正月明けの7日に「キツネガエリ(きつね狩り)」をしていると話してくださったのは子供会の会長さんだった。
場所は「亥の子」の行事をしていた大阪府豊能郡能勢町の天王区だ。
「キツネガエリ」に祭具がある。
「亥の子」の祭具は地面を叩くイノコ棒にサンダワラで作る獅子頭であるが、「キツネガエリ」には、まさに狐が登場する。
狐と云っても本物の動物の狐ではなく、藁で作った「キツネ」である。
もう一つの祭具はイノコ棒でなく、竹の棒に挟んだ「フクの神」である。
「亥の子」にも詞章があるが、「キツネガエリ」もある。
村の全戸を巡って玄関前で作法することも同じだが、詞章は異なる。
「亥の子」の詞章は「イノコのもちつき 祝いましょう かーねが湧くやらジンガミさん お神酒を供えて 祝いましょ」であるが、「キツネガエリ」の詞章は「わーれは なーにをすんぞ びんぼうぎつねを追い出して ふくぎつねをよびこーめ」と聞いているが、さてさてどうなるのか。
能勢天王のキツネガエリはかつて1月14日に行われていたという。
つまりは小正月の前日である。
それがどういう理由があったのか、聞きそびれたが、今では1月7日。
子どもたちが藁で作ったキツネをもって各戸を巡る。
玄関前ですることは「亥の子」行事と同じであるが、お家に降りかかる災いを除くとともに、新しき新年を迎える祝福の行事である。
かつては天王地区以外にもあったそうだが、現在は大阪府唯一の伝統行事である。
天王区は旧村全戸で65戸余り。
居住している村人はおよそ百人。
寒さ厳しい大阪最北部の山間地にある小盆地集落である。
杉本尚次氏調査(1970年代)研究ノート・桃山学院大学社会学論集『大阪府の民間信仰』に事例研究の一つに選んだ地区である。
論文にある天王区年中行事に正月8日に行われる寺の薬師さんの「8日トウ」や19日の「宮のトウ」に興味をもった。
「8日トウ」にはハゼノキで作る牛王杖がある。
それは宮衆に配られて苗代に立てると書いてあった。
まさにオコナイ、初祈祷の修正会である。
また、1月11日に7月1日は伊勢講もある。
また、現在は解散されたものの講中の遺産がある。
嘉永七年に建てた愛宕山の灯籠に文政十年の〇金刻印が見られる金毘羅さんの灯籠もある。
いずれも天王区の講中であり、それぞれ愛宕講に金毘羅講の「若中」と呼ばれていた若者組が建てたようだ。
また、5月8日の「ハナオリ」の日には参る習慣があった。
新仏のある家ではオハギ、団子を作って兵庫県三田市にある永沢寺に参ったとある。
永沢寺は秋葉講。
その関係もあったのだろう。
近年には「能勢の文化遺産・再発見」に食文化、住文化、年中行事などの伝統文化に関する調査されてきた関西大学文学部教授(当時)の森孝男のワークショップがある。
森孝男氏と初めてお会いしたのは平成28年11月20日に実施された奈良県立民俗博物館の企画ガイドツアーであった。
住居を専門に調査、論じてこられた森孝男氏の解説に魅了されたことを覚えている。
もう一度、お会いすることがあれば天王区のキツネガエリの調査について詳しくお聞きしたい、と思っている。
杉本尚次氏調査(1970年代)研究ノート・桃山学院大学社会学論集『大阪府の民間信仰』に1月14日の「きつね狩り」行事も書かれており、全文は次の通りだ。
「きつねの藁人形をつけたものを先頭に幣をさした青竹をもち、太鼓を叩いて(天王)神社に集合し、各家をまわる。厄払いである。このあときつねを川に流し、区長宅に引掲げる。菓子を食べ祝金を平等に分配する。小学校4年生以下の子供だが、最近は人員が不足し保育園児も参加する。亥の子よりも古いものと云われている」とあった。
1970代の記録であるが、仮に始めのころであれば、今から45年前の様相である。
それからどのように汎化したのか、それとも変わりなくしているのか興味津々の行事取材である。
昭和39年に撮影された映像記録がある。
平成25年7月10日発行の「三村幸一(※明治36年生まれの写真家)が撮った大阪の祭り―大阪歴史博物館所蔵写真から―」に一部掲載されたPDFがある。
それによれば「天王のきつねがえりは、大阪府内では能勢町天王だけで行われています。1月14日に、男の子たちが集まって藁でキツネを作り、御幣とともに青竹にさし、それを先頭に各家をまわります。最後はキツネの口に賽銭として硬貨を噛ませ、橋の上から川に放り投げます。キツネに象徴される害獣を、集落から追い出して福を招く行事です」とあった。
編集・執筆に関西大学大阪都市遺産研究センター研究員の黒田一充氏。
センターリサーチ・アシスタントに吉野なつこ氏の名が見られる。
良い仕事だけに展示図録があれば、是非とも購入したい「大阪の祭り」映像である。
その映像を見る限り、登場する男児たちの人数規模と当時の服装だけが違っているだけだ。
祭具や所作はまったく今でも同じように見える。
撮られた昭和39年から数えて今年で56年目。
長い年月を経ていても色褪せてはいない写真に感動する。
昼前に参集される天王のキツネガエリ。
亥の子の行事と同じ顔触れの子供たちが集まってきた。
子供会の会長さんもやってきた。
会長が手にしているのは、見た目ですぐわかる動力ヘリコプターのドローン。
村の記録に頭上からとらえる映像も残しておきたいと買っておいた機械を持ちこんだ。
ドローンは初デビュー。
上手く撮れればいいのだが、電波は難なく届くだろうか。
集合場所は区称が天王神社の高皇産霊神社。
大木などが生い茂る社そうに、樹木よりもっと上からとらえる映像はわかるが、その樹木の下から発信されるコントローラーの電波が気にかかる。
樹木がある場合は見た目よりも電波は届かない。
木々の枝や葉で電波が遮られるのである。
試しに操作されてドローンを飛ばす。
難なく動いたから大丈夫と思われたが・・・。
キツネガエリに登場する主役は藁で作ったキツネ。
昔は子どもたちが作っていたが、今は区長さんの役目だそうだ。
この日までに作っておいた藁製のキツネは立派なものである。
真っすぐ伸びる青竹にきつねの胴体に突きさす。
