午後は明日香村を離れて北上する。
少しの時間も調査に費やす。
飛鳥民俗調査会が調査・編集し、昭和62年3月に財団法人飛鳥保存財団が発行した『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』もあるが、その一部を掲載した昭和56年から62年にかけて発刊された『明日香風』が手元にある。
昭和60年1月に発刊された『明日香風―13号―』に小正月のビワの葉乗せ小豆粥のことを書いてあった。
1月15日は小正月。
川原でもトンドの火で煮ていた小豆で粥を炊いた。
神仏から家の戸口に墓にも供える、とある。
また、昭和62年1月に発刊された『明日香風―21号―』の「明日香の民俗点描」に載せた“季節の神饌”テーマ。
それが墓地に供えた小豆粥であった。
カラー写真で紹介する解説文は「1月14日の夕方(一部の地域では1月15日の朝)のトンドの火を提灯等で持ち帰り、小豆粥を炊く。
この小豆粥を15日の早朝から、家の隅々、家敷周り、田畑、ムラの神仏などに供える。
この際に、ビワの葉に盛って供えるところが多い。
稲渕では古くはユズリハの葉を用いた家もある。・・・中略・・・明日香村における小正月の小豆粥は、小正月の来訪霊のための供物・・・神饌と解釈できる」とあった。
執筆は大阪城南女子短期大学講師(当時)の野掘正雄氏。
『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』を調査・報告した飛鳥民俗調査会の一人であった。
掲載されていた写真は墓石の前にいっぱい並べていたビワの葉に盛った小豆粥。
その数、なんと45枚もある。
壮観な情景に驚くばかりであるが、現状はどうであろうか探してみる。
掲載写真に「稲渕・阪田・祝戸の共同墓地の小豆粥」とあるから、ここに違いないと断定した。
探し当てた墓地は数段に分かれている。
そう思ったのは六地蔵が二つあることだ。
下段というか入口付近にあった六地蔵は3体、3体の分かれ石仏。
もう一段高い所にあった六地蔵は造りも石も新しいように思えた。
大字の違いであるのかわからないが、この六地蔵を含めて各戸の墓石にはまったくと云っていいほど皆無だった。
昭和60年初めにはどこともしていた小正月の風習は30年も経てば皆無になっていた。
(H29. 1.15 EOS40D撮影)
少しの時間も調査に費やす。
飛鳥民俗調査会が調査・編集し、昭和62年3月に財団法人飛鳥保存財団が発行した『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』もあるが、その一部を掲載した昭和56年から62年にかけて発刊された『明日香風』が手元にある。
昭和60年1月に発刊された『明日香風―13号―』に小正月のビワの葉乗せ小豆粥のことを書いてあった。
1月15日は小正月。
川原でもトンドの火で煮ていた小豆で粥を炊いた。
神仏から家の戸口に墓にも供える、とある。
また、昭和62年1月に発刊された『明日香風―21号―』の「明日香の民俗点描」に載せた“季節の神饌”テーマ。
それが墓地に供えた小豆粥であった。
カラー写真で紹介する解説文は「1月14日の夕方(一部の地域では1月15日の朝)のトンドの火を提灯等で持ち帰り、小豆粥を炊く。
この小豆粥を15日の早朝から、家の隅々、家敷周り、田畑、ムラの神仏などに供える。
この際に、ビワの葉に盛って供えるところが多い。
稲渕では古くはユズリハの葉を用いた家もある。・・・中略・・・明日香村における小正月の小豆粥は、小正月の来訪霊のための供物・・・神饌と解釈できる」とあった。
執筆は大阪城南女子短期大学講師(当時)の野掘正雄氏。
『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』を調査・報告した飛鳥民俗調査会の一人であった。
掲載されていた写真は墓石の前にいっぱい並べていたビワの葉に盛った小豆粥。
その数、なんと45枚もある。
壮観な情景に驚くばかりであるが、現状はどうであろうか探してみる。
掲載写真に「稲渕・阪田・祝戸の共同墓地の小豆粥」とあるから、ここに違いないと断定した。
探し当てた墓地は数段に分かれている。
そう思ったのは六地蔵が二つあることだ。
下段というか入口付近にあった六地蔵は3体、3体の分かれ石仏。
もう一段高い所にあった六地蔵は造りも石も新しいように思えた。
大字の違いであるのかわからないが、この六地蔵を含めて各戸の墓石にはまったくと云っていいほど皆無だった。
昭和60年初めにはどこともしていた小正月の風習は30年も経てば皆無になっていた。
(H29. 1.15 EOS40D撮影)