市の鵜山・福龍寺で行われたオコナイ行事である。
名張市鵜山のオコナイによく似たものが登場する。
福龍寺本堂の柱に括り付けた紙片がある。
フシの木片の四方に「ソミ」「ノシ」「ソン」「ナリ」の文字がある。
コヨリ捩じりの青、赤色紙を付けて鮮やかな「チバイ」は護符。
紙片には「ソミノシソンナリ」の文字がある。
供えた家族の人数分だという「チバイ」は蘇民将来(そみんしょうらい)の子孫成りというのである。
挟む竹の違いは見られるものの、両鵜山の人たちはいずれも蘇民将来の子孫成り、であった。
平成25年の1月13日に取材させてもらった名張市鵜山のオコナイに感謝したのは言うまでもないが、山添村鵜山の「蘇民将来」の紙片の名称を聞かずじまいだった。
村の人たちはそれら以外に御供する餅2個を持ち寄っていた。
餅は1軒について2個ずつと決まっているそうだ。
もう一つの仕掛りは勧請縄に架ける板書の木札である。
古くから使われてきた木札に文字がある。
右から「記 奉修勧請 天下泰平 村内安全 五穀成就 ☆ 表象 平成二十八年」とあった。
この板書の木札は毎年使ってきたが、年に一度は年号を書き換える。
年号は替わっていないから書き換えるのは年数である。
今年は平成29年であるから、「八」の部分を小刀で削って文字を消す。
消えたら「九」の文字を墨書する。
堂下さんも忙しいが村の人たちもすることがある。
区長も一緒になって朱印を押したごーさん札を竹に挟んでいた。
竹の先っぽは三ツ割。
3カ所の切れ目にごーさん札を挟む。
図で書けばわかりやすいが、文字で説明するには難しい。
三つに割いた2カ所の切れ目に二つ折りしたごーさん札を丸めるように挟むのだ。
挟むと云うか、窄めて丸めて切れ目に入れる感じである。
札は二つ折れのまま二枚重ねで残る切れ目に挟む。
そうすれば抜けることはない。
今では竹挟みになっているが、かつてはハゼウルシの木を三つに割ってそうしていたと推測される。
このごーさん札はオコナイによって初祈祷される。
祈祷されたお札は持ち帰って苗代に立てると云っていた。
時期はいつになるのか聞いていないが、おそらく早植え。
していれば、であるが、JAから苗を購入している場合はおそらく立てることはないと思われる。
こうした準備を整えてもまだ終わらない。
作業は勧請縄作りである。
鴨居にロープを三本垂らす。
それに差し込んでいくモノがある。
松の枝木とフクラソ(フクラシの木)の枝木である。
葉がある松の枝木は2本。
葉はそれぞれが外側になるようにする。
写真でわかると思うが、ロープを一回転させて固定するのは葉側の外のロープだけだ。
中央のロープを拡げて、そこに枝を差し込む。
そうすることで中央のロープに固定する。
その次も同じようにして固定する材はフクラソ(フクラシの木)である。
フクラソは葉っぱ付き。
松と同じように葉が外側になるように固定していく。
上から順に、松、フクラソ、松、フクラソ、松、フクラソのそれぞれを順に三段組み。
それを2セットの一対を作って、間に幣を挟む。
こうして出来上がった勧請縄は壮観に見える。
完成すれば本尊前の祭壇に置いて祈祷する。
女竹に括り付けた「ソミノシソンナリ」のお札にごーさん札も並べる。
お神酒もお餅も供えてオコナイの準備が調った。
堂下さんが下支えされた作業は材料の調達から道具の準備に祭具の調整などに直会後に行われる勧請縄架けまである。
受付が始まった時間は午後1時。
祭具などすべてが調った時間は午後2時半であった。
そうして始まった鵜山のオコナイ。
太鼓打ちを役目する堂下さんも席に着いた。
もう一人の堂下さんは掃き箒を手にした。
太鼓を打つ間に座敷の床を打ち鳴らすダンジョーの所作がある。
かつては内陣であったろう。
今は会所にもなっている場は畳座敷。
畳が傷んでしまってはいけないからと叩かれるめろう竹は横に置く。
叩く木は平成26年までハゼノキであった。
採取するのが難しくなって、翌年の平成27年より市販の丸太材にした。
本尊、祭壇前に座る長老が導師となって般若心経を唱える。