その上にはこれもまた立派な幣がある。
青竹は手で持つ部分だけを葉付きにしている。
亥の子にもタイショウを務めたSちゃんが出発に役目する。
小さな子どもたちは青竹に挿した小幣を持ってキツネのお伴に就く役目だ。
もう一つの役目は太鼓打ち。
タイショウが囃すキツネガエリの詞章に合わせて太鼓を打つ。
太鼓は新しくもないが。
やや古い太鼓のような感じであるが、年代等の文字は見られない。
まずは練習を兼ねた出陣の一声である。
氏神さんを祀る高皇産霊神社に向かって2回繰り返すキツネガエリの囃子。
「わーれ(我)はなーに(何)をするどんやい キーツネガエリをするどんやい きーつねのすーし(寿司)を いくおけ(幾桶)つけて ななおけ(七桶)ながら エイ、エイ ばっさりこ ビンボウキツネ(貧乏狐)をおいだせ(追い出せ) フークギツネ(福狐)おいこめ(追い込め)」である。
昨年の亥の子行事の際に聞いていた台詞は「わーれは なーにをすんぞ びんぼうぎつねを追い出して ふくぎつねをよびこーめ」と聞いていたが、それよりもっと長めの台詞であったし、若干の違いもあったことを知る。
詞章に合わせて、太鼓は「ドン ドン ドン、ドン、ドン」の打ち方で繰り返す。
こうして出陣したキツネガエリの子どもたちにSちゃんのお父さんでもある子供会の会長は付き添いを兼ねて太鼓持ちの役目に就く。
神社から祭具を持って地区南にある橋に向かう。
亥の子には幼児の参加は認められないが、キツネガエリは就くことができるから一緒に着いていって、本来の出発地点になる天王川に架かる小谷橋(別名に寺田橋)に再集合する。
橋上で行われる本来の出陣にお父さんが助っ人する。
下流に向かって「ドン ドン ドン、ドン、ドン」打ちの太鼓に「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい きーつねのすーしを いくおけつけて ななおけながら エイ、エイ ばっさりこ ビンボウキツネをおいだせ フークギツネおいこめ」を囃す。
その音頭に合わせて小さな子どもたちは青竹に挟んだ幣を上下に振って、さぁ出発だ。
天王区は65戸の集落。
大きく分けて、集落中央を南北に走る県道173号線の自動車道を挟んで北東の上に南西の下がある。
かつてはその2地区にわけていたが、現在は7組になるようだ。
先に向かったのは北東にある集落。
なだらかな村の里道を歩いていく子どもたち。
幼子は母親が付いていく。
何軒か巡ってはその家に持ちこむ「フク」。
「フク」を持ちこむのはキツネであるが、実は御幣である。
年明けのこの日に、神さんではなく「フク」を家に招き入れるのがキツネガエリ。
玄関先でその作法をしている場合は留守の家。
キツネが内部に入り込んでいる場合は家人が在している場合であっても作法はまったく同じ。
台詞も同じで「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい きーつねのすーしを いくおけつけて ななおけながら エイ、エイ ばっさりこ ビンボウキツネをおいだせ フークギツネおいこめ」を2回囃し立てる。
キツネも幣振りの子どもたちも裏木戸からは入らずに、門屋の正門から入らせてもらう。
正門が低ければキツネも屈めて潜る。
扉から中に入れば、そこは広がるカドニワ。
広い場所でそれぞれがそれぞれの位置について「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい きーつねのすーしを いくおけつけて ななおけながら エイ、エイ ばっさりこ ビンボウキツネをおいだせ フークギツネおいこめ」。
映像でもわかるようにここの家は家人が屋内で待っていた。
キツネは玄関内に入りこんで「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい・・・」。
「フク」を招き入れたキツネ役のタイショウ親子は気持ちよさそうに太陽を仰ぎ見る。
眩しそうであるが、胸を張っている。
やり遂げた感があって撮っている私も気持ちが良い。
役目をこなした幼児も誇らしげ。
意気揚々と門屋から飛び出して走っていく。
この日の午後は晴れ間もあってほどよい温もりを感じるが、実は寒い。
冷えた朝方に凍った池。
鯉は厚く張った氷の下を悠々と泳いでいる。
大阪府中心部の最低気温は1.4度。
最高気温が10.9度。
ところがここ能勢町天王区は大阪府の最北部。
標高は海抜540m。
中心都市部とは5度以上も差があるというからどれほど寒いことやら。
参考までに平成25年に行われた天王区のキツネガエリを取材した朝日新聞社による公開動画の映像は一面が真っ白である。
積雪することが多いと聞いていた天王区。
この日は降雪もなく、車はここまで到達することができたが、例年であればたいがいが積雪。
峠越えすらできない場合が多いと聞いていたから、私にとってはラッキーなキツネガエリ取材の日であった。
天王区の民家の佇まいが美しい。
昔はほとんどが茅葺の民家であったような趣がある。
そのような雰囲気を想定できる民家をバックにキツネガエリの作法をする子どもたちを撮る。
そのときの子どもたちの様相は一定ではない。
それだからこそ思わずシャッターを押してしまう。
今でも農家の佇まいをみせるお家もキツネが持ち込む「フク」。
「フク」は神さんでなく「福」である。
福とくればいわゆる招福である。
出発した時間帯は昼時間。
集落を巡ってまだ半分も行っていない。
まだまだかかる北東の地区である。
小休止する間に撮らせてもらう藁製のキツネ。
まるで生きているかのような姿、形。
目はらんらんと輝く赤い目。
なんの植物であるのか、尋ねた結果はアオイの赤い実だった。
写真ではわかり難いが、ぱっくり開けた、キツネの口には舌がある。
これもまたアオイの葉。
角の尖った葉ではなく、丸い葉を使うそうだ。
亥の子の獅子頭もそうだが、天王区に出没する「フク」や「豊作」招きに自生する花や植物。
場合によったら獅子頭の牙にする干しトウガラシもある。
