O家に寄る前に先に伺ったT家。
庭に長い木を横たえている。
そこに置いてあった小豆粥。
昔は小正月の1月15日にしていたT家の「ナルカナランカ」のお供えであるが、どちらかといえば小正月の小豆粥が色濃い様相である。
これより始まる垣内のトンドの前に伐ってきた木はホウソの木。
ホウの木の名で呼ぶこともあるらしいが、たぶんにコナラの木であろう。
そのホウソの木の本数は家に居る男の人の数を揃える。
お爺さんに息子さんに孫さんにひ孫。
三世帯同居の大家族だ。
長さに決まりはないらしいが、立派な大きさのホウソの木である。
このホウソの木はトンド焼きを終えたら割り木にする。
その割り木は翌年の薪に利用すると話してくれた。
撮らせてもらったときの時間帯は午前9時半。
村にある他の垣内の行事を拝見して戻ってきた午前11時過ぎ。
チェーンソーで切って束ねていた。
間に合わなかった。
山添村でナルカナランカをしているお家は少ない。
聞いているのは先ほど拝見したT家とこれから向かうO家だけだ。
他の村々でも話題に上らなくなったナルカナランカ。
民俗語彙で云えば成木責めである。
編集発行は田原本町教育委員会。
昭和59年3月に発刊された『田原本町の年中行事』に「成木責め」のことが書かれている。
大字矢部のトンド行事に関連する小正月行事の記事に「正月14日に集めた丸太の心棒に藁束。大きなトンドを組んだ翌朝15日の4時に点火する。燃え尽きるころのトンドの火は提灯に移して持ち帰り神棚の燈明に移す。トンドの火はそれだけでなく家で小豆粥を炊く種火にする。炊いた小豆粥は家の神仏をはじめ出入口や井戸にも。宮さんの杵都岐神社に三社、観音堂、薬師堂、ツナカケ場、地蔵尊などにも小豆粥を供える。子どもたちは、トンドで燃え残った竹の棒をもって、家々の成木(※実の成る木で特に柿の木)に向かって、“成るか、成らんか”と声をあげる。次に、それに応えるように“成ります、成ります”と自問自答してあちこち走り回る。これを成木責めという」解説文(※わかりやすいように一部補正して文章化した)がある。
尤も現在は休止中と補足してあることから、昭和59年にはすでに中断している習俗である。
平成3年11月に発刊された中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』がある。
その中に、項目「ナルカナラヌカ」に挙げていた御杖村習俗の解説文に「15日の朝の小豆粥を柿の木に供える。このとき、一人がナタを持っていき、「ナルカナラヌカ ナラントチョンギルゾ」と唱えると、もう一方の一人が「ナリマス ナリマス」と、唱えてから柿の木に粥を供えた」と書いてあった。
「ナラントチョンギルゾ」とは思い切った言い方であるが、同じような台詞を聞いたことがある。
その地は東山中。
奈良市別所町で話してくださったO婦人の体験記憶。
「正月七日の七草の日だった。一人の子どもがカキの木にナタを“チョンしてなるかならんか”と声をあげた。そうすれば、もう一人の子供が“成ります 成ります”と返答した。親から“ナルカナランカをしてこい”と云われたのでそうしていた」という事例の言い方は若干の違いはあるが、まさに同意表現である。
ただ、何をちょん切るのか、曖昧のように思えた。
昭和63年10月、天理市楢町の楢町史編集委員会が発行した『楢町史』がある。
「1月15日の朝、正月の注連縄、門松などを集めてトンドで焼きあげた。トンドの火で焼いた餅を食べると歯が強くなる。“ブトの口も焼こう、ノミの口もシラメの口も焼こう”と云って餅を焼いた。家では小豆粥を炊いて神仏に供えた。また、柿の木にナタでキズをつけて、“この木、成るか、成らんか”と叩いて木責めをして小豆粥を挟むこことある」という記事も注目される。
また、編集・発行が京都府立山城郷土資料館の昭和59年10月に発刊した『京都府立山城郷土資料館企画展-祈りと暮らし-』に、精華町祝園で行われていた成り木責めの習俗が書かれている。
「正月の井戸飾りに使った竹の先に餅をさして、トンドの火で焼いてたべていた。この餅は歯痛のまじないになり、屋敷の乾(戌亥)の方角に立てて蛇除けにした。この他、トンドで餅を焼いた竹で、柿の木を叩いて、成り木責めをしていた」とある。