一同も揃って唱える般若心経である。
一同がそれぞれの場に着座されてから始まる。
それぞれの席にはめろう竹と叩く丸太材も並べた。
おりんを打って唱える心経は読本もある。
一字、一字の心経を丁寧に唱えられる。
そのときだ。
大きな声で発せられた「ダンジョー」の合図に太鼓はドドッド、ド・・の連打。
丸太材で叩く人たちもカタカタカタ・・と連打する。
突然に動き出した箒掃きの堂下はせっせと勧請縄を作っていた残骸を掃きだす。
それまで閉めていたお堂回廊側の扉を開放して箒で掃きだす。
このような所作ははじめて見る。
これまで拝見した村行事のオコナイ事例は67行事。
その中でも特筆すべき所作である。
尤も県内事例にオコナイすべてにランジョー所作があるわけではない。
私が取材した範囲であれば42行事。
その中にも類事例は見当たらない。
驚くばかりの箒掃き所作に感動する。
箒掃きは太鼓や丸太材叩きのランジョーが終わるまで掃き続ける。
時間にしてみれば1分間もなかったであろう。
音が消えたらあの喧噪さはどこへいったのだろうと思ってしまうぐらいの静けさの村に戻る。
太鼓や丸太材(かつてはハゼノキ)で叩く音が村内に響き渡る。
その音を聞こえた人も、聞こえなかった人も、聞こえたと想定して、各家に居る婦人たちは家の座敷を箒で掃く。
まるで普段の生活のように座敷を掃除するかのように箒で掃くと堂下さんが話してくれた。
縁側まで掃いて外庭まで掃くような感じで悪霊を追い出したということである。
音も掃除も悪霊を追い出す所作。
板書に書いた「天下泰平 村内安全 五穀成就」の如く、村から悪霊を追い出して村内は安全にと祈祷されたわけだ。
オコナイは未だ終わらない。
ありがたいごーさんの朱印がある。
どこともそうであるが、朱印は額に押して印しを受ける。
ベンガラの朱印だけにベタっとつく。
いくつかの村で押してもらったことのある額押し。
そのまま帰宅したときの家人の驚いた顔が忘れられない。
この額押しを含めた所作が一連のオコナイ行事。
終った時間は午後3時前だった。
それからは直会をしていると聞いていた。
会食を含む直会はだいたいが1時間。
それが終わってから勧請縄架けに行くと話していた。
凡そ1時間と判断して遅くなった昼食を摂る。
鵜山にはスーパーもコンビニエンスストアもない。
何も用意していなかったから近くのスーパーイオン名張店まで。
鵜山からそれほど遠くはないように思えたが、思った以上に時間がかかる。
大急ぎで食べた時間は午後3時半。
落ち着いて食べている場合でもない。
真福寺に戻って直会が終わるのを待っていた。
そこにやってきた堂下さん。
もう済ましたと云うから大慌てだ。
カンジョ場はすぐにわかった。
なるほど、ここが村の入口。
風景写真家が撮った写真を見たことがある景観であるが、彼らはカンジョ場に架けた勧請縄を知ることはないだろう。
架けた大木の樹齢は何年になるのだろうか。
古木のような感じはしないでもない樹木は椿。
3月になれば赤い花を咲かせているのだろうか。
(H29. 1. 9 EOS40D撮影)
同じ大字名の鵜山は名張川を隔てた東の三重県名張市にもある。
両県に跨る同名地の鵜山は明治のころ(と思われる)に行政区割りされ、奈良県と三重県側に二つが存在することになった。
山添村大塩の住民K氏は奈良県側を西鵜山、三重県側を東鵜山と呼んでいる。
三重県側から言えば山添村の鵜山は大和鵜山と呼ぶ東大寺の所領地である。
その地にある寺社は真福寺に八柱神社だ。
当地に始めてやってきたのは平成25年の1月7日だ。
その日にお会いしたご婦人が話してくれた鵜山のオコナイ行事である。
長老が唱える般若心経がある。
オコナイに般若心経では僧侶の姿が見えない。
たぶんにそうであろう。
そのうちランジョーと呼ばれる作法がある。
ハゼノキを縁か何かに叩く。
その間には太鼓も打つ。
ランジョー作法をしているときの各家はどうしているか。
婦人が云うには各家の座敷を掃除するというのだ。
これはどういうことなのであろうか。