手造り感もあるが、その姿は美しく躍動するのである。
キツネガエリに随行する子どもたち。
太鼓やキツネ囃子に幣を振る。
勢いよく上下に降る。
その幣は挟んだ青竹から外れてヒラヒラ落ちる。
それが「フク」である。
落ちたヒラヒラを拾い上げてお家の人に手渡して「フク」を授ける。
子どもたちは「フク」をもたらす従者でもあるようだ。
どの家も家人が居るわけでもない。
不在である場合はどうするのか。
見ての通りの郵便受けのポスト。
ポストの口を開けて何枚も何枚も突っ込む。
そんな感じであるが、「フク」はこうして届けているのだ。
何十軒も巡った午後1時であってもまだまだある「フク」を届ける訪問先。
ときにはお家の中で待っている高齢者もおられる。
了解をいただいて屋内でキツネガエリの一行を屋内で高齢の婦人とともに待っていた。
しばらくすれば一行の声が近づいてくる。
玄関の扉を開けて入室するキツネ。
タイショウは男の子に替わっていた。
囃す詞章も大きな声で、「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい きーつねのすーしを いくおけつけて ななおけながら エイ、エイ ばっさりこ ビンボウキツネをおいだせ フークギツネおいこめ」。
太鼓は屋外で打っている。
家人が在室している場合のキツネガエリ作法は2回。
不在であれば1回になる。
幣を振っていた次年度のタイショウになると思われる女の子が玄関に入ってきて祝儀を受けとる。
受け取ればたくさんの「フク」を授かる。
あまりにも多いから手から「フク」が毀れそうになるが、授かった高齢の婦人は毀れそうな笑みになっていたのが印象的だった。
授かったヒラヒラの「フク」は神棚などに奉る人が多いように聞く。
ところでキツネガエリは天王区以外にあるのだろうか。
大阪府内では天王区にしか残っていないようだが、ここより北隣村になる兵庫県の丹波篠山の福住にもあるらしい。
そこでも同じようなマツリの様相であるが「福の神」の名で呼ばれる村の伝統行事であるが、近くの福住中・下では「福の神・キツネガエリ」の名で呼ばれている。
「きつね狩り」は兵庫県養父市大屋町にもあるようだ。
ここも1月14日の行事日である。
「キツネガエリ」を「きつね狩り」とも称する地域もあれば、「フク」を各家にもたらす「キツネ」を「福の神」と称する地域もあることを知る。
ネットで検索すれば、もっと多くの地域に存在しているようだが、これ以上は当項で述べるつもりはない。
村の各戸をあまねく巡る一行は1時間ほどでどれほどのお家に「フク」をもたらしたのか、一軒、一軒、数えてはいない。
ざっと見渡して、未だ半分もいっていない。
本日の天候は晴れであるが、雪が舞う日であれば、歩きも困難であったろう。
祝ってくれる子供たちに目を細めていた高齢者の眼差し。
作法をされたあとにたくさんの「フク」を貰って一層、目が笑っていた。
そこよりすぐ近く。
アスファルト舗装にキツネが躍っている姿がある。
「こんにちは きつねがえりでーす」の文字で迎えたキツネガエリの一行。
道路に描いたのは子どもさんではなく、ヤッサン一座のだんまるさんだった。
どこかで見たことがある人だと思った。
会話してすぐに思い出した映像は大阪朝日放送の超有名な「探偵!ナイトスクープ」である。
登場していたのはお弟子さんのぼんまるさんであるが・・。
各地で活躍するプロの紙芝居屋である。
一年前に当地に引っ越してきただんまるさん一家。
ぼんまるさんとともに生活しているという。
天王区は素晴らしい村。
ここに惚れこんで移住したという。
村の一員でもあるだんまるさんの家にも「フク」を授けるキツネガエリ。
太鼓を打って、「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい・・・」。
「フク」の幣は振る勢いもあってお庭に散らばる。
ここらで一服して食べてやと云われて差し出す手造りのおにぎり。
イロゴハンのおにぎりではなく、ふりかけを振ったおにぎり。
味付け海苔を巻いたおにぎりをほうばる子どもたちにとっては「フク」の神。
美味しそうによばれていた。
午後2時ころになってようやく半数の戸数をこなした一行は、集落を南北に貫く県道173号線を跨いで南西下の集落に向かう。
一軒、一軒に「フク」を授けてきた一行の先頭は3人のタイショウたち。
昔は数え年十歳の子どもが「テン」と呼ぶ「大将」を務めていたと子供会の役員が話す。
本来は1月14日であった。
昔は学校も休みにしてくれた。
次の日も休みだった。
男の子だけが行う村の行事だった。
キツネガエリはとにかく一番寒い日だったとことも記憶にあるという。
ちなみに白い幣は青竹に挟んでいるが、その青竹は「キネ(杵)」と呼び、幣を含めて「御幣」の名があるという。
タイショウが3人揃って作法するキツネガエリ。
お家の向こう側に見える建物は平成27年3月末をもって閉校した能勢町立天王小学校だ。
タイショウたちも御幣を振る小学生の子どもたちもみな、平成28年4月創立の小中一貫校の能勢町立天王小・中学校へ学び舎を移した。
不在のお家であっても、同じように作法をするが、一回限り。
散らかした「福の神」を拾い集めて郵便ポストに詰め込んだお家の窓には眼鏡型の注連縄。
ウラジロもある注連縄には緑色の松葉も飾っていた。
それを見届けて先を急ぐ。
前もってお願いしておきた家がある。
亥の子のときもお世話になったH家。
お家は立派に組まれた石垣の家。
門口には自作の松、竹、梅の門松を立てていた。
亥の子のときに撮らせてもらった玄関口をあがった場。
今回のキツネガエリもそうさせていただきたく、お礼を兼ねてお願いしたら了解してくださった。
要件を先に済ませて一行を待つが、やってくる気配を感じない。
今か、今かとやきもきされていた石垣の家の隣家婦人。
そういえば、ある時点になれば、どこかで昼食を摂ると聞いていたことを思い出す。
待つこと40分。
ようやく顔をみせた一行は隊を組んでいるようかに見えた。
