飛鳥民俗調査会が調査・編集し、昭和62年3月に財団法人飛鳥保存財団が発行した『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(※集)-』がある。
その中に大字八釣の小正月の習俗を記録していた。
トンド焼きの翌日に、燃え尽きた灰を「豊年、豊年」と云いながら、畑に撒いたという事例もあれば、その日の朝は摘み取ったビワの葉に小豆粥をのせて村中の何カ所かに供えるという記事である。
小豆粥はハツヤマに採ってきた穂付きカヤの軸を箸代わりにして食べたという記事もあるが・・・。
気になるのはビワの葉乗せの小豆粥である。
この日は明日香村の上(かむら)にある家が屋内どころか屋外の何カ所かに亘って同じようにビワの葉に小豆粥を盛って">お参りに行くと云っていた。
取材を約束させてもらった上(かむら)に向かう道すがらに立ち寄った大字八釣。
可能性は否定できないと思って途中下車をする。
『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』には地図が掲載されている。
その地図は概略図であるがお供えする箇所を明示している。
氏神、田んぼ、庚申、観音、寺、寺の石仏、稲荷、倉庫の8カ所である。
それらはどこであるのかも調査の対象として村内に入った。
この日の朝は冷える。
幹線道路は難なく通行できたが、村内は薄っすらと積もった雪に村の道はカチコチ。
凍り状態に近いからノーマルタイヤでは滑ってしまう。
もちろん運動靴であっても滑る可能性がある。
ゆっくり、かつ慎重に歩いて小豆粥を供えている場を探ってみる。
そろりそろりと歩いたところに情緒が見られる土塀がある。
空は雪、ではなく、青空が広がる。
爽やかな空気は凛としていた。
土塀の向こうに見える建屋は大和棟造りの民家。
土塀も入れた佇まいが美しい。
はじめに見つけたのは村の里道沿いにある石仏である。
見ての通り、右は庚申石。
左は錫杖をもつ地蔵立像である。
その前に並べたビワの葉のせの小豆粥は七つある。
小豆色に染まった小豆粥もあれば、白い小豆粥もある。
小さく千切ったモチ(キリコモチ)を添えている小豆粥もある。
7人の村人が供えたのか、それとも・・。
アイスバーン状になっている緩やかな坂道の向こうに森が見える。
そこはたぶんに神社であろう。
滑りやすい坂道はしっかりと足を踏みしめるように歩く。
神社は弘計皇子(おけおおおじ若しくはをけのみこ)神社だった。
平成28年5月3日に訪れた八釣。
ナエノマツにイロバナを苗代に立てると話してくださった総代の奥さん。
毎日のオヒカリを灯していると話していた神社である。
境内から村の女性が出てこられた。
お話を伺えば、神社に参拝して小豆粥を供えてきたばかりだという。
村で今もなおビワの葉に小豆粥を盛って供えている家は4軒ぐらいだそうだ。
お家によって供え方が違うという。
炊いたご飯の家もあれば、餅を供える家もある。
小豆粥を供えるのが基本であるが、そうしている家もあるということだ。
弘計皇子神社に供えていたお供えはどこにあるのだろうか。
辺りを見渡したら、あった。
拝殿中央扉の左右の格子棚に供えていた。
右に4個の左に3個。
合わせて7個ということは、先ほど拝見した庚申さんに供えた数と同じである。
神社より登る道はあるが、ここより行けば桜井市の高家との境界地。
畑地にはたぶんに供えることはないだろうと判断して戻った下り道。
庚申さんよりそれほど離れていない辻の角に祠がある。
そこが地蔵さんのようだ。
お堂と云ってもいいぐらいの立派な造りの祠に安置されている地蔵さんは庚申さんの横にある地蔵さんよりも背丈が高いようだ。
溶けない雪の粒が点々。
祠の祭壇まで風に煽られて溜まっていた雪に同席するかのように馴染んでいた小豆粥は5個だった。
その地蔵尊に架かる橋の向こうにビワの大木がある。
新葉が生えているところに白い花が見える。
このビワの木の葉を摘んでお供えの皿に利用しているのか、存知しないが、付近を見ても他にはそれらしきものが見当たらなかった。
その辻だったか覚えてないが、近くに浄土宗寺院の妙法寺がある。
村中央道より一段と高いところに建つ本堂の扉は開いていないが、回廊に供えていた。
そこからもう少し奥に入る。
段丘の向こう側に小社が見られる。
狐さんがあるから稲荷社である。
建つ地はこれもまた一段と高い位置にある。
雪が積もった登り道は不安定と思われたのか、お供えの数は少なかった。
他にもあるらしいが、ここまでだ。
『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』が伝える小豆粥地図には特記事項がある。
弁天さんは個人の家内。
どこの家が該当するのか、探すには一軒、一軒の呼び鈴をおして尋ねなければわからない。