一般的にいえばランジョーは村から悪霊を追い出す所作である。
悪霊は家の座敷からも追い出す。
そういうことではないだろうか。
オコナイを終えた村の人は勧請縄を椿の木に架けると云っていた。
同時進行かどうかわからないが、村の初祈祷、つまり修正会にはオコナイにツナカケの両方をしている村がある。
山添村でいえば岩屋である。
興味を持ちづけてから早や5年。
ほぼ時間帯も聞いていたから、とにかく行ってみようということにした。
午後1時前、鵜山に着いてはみたものの誰もいない。
時間帯が違ったのか、それとも日にちが替わったのか不安になる。
どなたかが来られる可能性も捨てきれず、二日前に行われた山の神の痕跡を拝見していた。
前日は暴風雨であった。
雨がいかに激しかったかわかるクラタテに敷いた半紙である。
クラタテは四つ。
いずれも幣を取り付けている竹を四方に立てていた。
その真上にあるカギヒキ。
大木カシにぶら下げていた1本、2本。
いずれも藁で作ったホウゼンもある。
村の戸数は17戸。
山の神の御供は5年前より、また少なくなっていた。
さて、本日に行われるオコナイは真福寺である。
本堂一部の扉を開放していた。
鴨居に注連縄を張っている。
お参りに来られる人のために扉を開放しているのだろう。
賽銭箱があり、その横に松の束もある。
細い注連縄もあり、シキビと思われる葉を挿していた。
そこへ村の人と思われる男性がホンダ製の電動カートに乗ってやってきた。
行事取材のことを伝えたら受け入れてくださった。
男性はこの日に務める話しを堂下(どうげ)さん。
行事進行を手伝う役目にある。
ここ山添村では手伝いさんのことを堂下で呼ぶ地域は多い。
ほとんどと云っていいくらいに多い。
寺の扉を開けるから上がってと云われて入堂した真福寺は村の会所にもなっているようだ。
村の行事を下支えする手伝いの堂下さんの計らいで本尊を安置する場も案内してくださる。
正面は美しい姿の地蔵菩薩立像。
その下にある小像は不動明王であろうか。
右座は弘法大師。
左に阿弥陀仏であろうか。
その並びのさらに右横に役行者に赤鬼、青鬼の二体。
赤鬼、青鬼は前鬼に後鬼であろう。
その右横に架けてある掛図も弘法大師。
同寺は高野山真言宗である。
その弘法大師尊像を描いた掛図は新調されたのか、それとも修復されたのか、真新しい。
もしかとしてと思って掛図の裏面を拝見したら、あった。
表装仕直したときに昔の書を切って貼ったのだろう。
元の書面に寄進されたと思われる講中10人の連名書がある。
寄進年号は享保四亥年(1719)正月□一日。
右写し之講中5人の名もある。
その時代は弘化三年(1846)午六月。
表具云年とあるから表装仕直し。
さらに年月を経た昭和14年は手直し。
続けて平成6年9月に表具とあった。
300年も継承してきた弘法大師尊像の掛図である。
ちなみにお葬式の際にお墓にもっていった傘も残していると話してくれたが、実物を拝見する機会を逃した。
本堂を拝見させてもらって気がつく仏間の清掃時期。
1月はオコナイ行事の前。
3月は春の彼岸前。
5月は月末日。
8月はお盆の前。
秋の9月も彼岸前。
10月は村の祭りの前である。
いずれも掃除をされる人は堂下さん。
行事の日までに清掃されて、美しくしている。
そのような話題提供をしてくれる堂下さんは準備に忙しい。
しばらくすれば区長以下村の人たちもやってきた。
人数が多くなれば準備作業が捗る。
天井に吊っていた太鼓を降ろして床に置く。
太鼓を吊っていたロープを紐解けば緩やかに降りてくる。
手慣れた作業ぶりである。
先に来ていた堂下さんは用意していた注連縄に松葉とフクラソの枝木を挿し込む。
堂下さんが云うには、この注連縄は縄であっても勧請縄だという。
村の入口辺りに生えている太い椿の木がある。
その木に架ける勧請縄は一年間も鵜山の入口に祭られる。
悪霊が村に入ってこないように村を守る勧請縄を架ける地は「カンジョ」の名で呼んでいる。
もう一人は墨を摺る。
おそらくごーさん札の墨書であろう。
そう思った通りの墨書は手書き。