待つ位置にやってくる一行をデジカメに撮っておきたいと話していた隣家の婦人にシャッターチャンスを教えていた。
きちんと撮れたかどうかはわからないが、一目散に戻ったお家。
キツネを玄関口から迎える婦人の姿は屋内だ。
太鼓打ちもそうだが、タイショウも次の年代の子どもに交替していた。
そしてやってきた石垣の家。
大急ぎでお家にあがらせてもらってスタンバイ。
キツネは玄関口を入ったところの立ち姿。
太鼓打ちは玄関前。
後方に本来のタイショウたちが並んで「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい・・・」。
祝儀を受け取る子どもはさらに若い幼子。
そして「フク」を授けるタイショウ。
お昼を済ませた後半は役目を入れ替わっていた。
これもまた次世代への引き渡し。
体験することで次の年代へ継承してきたのであろう。
休憩した子どもたちは英気を取り戻していた。
次の家、次の家へと巡ってキツネガエリに台詞を発声する。
どこかの時点で私も一服する時間を設けなければならない。
そうは思っているものの時間も場所も確保できない。
昨年の11月には亥の子行事に同行していたから、次の家がどこになるのか、ある程度は予測できる。
しかも、風情のあるお家が多い。
狙って撮っておきたい民家がある。
ここも、あの家もと欲張りなことである。
眼鏡型の輪っかの正体がわかったところで一息つける。
キツネガエリの子どもたちは子供会の親が運転する車に乗って南部に位置する新興住宅地に向かっていった。
ここより歩いては到底追いつくこともできない遠い地。
亥の子のときもそうだったが、そこまでは、と思ってここで待つことにした。
見送った時間は午後3時15分。
ようやく食べられる遅い昼食。
食べた時間帯は午後3時半。
冷えた身体に冷えたおにぎりを立ち食いした。
一行が再び戻ってくると思われる場で待っていた。
天王川に架かる橋である。
そのすぐ傍にあった建物に窓が開いていた。
どなたかがおられるようで人影が動く。
民家でもないような建物内に器械が見える。
興味のあるものは何でも聞いてしまう民俗収集癖がある。
屋内におられた数人の女性は作業の中休め。
お仕事は中高校の運動用のジャージ縫製であった。
縫製の機械であったのだ。
長年においてこの仕事をしているという女性が云うには「家内工業の規模ですわ」という。
昭和17年生まれのYさんの話しによれば、ここ天王区は凍り豆腐が盛んな土地だったという。
天王区は標高が高いだけに冬場はとても寒い。
この日の朝もマイナス5度になった、という。
ここ天王区は霧が降りない土地。里も篠山になるらしい。
凍り豆腐は天然の畑で干していた。
窓から指さす県道の向こう側の畑。
今ではすっかり消えて面影すらない。
凍り豆腐の製造に適していた天王区に10軒以上の工場があった時代は昭和33年ころ。
但馬の人が凍り豆腐の仕事に就いていた。
父親を亡くした時代になるそうだ。
当時はこんな幅広い県道もなかった。
今から40年も前の昭和38、9年になって開通した新道の県道である。
幅広い県道に天王川に架かっていた橋は下流に移動せざるを得なかった。
一回移してからもう一回下げたという。
その橋の名はキツネ橋。
当時の橋といえば、丸太にトタン板。
垂木で橋にしていた。
話しをしてくれる婦人はここへ嫁入りして50年にもなる、という。
このキツネ橋が架かる辺りに生息しているのがオオサンショウウオ。
地域を定めない生息確認域の天王川、細谷川、奥野々川を所在地とする国指定の特別天然記念物であり、大阪北部農と緑の総合事務所による保護活動がなされている。
Yさんはさらに話してくださる。
お爺さんは板を並べて、凍り豆腐をイデかしていた。
イデかすとは凍らすということだ。
「イデる」は濁音だが、本体は「いてる」である。
「いてる」は「凍てる」である。
「凍てる」が濁音化して「イデる」となったわけだ。
ちなみに凍り豆腐を作っていたお爺さんが云った言葉がある。
アレを川に流したら凍らないという伝えがある。
「アレ」とは何ぞえ。
それは「キツネ」である。
もうすぐ戻ってくるキツネガエリの一行。
戻ってきたら、キツネの口に5円玉を銜えさせて川に投げ込む。
投げ込んだか川の流れにまかされてキツネが流れる。
そうすれば、凍り豆腐は凍らないということである。
そのキツネは昔も今も一匹。
昔は子どもが作っていたが、今は区長が作る。
小学4年生以上の子どもたちが集まってキツネガエリをしていたが、いつまで続けられるか心配される少子化時代である。
ここで凡そ45分も待っていた。
新興住宅地にも「フク」を授けていたキツネガエリの子どもたちが戻ってきた時間帯は午後4時15分。
数年前までの出発時間は午後2時。
すべてを終える時間は夜の時間帯の午後7時。
少子化によって女の子に幼子も入れて継承してきたが、あまりも遅くなっては子どもに危険が及ぶ可能性もあると考えられて、これまで時間よりも2時間早くした。
そのおかげもあって、現在は午後12時から午後5時まで。
日が暮れないうちに終えるようにされた。
残すはあと1軒。
最後の力を振り絞って元気よく声をだす。
「わーれ(我)はなーに(何)をするどんやい キーツネガエリをするどんやい きーつねのすーし(寿司)を いくおけ(幾桶)つけて ななおけ(七桶)ながら エイ、エイ ばっさりこ ビンボウキツネ(貧乏狐)をおいだせ(追い出せ) フークギツネ(福狐)おいこめ(追い込め)」の詞章である。
「わーれ」は「我」であるが、「藁」の可能性も拭えない。
奇妙なのは「きーつねのすーし」である。
この「すーし」はお寿司である。
何故にお寿司が詞章にあるのか。
福井県おおい町の川上上方事例に「狐の寿司は七桶八桶 八桶に足らんとて 狐がえりするわ」がある。
同県同町の川上父子事例では「狐がえりがえりよ わら何するど 若宮をまつるとて 狐がえりがえりするぞ 狐のすしは七桶なから 八桶にたらぬとて 狐がえりがえりよ」である。