他にもかつてしていたという地域が多々ある。
天理市苣原町、天理市藤井町、奈良市都祁南之庄町、山添村大塩、山添村毛原、宇陀市菟田野佐倉、宇陀市大宇陀本郷に御所市東佐味などだ。
奈良県内の広い地域に亘って行われていた「ナルカナランカ」は今や絶滅危惧種。
山添村内の一大字で数軒が今尚続けておられたことに感謝する。
先に挙げたT家も昔はナタでキズをつけて「ナルカナランカ」をしていたが、今はそれをしていない。
ただ、ホウソの木に供える小豆粥は今も継承しているのであるが、これから向かうO家はナタでキズをつける「ナルカナランカ」はしている。
両家の在り方を見ることで、一つの事例として記録させていただくのである。
貴重な事例を撮っておきたいと願い出た写真家Kさんの希望を叶えたく訪れた。
O家もT家を同じように伐ってきたホウソ(コナラ)の木を並べていた。
家のオトコシ(男)の数だけ伐ってくるというホウソの木。
「ほんまは4人やけど、今年は5本にした」という。
T家ではここに小豆粥を供えていたが、O家にはそれがない。
これから出かける自前の山。
ご主人が生産している茶畑まで案内されるが、山の上。
急な坂道に軽トラが登っていく。
一面いっぱい広がる茶畑に残り柿がある。
前述した事例のすべては柿の木。
「ナルカナランカ」をするには必須の山の木である。
男性が云うには、ここには柿の木が数種類あるという。
熟しが美味いエドガキにコロガキ、イダリガキがある。
そのうち、一本の柿の木に向かってナタを振り上げる。
カッ、カッと音を立てるナタ振り。
数か所にキズを入れたら小豆粥をおます。
供えるというよりも「おます」の表現の方が合っている。
奈良県人のすべてではないが、供えることを「おます」と云う人は多い。
尤も若い人でなく、高齢者であるが・・・。
小皿に盛っていた小豆粥を箸で摘まんで伐り口におます。
キズをつける場所は二股に分かれる部分であるが、この年は幹の数か所にキズをつけた。
キズ口は白い木肌。
そこに小豆粥を少し盛る。
男性は「ナルカナランカ」の台詞を覚えておられないが、おばあさんがおましていたので今でもこうしているという。
「もう一本もしておこう」とすぐ傍にあったカキの木に移動した。
そこでも同じようにナタを振って伐りこむ。
そして、小豆粥をおます。
眺望は山村ならではの地。
美しい風景に思わずシャッターを押した向こう側を高速で走り抜ける車。
眼下を走る道路は名阪国道。
資本経済を運ぶ物流の道でもあるから平日はトラックが多く見られる。
山添村毛原で聞いたトンド焼きがある。
書初めの書も焼くトンド焼きに餅も焼く。
竹の先を割って餅を挟む。
それを火の勢いが落ちたトンドに伸ばして餅を焼く。
焼いた餅は小豆粥に入れて食べる。
餅を焼いた竹は1mほどの長さに切断して持ち帰る。
家にある味噌樽や醤油樽の上にのせておけば、味が落ちないという俗信があった。
焼けたトンドの灰は田畑に撒く。
トンド焼きの前にしていたのが、「ナルカ ナラヌカ」であった。
柿の木の実成り、つまり豊作を願って柿の木の根元辺りの粗い木の皮をナタで削り落として、「ナルカ ナラヌカ」を叫びながら、ナタ目を入れる。
ナタで削った処に持ち帰ったトンドの火で炊いた小豆粥を供えた。
時間帯は早朝だった。
この事例でもわかるように柿の実成りを願う作法なのである。
おます小豆粥はトンドの火で炊く。
二つが揃って成り立っていた「成木責め」は小正月行事であった。
「成木責め」は奈良県特有でもなく、他府県にもあった。
ネットで紐解けば、日本大百科全書どころか、ブリタニカ国際大百科事典や世界大百科事典にも載っている項目である。
なお、同村の知り合いにNさんが居る。
同家も「ナルカナランカ」をしていたが、それはお婆さんが生きて時代だった。
柿の木をナタでキズをつけてアズキ粥を供えていたと云う。
そのときの台詞が「成るか、成らんか 成らんならな、ちょちぎる」だったことを思い出した。
成木責めをもって村起こしをしている長野県飯田市鼎東鼎の事例もある。