やってくる村の人が一枚一枚書いていく。
書いた文字は右から「牛王 真福寺 宝印」だ。
細筆で書いたものだから文字は細い。
そこに押す朱印は古くから使われてきた宝印。
角がすり減って丸い。
朱肉のベンガラにつけて印を押す。
来られる村の人、それぞれがごーさん札を書いているのが珍しい。
これまで数々のオコナイを拝見してきたが、村の人の各自一人ずつが作るのはおそらくここ鵜山だけではないだろうか。
もう一つの特徴は「蘇民将来」の紙片である。
名前書きの紙片もある。
「蘇民将来」の紙片の文字。
「そうみのしそんなり」の表現もあればカタカナ表記の「ソミノシソンモンナリ」とか「ソミン シソンナリ」というのもあるし、漢字書きの「蘇民生来子孫門也」もある。
何枚かに分けて書かれた紙片は、先を割っためろう竹(女竹)に挟んでいる。
枚数は家族の人数分であろうか、聞きそびれた。
これを見て思い出したのが、隣村になる別れの村の三重県名張市の鵜山・福龍寺で行われたオコナイ行事である。
名張市鵜山のオコナイによく似たものが登場する。
福龍寺本堂の柱に括り付けた紙片がある。
フシの木片の四方に「ソミ」「ノシ」「ソン」「ナリ」の文字がある。
コヨリ捩じりの青、赤色紙を付けて鮮やかな「チバイ」は護符。
紙片には「ソミノシソンナリ」の文字がある。
供えた家族の人数分だという「チバイ」は蘇民将来(そみんしょうらい)の子孫成りというのである。
挟む竹の違いは見られるものの、両鵜山の人たちはいずれも蘇民将来の子孫成り、であった。
平成25年の1月13日に取材させてもらった名張市鵜山のオコナイに感謝したのは言うまでもないが、山添村鵜山の「蘇民将来」の紙片の名称を聞かずじまいだった。
村の人たちはそれら以外に御供する餅2個を持ち寄っていた。
餅は1軒について2個ずつと決まっているそうだ。
もう一つの仕掛りは勧請縄に架ける板書の木札である。
古くから使われてきた木札に文字がある。
右から「記 奉修勧請 天下泰平 村内安全 五穀成就 ☆ 表象 平成二十八年」とあった。
この板書の木札は毎年使ってきたが、年に一度は年号を書き換える。
年号は替わっていないから書き換えるのは年数である。
今年は平成29年であるから、「八」の部分を小刀で削って文字を消す。
消えたら「九」の文字を墨書する。
堂下さんも忙しいが村の人たちもすることがある。
区長も一緒になって朱印を押したごーさん札を竹に挟んでいた。
竹の先っぽは三ツ割。
3カ所の切れ目にごーさん札を挟む。
図で書けばわかりやすいが、文字で説明するには難しい。
三つに割いた2カ所の切れ目に二つ折りしたごーさん札を丸めるように挟むのだ。
挟むと云うか、窄めて丸めて切れ目に入れる感じである。
札は二つ折れのまま二枚重ねで残る切れ目に挟む。
そうすれば抜けることはない。
今では竹挟みになっているが、かつてはハゼウルシの木を三つに割ってそうしていたと推測される。
このごーさん札はオコナイによって初祈祷される。
祈祷されたお札は持ち帰って苗代に立てると云っていた。
時期はいつになるのか聞いていないが、おそらく早植え。
していれば、であるが、JAから苗を購入している場合はおそらく立てることはないと思われる。
こうした準備を整えてもまだ終わらない。
作業は勧請縄作りである。
鴨居にロープを三本垂らす。
それに差し込んでいくモノがある。
松の枝木とフクラソ(フクラシの木)の枝木である。
葉がある松の枝木は2本。
葉はそれぞれが外側になるようにする。
写真でわかると思うが、ロープを一回転させて固定するのは葉側の外のロープだけだ。
中央のロープを拡げて、そこに枝を差し込む。
そうすることで中央のロープに固定する。
その次も同じようにして固定する材はフクラソ(フクラシの木)である。
フクラソは葉っぱ付き。
松と同じように葉が外側になるように固定していく。
上から順に、松、フクラソ、松、フクラソ、松、フクラソのそれぞれを順に三段組み。
それを2セットの一対を作って、間に幣を挟む。
こうして出来上がった勧請縄は壮観に見える。