福井県事例から考えるに、天王区の詞章に「寿司」があってもおかしくはない。
しかも天王の詞章に「いくおけ(※幾桶)つけて ななおけ(※七桶)ながら・・」がある。
寿司は七桶であるが、遠く離れた土地に類似性をもつのはまったく不明である。
また、兵庫県美方郡香美町(香住区香住)に町指定無形民俗文化財に「入江きつねぎゃあろ」がある。
同町のHPには「キツネ狩りは播磨・丹波そして但馬の全域、県外では東が福井県の白木半島(三方町)西は鳥取県米子市に至ります。大体兵庫県・京都府北部を中心に、若狭から伯耆[ほうき]に至る山陰地方に広がっており、入江の「キツネ狩り」は嫁の「シリハリ」と習合した形態をもつ伝統行事で貴重な文化財」とあるかた、相当広範囲に亘ってキツネ狩り(キツネガエリ)があるわけだ。
ちなみに兵庫県のわらべ歌に朝来町の「狐狩り」の詞章がある。
その他の地域も多種多様。
鳥追いと同じ意味をもつというのが興味深い。
各地の民俗事例から考えるに、天王区のキツネガエリは、狐追い行事のような気がするのだが・・・どうだろうか。
さて、天王区のキツネガエリは各戸に「フク」を授けて、終わりではなく、最後にキツネの川流しで終える。
場所は出発地点と同じ、天王川に架かる小谷橋の上である。
午後4時半の記念写真。
4時間半にも亘って行ってきたキツネガエリは笑顔で〆た。
そして始まった〆のキツネガエリ囃子。
勢いよく太鼓を打って御幣も振る。
詞章も大きな声で力強い。
そして、「いっせーのっ」とみなが声をかけて放り投げる。
Yさんが話してくれたキツネに銜えさせる5円玉は確認できなかったが、天王区の人たちに「フク」を授けたキツネは流れる川に身を任せるように下流に流れていった。
すべてを終えた一行は天王公民館に集合する。
講堂と思われる場に大きな版画を掲示していた。
「貧乏ぎつね追い出せ 福ぎつね追いこめ」の文字がある版画の背景にある民家は茅葺家。
その前に並ぶ5人の子どもたち。
キツネをもつタイショウの顔はどことなく女の子に見える。
右に並ぶ小さな子どもも女の子。
服装は昔風であるが、この様相から近代になって描かれたものであろう。
かつての情景であるなら、男の子だけのはずだが、作品は素晴らしい。
さて、今年の子どもたちは、といえば、座敷で寛いでいた。
冷えた身体を温めてくれる部屋ストーブ。
薪でもなく電気フアンストーブである。
子供会の会長や役員さんは各家からいただいた祝儀を集計して分配される。
袋のお金はいったいなんぼやろと透かしてみる子どもは中学生。
下の子どもは眼中にないように見えた。
携帯電話に記録された歩数計。
実質の歩行時間は1時間41分。
距離にして5.2kmだったことを付記しておく。
(H29. 1. 7 EOS40D撮影)
(H29. 1. 7 SB932SH撮影)
場所は「亥の子」の行事をしていた大阪府豊能郡能勢町の天王区だ。
「キツネガエリ」に祭具がある。
「亥の子」の祭具は地面を叩くイノコ棒にサンダワラで作る獅子頭であるが、「キツネガエリ」には、まさに狐が登場する。
狐と云っても本物の動物の狐ではなく、藁で作った「キツネ」である。
もう一つの祭具はイノコ棒でなく、竹の棒に挟んだ「フクの神」である。
「亥の子」にも詞章があるが、「キツネガエリ」もある。
村の全戸を巡って玄関前で作法することも同じだが、詞章は異なる。
「亥の子」の詞章は「イノコのもちつき 祝いましょう かーねが湧くやらジンガミさん お神酒を供えて 祝いましょ」であるが、「キツネガエリ」の詞章は「わーれは なーにをすんぞ びんぼうぎつねを追い出して ふくぎつねをよびこーめ」と聞いているが、さてさてどうなるのか。
能勢天王のキツネガエリはかつて1月14日に行われていたという。
つまりは小正月の前日である。
それがどういう理由があったのか、聞きそびれたが、今では1月7日。
子どもたちが藁で作ったキツネをもって各戸を巡る。
玄関前ですることは「亥の子」行事と同じであるが、お家に降りかかる災いを除くとともに、新しき新年を迎える祝福の行事である。
かつては天王地区以外にもあったそうだが、現在は大阪府唯一の伝統行事である。
天王区は旧村全戸で65戸余り。
居住している村人はおよそ百人。
寒さ厳しい大阪最北部の山間地にある小盆地集落である。
杉本尚次氏調査(1970年代)研究ノート・桃山学院大学社会学論集『大阪府の民間信仰』に事例研究の一つに選んだ地区である。
論文にある天王区年中行事に正月8日に行われる寺の薬師さんの「8日トウ」や19日の「宮のトウ」に興味をもった。
「8日トウ」にはハゼノキで作る牛王杖がある。
それは宮衆に配られて苗代に立てると書いてあった。
まさにオコナイ、初祈祷の修正会である。
また、1月11日に7月1日は伊勢講もある。
また、現在は解散されたものの講中の遺産がある。
嘉永七年に建てた愛宕山の灯籠に文政十年の〇金刻印が見られる金毘羅さんの灯籠もある。
いずれも天王区の講中であり、それぞれ愛宕講に金毘羅講の「若中」と呼ばれていた若者組が建てたようだ。
また、5月8日の「ハナオリ」の日には参る習慣があった。
新仏のある家ではオハギ、団子を作って兵庫県三田市にある永沢寺に参ったとある。
永沢寺は秋葉講。
その関係もあったのだろう。
近年には「能勢の文化遺産・再発見」に食文化、住文化、年中行事などの伝統文化に関する調査されてきた関西大学文学部教授(当時)の森孝男のワークショップがある。
森孝男氏と初めてお会いしたのは平成28年11月20日に実施された奈良県立民俗博物館の企画ガイドツアーであった。
住居を専門に調査、論じてこられた森孝男氏の解説に魅了されたことを覚えている。
もう一度、お会いすることがあれば天王区のキツネガエリの調査について詳しくお聞きしたい、と思っている。
杉本尚次氏調査(1970年代)研究ノート・桃山学院大学社会学論集『大阪府の民間信仰』に1月14日の「きつね狩り」行事も書かれており、全文は次の通りだ。