(H29. 1. 9 EOS40D撮影)
庭に長い木を横たえている。
そこに置いてあった小豆粥。
昔は小正月の1月15日にしていたT家の「ナルカナランカ」のお供えであるが、どちらかといえば小正月の小豆粥が色濃い様相である。
これより始まる垣内のトンドの前に伐ってきた木はホウソの木。
ホウの木の名で呼ぶこともあるらしいが、たぶんにコナラの木であろう。
そのホウソの木の本数は家に居る男の人の数を揃える。
お爺さんに息子さんに孫さんにひ孫。
三世帯同居の大家族だ。
長さに決まりはないらしいが、立派な大きさのホウソの木である。
このホウソの木はトンド焼きを終えたら割り木にする。
その割り木は翌年の薪に利用すると話してくれた。
撮らせてもらったときの時間帯は午前9時半。
村にある他の垣内の行事を拝見して戻ってきた午前11時過ぎ。
チェーンソーで切って束ねていた。
間に合わなかった。
山添村でナルカナランカをしているお家は少ない。
聞いているのは先ほど拝見したT家とこれから向かうO家だけだ。
他の村々でも話題に上らなくなったナルカナランカ。
民俗語彙で云えば成木責めである。
編集発行は田原本町教育委員会。
昭和59年3月に発刊された『田原本町の年中行事』に「成木責め」のことが書かれている。
大字矢部のトンド行事に関連する小正月行事の記事に「正月14日に集めた丸太の心棒に藁束。大きなトンドを組んだ翌朝15日の4時に点火する。燃え尽きるころのトンドの火は提灯に移して持ち帰り神棚の燈明に移す。トンドの火はそれだけでなく家で小豆粥を炊く種火にする。炊いた小豆粥は家の神仏をはじめ出入口や井戸にも。宮さんの杵都岐神社に三社、観音堂、薬師堂、ツナカケ場、地蔵尊などにも小豆粥を供える。子どもたちは、トンドで燃え残った竹の棒をもって、家々の成木(※実の成る木で特に柿の木)に向かって、“成るか、成らんか”と声をあげる。次に、それに応えるように“成ります、成ります”と自問自答してあちこち走り回る。これを成木責めという」解説文(※わかりやすいように一部補正して文章化した)がある。
尤も現在は休止中と補足してあることから、昭和59年にはすでに中断している習俗である。
平成3年11月に発刊された中田太造著の『大和の村落共同体と伝承文化』がある。
その中に、項目「ナルカナラヌカ」に挙げていた御杖村習俗の解説文に「15日の朝の小豆粥を柿の木に供える。このとき、一人がナタを持っていき、「ナルカナラヌカ ナラントチョンギルゾ」と唱えると、もう一方の一人が「ナリマス ナリマス」と、唱えてから柿の木に粥を供えた」と書いてあった。
「ナラントチョンギルゾ」とは思い切った言い方であるが、同じような台詞を聞いたことがある。
その地は東山中。
奈良市別所町で話してくださったO婦人の体験記憶。
「正月七日の七草の日だった。一人の子どもがカキの木にナタを“チョンしてなるかならんか”と声をあげた。そうすれば、もう一人の子供が“成ります 成ります”と返答した。親から“ナルカナランカをしてこい”と云われたのでそうしていた」という事例の言い方は若干の違いはあるが、まさに同意表現である。
ただ、何をちょん切るのか、曖昧のように思えた。
昭和63年10月、天理市楢町の楢町史編集委員会が発行した『楢町史』がある。
「1月15日の朝、正月の注連縄、門松などを集めてトンドで焼きあげた。トンドの火で焼いた餅を食べると歯が強くなる。“ブトの口も焼こう、ノミの口もシラメの口も焼こう”と云って餅を焼いた。家では小豆粥を炊いて神仏に供えた。また、柿の木にナタでキズをつけて、“この木、成るか、成らんか”と叩いて木責めをして小豆粥を挟むこことある」という記事も注目される。
また、編集・発行が京都府立山城郷土資料館の昭和59年10月に発刊した『京都府立山城郷土資料館企画展-祈りと暮らし-』に、精華町祝園で行われていた成り木責めの習俗が書かれている。
「正月の井戸飾りに使った竹の先に餅をさして、トンドの火で焼いてたべていた。この餅は歯痛のまじないになり、屋敷の乾(戌亥)の方角に立てて蛇除けにした。この他、トンドで餅を焼いた竹で、柿の木を叩いて、成り木責めをしていた」とある。