村中巡ってから家に戻れば、家のトイレや井戸、竃、神棚の神さん、仏壇に小豆粥を供えるとあった。
(H29. 1.15 EOS40D撮影)
その中に大字八釣の小正月の習俗を記録していた。
トンド焼きの翌日に、燃え尽きた灰を「豊年、豊年」と云いながら、畑に撒いたという事例もあれば、その日の朝は摘み取ったビワの葉に小豆粥をのせて村中の何カ所かに供えるという記事である。
小豆粥はハツヤマに採ってきた穂付きカヤの軸を箸代わりにして食べたという記事もあるが・・・。
気になるのはビワの葉乗せの小豆粥である。
この日は明日香村の上(かむら)にある家が屋内どころか屋外の何カ所かに亘って同じようにビワの葉に小豆粥を盛って">お参りに行くと云っていた。
取材を約束させてもらった上(かむら)に向かう道すがらに立ち寄った大字八釣。
可能性は否定できないと思って途中下車をする。
『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』には地図が掲載されている。
その地図は概略図であるがお供えする箇所を明示している。
氏神、田んぼ、庚申、観音、寺、寺の石仏、稲荷、倉庫の8カ所である。
それらはどこであるのかも調査の対象として村内に入った。
この日の朝は冷える。
幹線道路は難なく通行できたが、村内は薄っすらと積もった雪に村の道はカチコチ。
凍り状態に近いからノーマルタイヤでは滑ってしまう。
もちろん運動靴であっても滑る可能性がある。
ゆっくり、かつ慎重に歩いて小豆粥を供えている場を探ってみる。
そろりそろりと歩いたところに情緒が見られる土塀がある。
空は雪、ではなく、青空が広がる。
爽やかな空気は凛としていた。
土塀の向こうに見える建屋は大和棟造りの民家。
土塀も入れた佇まいが美しい。
はじめに見つけたのは村の里道沿いにある石仏である。
見ての通り、右は庚申石。
左は錫杖をもつ地蔵立像である。
その前に並べたビワの葉のせの小豆粥は七つある。
小豆色に染まった小豆粥もあれば、白い小豆粥もある。
小さく千切ったモチ(キリコモチ)を添えている小豆粥もある。
7人の村人が供えたのか、それとも・・。
アイスバーン状になっている緩やかな坂道の向こうに森が見える。
そこはたぶんに神社であろう。
滑りやすい坂道はしっかりと足を踏みしめるように歩く。
神社は弘計皇子(おけおおおじ若しくはをけのみこ)神社だった。
平成28年5月3日に訪れた八釣。
ナエノマツにイロバナを苗代に立てると話してくださった総代の奥さん。
毎日のオヒカリを灯していると話していた神社である。
境内から村の女性が出てこられた。
お話を伺えば、神社に参拝して小豆粥を供えてきたばかりだという。
村で今もなおビワの葉に小豆粥を盛って供えている家は4軒ぐらいだそうだ。
お家によって供え方が違うという。
炊いたご飯の家もあれば、餅を供える家もある。
小豆粥を供えるのが基本であるが、そうしている家もあるということだ。
弘計皇子神社に供えていたお供えはどこにあるのだろうか。
辺りを見渡したら、あった。
拝殿中央扉の左右の格子棚に供えていた。
右に4個の左に3個。
合わせて7個ということは、先ほど拝見した庚申さんに供えた数と同じである。
神社より登る道はあるが、ここより行けば桜井市の高家との境界地。
畑地にはたぶんに供えることはないだろうと判断して戻った下り道。
庚申さんよりそれほど離れていない辻の角に祠がある。
そこが地蔵さんのようだ。
お堂と云ってもいいぐらいの立派な造りの祠に安置されている地蔵さんは庚申さんの横にある地蔵さんよりも背丈が高いようだ。
溶けない雪の粒が点々。
祠の祭壇まで風に煽られて溜まっていた雪に同席するかのように馴染んでいた小豆粥は5個だった。
その地蔵尊に架かる橋の向こうにビワの大木がある。
新葉が生えているところに白い花が見える。
このビワの木の葉を摘んでお供えの皿に利用しているのか、存知しないが、付近を見ても他にはそれらしきものが見当たらなかった。
その辻だったか覚えてないが、近くに浄土宗寺院の妙法寺がある。
村中央道より一段と高いところに建つ本堂の扉は開いていないが、回廊に供えていた。
そこからもう少し奥に入る。
段丘の向こう側に小社が見られる。
狐さんがあるから稲荷社である。
建つ地はこれもまた一段と高い位置にある。
雪が積もった登り道は不安定と思われたのか、お供えの数は少なかった。
他にもあるらしいが、ここまでだ。
『飛鳥の民俗-調査研究報告第一輯(集)-』が伝える小豆粥地図には特記事項がある。
弁天さんは個人の家内。
どこの家が該当するのか、探すには一軒、一軒の呼び鈴をおして尋ねなければわからない。
村中巡ってから家に戻れば、家のトイレや井戸、竃、神棚の神さん、仏壇に小豆粥を供えるとあった。
(H29. 1.15 EOS40D撮影)