「きつねの藁人形をつけたものを先頭に幣をさした青竹をもち、太鼓を叩いて(天王)神社に集合し、各家をまわる。厄払いである。このあときつねを川に流し、区長宅に引掲げる。菓子を食べ祝金を平等に分配する。小学校4年生以下の子供だが、最近は人員が不足し保育園児も参加する。亥の子よりも古いものと云われている」とあった。
1970代の記録であるが、仮に始めのころであれば、今から45年前の様相である。
それからどのように汎化したのか、それとも変わりなくしているのか興味津々の行事取材である。
昭和39年に撮影された映像記録がある。
平成25年7月10日発行の「三村幸一(※明治36年生まれの写真家)が撮った大阪の祭り―大阪歴史博物館所蔵写真から―」に一部掲載されたPDFがある。
それによれば「天王のきつねがえりは、大阪府内では能勢町天王だけで行われています。1月14日に、男の子たちが集まって藁でキツネを作り、御幣とともに青竹にさし、それを先頭に各家をまわります。最後はキツネの口に賽銭として硬貨を噛ませ、橋の上から川に放り投げます。キツネに象徴される害獣を、集落から追い出して福を招く行事です」とあった。
編集・執筆に関西大学大阪都市遺産研究センター研究員の黒田一充氏。
センターリサーチ・アシスタントに吉野なつこ氏の名が見られる。
良い仕事だけに展示図録があれば、是非とも購入したい「大阪の祭り」映像である。
その映像を見る限り、登場する男児たちの人数規模と当時の服装だけが違っているだけだ。
祭具や所作はまったく今でも同じように見える。
撮られた昭和39年から数えて今年で56年目。
長い年月を経ていても色褪せてはいない写真に感動する。
昼前に参集される天王のキツネガエリ。
亥の子の行事と同じ顔触れの子供たちが集まってきた。
子供会の会長さんもやってきた。
会長が手にしているのは、見た目ですぐわかる動力ヘリコプターのドローン。
村の記録に頭上からとらえる映像も残しておきたいと買っておいた機械を持ちこんだ。
ドローンは初デビュー。
上手く撮れればいいのだが、電波は難なく届くだろうか。
集合場所は区称が天王神社の高皇産霊神社。
大木などが生い茂る社そうに、樹木よりもっと上からとらえる映像はわかるが、その樹木の下から発信されるコントローラーの電波が気にかかる。
樹木がある場合は見た目よりも電波は届かない。
木々の枝や葉で電波が遮られるのである。
試しに操作されてドローンを飛ばす。
難なく動いたから大丈夫と思われたが・・・。
キツネガエリに登場する主役は藁で作ったキツネ。
昔は子どもたちが作っていたが、今は区長さんの役目だそうだ。
この日までに作っておいた藁製のキツネは立派なものである。
真っすぐ伸びる青竹にきつねの胴体に突きさす。
その上にはこれもまた立派な幣がある。
青竹は手で持つ部分だけを葉付きにしている。
亥の子にもタイショウを務めたSちゃんが出発に役目する。
小さな子どもたちは青竹に挿した小幣を持ってキツネのお伴に就く役目だ。
もう一つの役目は太鼓打ち。
タイショウが囃すキツネガエリの詞章に合わせて太鼓を打つ。
太鼓は新しくもないが。
やや古い太鼓のような感じであるが、年代等の文字は見られない。
まずは練習を兼ねた出陣の一声である。
氏神さんを祀る高皇産霊神社に向かって2回繰り返すキツネガエリの囃子。
「わーれ(我)はなーに(何)をするどんやい キーツネガエリをするどんやい きーつねのすーし(寿司)を いくおけ(幾桶)つけて ななおけ(七桶)ながら エイ、エイ ばっさりこ ビンボウキツネ(貧乏狐)をおいだせ(追い出せ) フークギツネ(福狐)おいこめ(追い込め)」である。
昨年の亥の子行事の際に聞いていた台詞は「わーれは なーにをすんぞ びんぼうぎつねを追い出して ふくぎつねをよびこーめ」と聞いていたが、それよりもっと長めの台詞であったし、若干の違いもあったことを知る。
詞章に合わせて、太鼓は「ドン ドン ドン、ドン、ドン」の打ち方で繰り返す。
こうして出陣したキツネガエリの子どもたちにSちゃんのお父さんでもある子供会の会長は付き添いを兼ねて太鼓持ちの役目に就く。
神社から祭具を持って地区南にある橋に向かう。
亥の子には幼児の参加は認められないが、キツネガエリは就くことができるから一緒に着いていって、本来の出発地点になる天王川に架かる小谷橋(別名に寺田橋)に再集合する。
橋上で行われる本来の出陣にお父さんが助っ人する。
下流に向かって「ドン ドン ドン、ドン、ドン」打ちの太鼓に「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい きーつねのすーしを いくおけつけて ななおけながら エイ、エイ ばっさりこ ビンボウキツネをおいだせ フークギツネおいこめ」を囃す。
その音頭に合わせて小さな子どもたちは青竹に挟んだ幣を上下に振って、さぁ出発だ。
天王区は65戸の集落。
大きく分けて、集落中央を南北に走る県道173号線の自動車道を挟んで北東の上に南西の下がある。
かつてはその2地区にわけていたが、現在は7組になるようだ。
先に向かったのは北東にある集落。
なだらかな村の里道を歩いていく子どもたち。
幼子は母親が付いていく。
何軒か巡ってはその家に持ちこむ「フク」。
「フク」を持ちこむのはキツネであるが、実は御幣である。
年明けのこの日に、神さんではなく「フク」を家に招き入れるのがキツネガエリ。
玄関先でその作法をしている場合は留守の家。
キツネが内部に入り込んでいる場合は家人が在している場合であっても作法はまったく同じ。
台詞も同じで「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい きーつねのすーしを いくおけつけて ななおけながら エイ、エイ ばっさりこ ビンボウキツネをおいだせ フークギツネおいこめ」を2回囃し立てる。
キツネも幣振りの子どもたちも裏木戸からは入らずに、門屋の正門から入らせてもらう。
正門が低ければキツネも屈めて潜る。
扉から中に入れば、そこは広がるカドニワ。