完成すれば本尊前の祭壇に置いて祈祷する。
女竹に括り付けた「ソミノシソンナリ」のお札にごーさん札も並べる。
お神酒もお餅も供えてオコナイの準備が調った。
堂下さんが下支えされた作業は材料の調達から道具の準備に祭具の調整などに直会後に行われる勧請縄架けまである。
受付が始まった時間は午後1時。
祭具などすべてが調った時間は午後2時半であった。
そうして始まった鵜山のオコナイ。
太鼓打ちを役目する堂下さんも席に着いた。
もう一人の堂下さんは掃き箒を手にした。
太鼓を打つ間に座敷の床を打ち鳴らすダンジョーの所作がある。
かつては内陣であったろう。
今は会所にもなっている場は畳座敷。
畳が傷んでしまってはいけないからと叩かれるめろう竹は横に置く。
叩く木は平成26年までハゼノキであった。
採取するのが難しくなって、翌年の平成27年より市販の丸太材にした。
本尊、祭壇前に座る長老が導師となって般若心経を唱える。
一同も揃って唱える般若心経である。
一同がそれぞれの場に着座されてから始まる。
それぞれの席にはめろう竹と叩く丸太材も並べた。
おりんを打って唱える心経は読本もある。
一字、一字の心経を丁寧に唱えられる。
そのときだ。
大きな声で発せられた「ダンジョー」の合図に太鼓はドドッド、ド・・の連打。
丸太材で叩く人たちもカタカタカタ・・と連打する。
突然に動き出した箒掃きの堂下はせっせと勧請縄を作っていた残骸を掃きだす。
それまで閉めていたお堂回廊側の扉を開放して箒で掃きだす。
このような所作ははじめて見る。
これまで拝見した村行事のオコナイ事例は67行事。
その中でも特筆すべき所作である。
尤も県内事例にオコナイすべてにランジョー所作があるわけではない。
私が取材した範囲であれば42行事。
その中にも類事例は見当たらない。
驚くばかりの箒掃き所作に感動する。
箒掃きは太鼓や丸太材叩きのランジョーが終わるまで掃き続ける。
時間にしてみれば1分間もなかったであろう。
音が消えたらあの喧噪さはどこへいったのだろうと思ってしまうぐらいの静けさの村に戻る。
太鼓や丸太材(かつてはハゼノキ)で叩く音が村内に響き渡る。
その音を聞こえた人も、聞こえなかった人も、聞こえたと想定して、各家に居る婦人たちは家の座敷を箒で掃く。
まるで普段の生活のように座敷を掃除するかのように箒で掃くと堂下さんが話してくれた。
縁側まで掃いて外庭まで掃くような感じで悪霊を追い出したということである。
音も掃除も悪霊を追い出す所作。
板書に書いた「天下泰平 村内安全 五穀成就」の如く、村から悪霊を追い出して村内は安全にと祈祷されたわけだ。
オコナイは未だ終わらない。
ありがたいごーさんの朱印がある。
どこともそうであるが、朱印は額に押して印しを受ける。
ベンガラの朱印だけにベタっとつく。
いくつかの村で押してもらったことのある額押し。
そのまま帰宅したときの家人の驚いた顔が忘れられない。
この額押しを含めた所作が一連のオコナイ行事。
終った時間は午後3時前だった。
それからは直会をしていると聞いていた。
会食を含む直会はだいたいが1時間。
それが終わってから勧請縄架けに行くと話していた。
凡そ1時間と判断して遅くなった昼食を摂る。
鵜山にはスーパーもコンビニエンスストアもない。
何も用意していなかったから近くのスーパーイオン名張店まで。
鵜山からそれほど遠くはないように思えたが、思った以上に時間がかかる。
大急ぎで食べた時間は午後3時半。
落ち着いて食べている場合でもない。
真福寺に戻って直会が終わるのを待っていた。
そこにやってきた堂下さん。
もう済ましたと云うから大慌てだ。
カンジョ場はすぐにわかった。
なるほど、ここが村の入口。
風景写真家が撮った写真を見たことがある景観であるが、彼らはカンジョ場に架けた勧請縄を知ることはないだろう。
架けた大木の樹齢は何年になるのだろうか。
古木のような感じはしないでもない樹木は椿。
3月になれば赤い花を咲かせているのだろうか。
(H29. 1. 9 EOS40D撮影)