他にもかつてしていたという地域が多々ある。
天理市苣原町、天理市藤井町、奈良市都祁南之庄町、山添村大塩、山添村毛原、宇陀市菟田野佐倉、宇陀市大宇陀本郷に御所市東佐味などだ。
奈良県内の広い地域に亘って行われていた「ナルカナランカ」は今や絶滅危惧種。
山添村内の一大字で数軒が今尚続けておられたことに感謝する。
先に挙げたT家も昔はナタでキズをつけて「ナルカナランカ」をしていたが、今はそれをしていない。
ただ、ホウソの木に供える小豆粥は今も継承しているのであるが、これから向かうO家はナタでキズをつける「ナルカナランカ」はしている。
両家の在り方を見ることで、一つの事例として記録させていただくのである。
貴重な事例を撮っておきたいと願い出た写真家Kさんの希望を叶えたく訪れた。
O家もT家を同じように伐ってきたホウソ(コナラ)の木を並べていた。
家のオトコシ(男)の数だけ伐ってくるというホウソの木。
「ほんまは4人やけど、今年は5本にした」という。
T家ではここに小豆粥を供えていたが、O家にはそれがない。
これから出かける自前の山。
ご主人が生産している茶畑まで案内されるが、山の上。
急な坂道に軽トラが登っていく。
一面いっぱい広がる茶畑に残り柿がある。
前述した事例のすべては柿の木。
「ナルカナランカ」をするには必須の山の木である。
男性が云うには、ここには柿の木が数種類あるという。
熟しが美味いエドガキにコロガキ、イダリガキがある。
そのうち、一本の柿の木に向かってナタを振り上げる。
カッ、カッと音を立てるナタ振り。
数か所にキズを入れたら小豆粥をおます。
供えるというよりも「おます」の表現の方が合っている。
奈良県人のすべてではないが、供えることを「おます」と云う人は多い。
尤も若い人でなく、高齢者であるが・・・。
小皿に盛っていた小豆粥を箸で摘まんで伐り口におます。
キズをつける場所は二股に分かれる部分であるが、この年は幹の数か所にキズをつけた。
キズ口は白い木肌。
そこに小豆粥を少し盛る。
男性は「ナルカナランカ」の台詞を覚えておられないが、おばあさんがおましていたので今でもこうしているという。
「もう一本もしておこう」とすぐ傍にあったカキの木に移動した。
そこでも同じようにナタを振って伐りこむ。
そして、小豆粥をおます。
眺望は山村ならではの地。
美しい風景に思わずシャッターを押した向こう側を高速で走り抜ける車。
眼下を走る道路は名阪国道。
資本経済を運ぶ物流の道でもあるから平日はトラックが多く見られる。
山添村毛原で聞いたトンド焼きがある。
書初めの書も焼くトンド焼きに餅も焼く。
竹の先を割って餅を挟む。
それを火の勢いが落ちたトンドに伸ばして餅を焼く。
焼いた餅は小豆粥に入れて食べる。
餅を焼いた竹は1mほどの長さに切断して持ち帰る。
家にある味噌樽や醤油樽の上にのせておけば、味が落ちないという俗信があった。
焼けたトンドの灰は田畑に撒く。
トンド焼きの前にしていたのが、「ナルカ ナラヌカ」であった。
柿の木の実成り、つまり豊作を願って柿の木の根元辺りの粗い木の皮をナタで削り落として、「ナルカ ナラヌカ」を叫びながら、ナタ目を入れる。
ナタで削った処に持ち帰ったトンドの火で炊いた小豆粥を供えた。
時間帯は早朝だった。
この事例でもわかるように柿の実成りを願う作法なのである。
おます小豆粥はトンドの火で炊く。
二つが揃って成り立っていた「成木責め」は小正月行事であった。
「成木責め」は奈良県特有でもなく、他府県にもあった。
ネットで紐解けば、日本大百科全書どころか、ブリタニカ国際大百科事典や世界大百科事典にも載っている項目である。
なお、同村の知り合いにNさんが居る。
同家も「ナルカナランカ」をしていたが、それはお婆さんが生きて時代だった。
柿の木をナタでキズをつけてアズキ粥を供えていたと云う。
そのときの台詞が「成るか、成らんか 成らんならな、ちょちぎる」だったことを思い出した。
成木責めをもって村起こしをしている長野県飯田市鼎東鼎の事例もある。
(H29. 1. 9 EOS40D撮影)