広い場所でそれぞれがそれぞれの位置について「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい きーつねのすーしを いくおけつけて ななおけながら エイ、エイ ばっさりこ ビンボウキツネをおいだせ フークギツネおいこめ」。
映像でもわかるようにここの家は家人が屋内で待っていた。
キツネは玄関内に入りこんで「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい・・・」。
「フク」を招き入れたキツネ役のタイショウ親子は気持ちよさそうに太陽を仰ぎ見る。
眩しそうであるが、胸を張っている。
やり遂げた感があって撮っている私も気持ちが良い。
役目をこなした幼児も誇らしげ。
意気揚々と門屋から飛び出して走っていく。
この日の午後は晴れ間もあってほどよい温もりを感じるが、実は寒い。
冷えた朝方に凍った池。
鯉は厚く張った氷の下を悠々と泳いでいる。
大阪府中心部の最低気温は1.4度。
最高気温が10.9度。
ところがここ能勢町天王区は大阪府の最北部。
標高は海抜540m。
中心都市部とは5度以上も差があるというからどれほど寒いことやら。
参考までに平成25年に行われた天王区のキツネガエリを取材した朝日新聞社による公開動画の映像は一面が真っ白である。
積雪することが多いと聞いていた天王区。
この日は降雪もなく、車はここまで到達することができたが、例年であればたいがいが積雪。
峠越えすらできない場合が多いと聞いていたから、私にとってはラッキーなキツネガエリ取材の日であった。
天王区の民家の佇まいが美しい。
昔はほとんどが茅葺の民家であったような趣がある。
そのような雰囲気を想定できる民家をバックにキツネガエリの作法をする子どもたちを撮る。
そのときの子どもたちの様相は一定ではない。
それだからこそ思わずシャッターを押してしまう。
今でも農家の佇まいをみせるお家もキツネが持ち込む「フク」。
「フク」は神さんでなく「福」である。
福とくればいわゆる招福である。
出発した時間帯は昼時間。
集落を巡ってまだ半分も行っていない。
まだまだかかる北東の地区である。
小休止する間に撮らせてもらう藁製のキツネ。
まるで生きているかのような姿、形。
目はらんらんと輝く赤い目。
なんの植物であるのか、尋ねた結果はアオイの赤い実だった。
写真ではわかり難いが、ぱっくり開けた、キツネの口には舌がある。
これもまたアオイの葉。
角の尖った葉ではなく、丸い葉を使うそうだ。
亥の子の獅子頭もそうだが、天王区に出没する「フク」や「豊作」招きに自生する花や植物。
場合によったら獅子頭の牙にする干しトウガラシもある。
手造り感もあるが、その姿は美しく躍動するのである。
キツネガエリに随行する子どもたち。
太鼓やキツネ囃子に幣を振る。
勢いよく上下に降る。
その幣は挟んだ青竹から外れてヒラヒラ落ちる。
それが「フク」である。
落ちたヒラヒラを拾い上げてお家の人に手渡して「フク」を授ける。
子どもたちは「フク」をもたらす従者でもあるようだ。
どの家も家人が居るわけでもない。
不在である場合はどうするのか。
見ての通りの郵便受けのポスト。
ポストの口を開けて何枚も何枚も突っ込む。
そんな感じであるが、「フク」はこうして届けているのだ。
何十軒も巡った午後1時であってもまだまだある「フク」を届ける訪問先。
ときにはお家の中で待っている高齢者もおられる。
了解をいただいて屋内でキツネガエリの一行を屋内で高齢の婦人とともに待っていた。
しばらくすれば一行の声が近づいてくる。
玄関の扉を開けて入室するキツネ。
タイショウは男の子に替わっていた。
囃す詞章も大きな声で、「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい きーつねのすーしを いくおけつけて ななおけながら エイ、エイ ばっさりこ ビンボウキツネをおいだせ フークギツネおいこめ」。
太鼓は屋外で打っている。
家人が在室している場合のキツネガエリ作法は2回。
不在であれば1回になる。
幣を振っていた次年度のタイショウになると思われる女の子が玄関に入ってきて祝儀を受けとる。
受け取ればたくさんの「フク」を授かる。
あまりにも多いから手から「フク」が毀れそうになるが、授かった高齢の婦人は毀れそうな笑みになっていたのが印象的だった。
授かったヒラヒラの「フク」は神棚などに奉る人が多いように聞く。
ところでキツネガエリは天王区以外にあるのだろうか。
大阪府内では天王区にしか残っていないようだが、ここより北隣村になる兵庫県の丹波篠山の福住にもあるらしい。
そこでも同じようなマツリの様相であるが「福の神」の名で呼ばれる村の伝統行事であるが、近くの福住中・下では「福の神・キツネガエリ」の名で呼ばれている。
「きつね狩り」は兵庫県養父市大屋町にもあるようだ。
ここも1月14日の行事日である。
「キツネガエリ」を「きつね狩り」とも称する地域もあれば、「フク」を各家にもたらす「キツネ」を「福の神」と称する地域もあることを知る。
ネットで検索すれば、もっと多くの地域に存在しているようだが、これ以上は当項で述べるつもりはない。
村の各戸をあまねく巡る一行は1時間ほどでどれほどのお家に「フク」をもたらしたのか、一軒、一軒、数えてはいない。
ざっと見渡して、未だ半分もいっていない。
本日の天候は晴れであるが、雪が舞う日であれば、歩きも困難であったろう。
祝ってくれる子供たちに目を細めていた高齢者の眼差し。
作法をされたあとにたくさんの「フク」を貰って一層、目が笑っていた。
そこよりすぐ近く。
アスファルト舗装にキツネが躍っている姿がある。
「こんにちは きつねがえりでーす」の文字で迎えたキツネガエリの一行。
道路に描いたのは子どもさんではなく、ヤッサン一座のだんまるさんだった。
どこかで見たことがある人だと思った。
会話してすぐに思い出した映像は大阪朝日放送の超有名な「探偵!ナイトスクープ」である。
登場していたのはお弟子さんのぼんまるさんであるが・・。
各地で活躍するプロの紙芝居屋である。
一年前に当地に引っ越してきただんまるさん一家。
ぼんまるさんとともに生活しているという。
天王区は素晴らしい村。
ここに惚れこんで移住したという。
村の一員でもあるだんまるさんの家にも「フク」を授けるキツネガエリ。
太鼓を打って、「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい・・・」。
「フク」の幣は振る勢いもあってお庭に散らばる。
ここらで一服して食べてやと云われて差し出す手造りのおにぎり。
イロゴハンのおにぎりではなく、ふりかけを振ったおにぎり。
味付け海苔を巻いたおにぎりをほうばる子どもたちにとっては「フク」の神。
美味しそうによばれていた。
午後2時ころになってようやく半数の戸数をこなした一行は、集落を南北に貫く県道173号線を跨いで南西下の集落に向かう。
一軒、一軒に「フク」を授けてきた一行の先頭は3人のタイショウたち。
昔は数え年十歳の子どもが「テン」と呼ぶ「大将」を務めていたと子供会の役員が話す。
本来は1月14日であった。
昔は学校も休みにしてくれた。
次の日も休みだった。
男の子だけが行う村の行事だった。
キツネガエリはとにかく一番寒い日だったとことも記憶にあるという。
ちなみに白い幣は青竹に挟んでいるが、その青竹は「キネ(杵)」と呼び、幣を含めて「御幣」の名があるという。
タイショウが3人揃って作法するキツネガエリ。
お家の向こう側に見える建物は平成27年3月末をもって閉校した能勢町立天王小学校だ。
タイショウたちも御幣を振る小学生の子どもたちもみな、平成28年4月創立の小中一貫校の能勢町立天王小・中学校へ学び舎を移した。
不在のお家であっても、同じように作法をするが、一回限り。
散らかした「福の神」を拾い集めて郵便ポストに詰め込んだお家の窓には眼鏡型の注連縄。
ウラジロもある注連縄には緑色の松葉も飾っていた。
それを見届けて先を急ぐ。
前もってお願いしておきた家がある。
亥の子のときもお世話になったH家。
お家は立派に組まれた石垣の家。
門口には自作の松、竹、梅の門松を立てていた。
亥の子のときに撮らせてもらった玄関口をあがった場。
今回のキツネガエリもそうさせていただきたく、お礼を兼ねてお願いしたら了解してくださった。
要件を先に済ませて一行を待つが、やってくる気配を感じない。
今か、今かとやきもきされていた石垣の家の隣家婦人。
そういえば、ある時点になれば、どこかで昼食を摂ると聞いていたことを思い出す。
待つこと40分。
ようやく顔をみせた一行は隊を組んでいるようかに見えた。
待つ位置にやってくる一行をデジカメに撮っておきたいと話していた隣家の婦人にシャッターチャンスを教えていた。
きちんと撮れたかどうかはわからないが、一目散に戻ったお家。
キツネを玄関口から迎える婦人の姿は屋内だ。
太鼓打ちもそうだが、タイショウも次の年代の子どもに交替していた。
そしてやってきた石垣の家。
大急ぎでお家にあがらせてもらってスタンバイ。
キツネは玄関口を入ったところの立ち姿。
太鼓打ちは玄関前。
後方に本来のタイショウたちが並んで「わーれはなーにをするどんやい キーツネガエリをするどんやい・・・」。
祝儀を受け取る子どもはさらに若い幼子。
そして「フク」を授けるタイショウ。
お昼を済ませた後半は役目を入れ替わっていた。
これもまた次世代への引き渡し。
体験することで次の年代へ継承してきたのであろう。
休憩した子どもたちは英気を取り戻していた。
次の家、次の家へと巡ってキツネガエリに台詞を発声する。
どこかの時点で私も一服する時間を設けなければならない。
そうは思っているものの時間も場所も確保できない。
昨年の11月には亥の子行事に同行していたから、次の家がどこになるのか、ある程度は予測できる。
しかも、風情のあるお家が多い。
狙って撮っておきたい民家がある。
ここも、あの家もと欲張りなことである。
眼鏡型の輪っかの正体がわかったところで一息つける。
キツネガエリの子どもたちは子供会の親が運転する車に乗って南部に位置する新興住宅地に向かっていった。
ここより歩いては到底追いつくこともできない遠い地。
亥の子のときもそうだったが、そこまでは、と思ってここで待つことにした。
見送った時間は午後3時15分。
ようやく食べられる遅い昼食。
食べた時間帯は午後3時半。
冷えた身体に冷えたおにぎりを立ち食いした。
一行が再び戻ってくると思われる場で待っていた。
天王川に架かる橋である。
そのすぐ傍にあった建物に窓が開いていた。
どなたかがおられるようで人影が動く。
民家でもないような建物内に器械が見える。
興味のあるものは何でも聞いてしまう民俗収集癖がある。
屋内におられた数人の女性は作業の中休め。
お仕事は中高校の運動用のジャージ縫製であった。
縫製の機械であったのだ。
長年においてこの仕事をしているという女性が云うには「家内工業の規模ですわ」という。
昭和17年生まれのYさんの話しによれば、ここ天王区は凍り豆腐が盛んな土地だったという。
天王区は標高が高いだけに冬場はとても寒い。
この日の朝もマイナス5度になった、という。
ここ天王区は霧が降りない土地。里も篠山になるらしい。
凍り豆腐は天然の畑で干していた。
窓から指さす県道の向こう側の畑。
今ではすっかり消えて面影すらない。
凍り豆腐の製造に適していた天王区に10軒以上の工場があった時代は昭和33年ころ。
但馬の人が凍り豆腐の仕事に就いていた。
父親を亡くした時代になるそうだ。
当時はこんな幅広い県道もなかった。
今から40年も前の昭和38、9年になって開通した新道の県道である。
幅広い県道に天王川に架かっていた橋は下流に移動せざるを得なかった。
一回移してからもう一回下げたという。
その橋の名はキツネ橋。
当時の橋といえば、丸太にトタン板。
垂木で橋にしていた。
話しをしてくれる婦人はここへ嫁入りして50年にもなる、という。
このキツネ橋が架かる辺りに生息しているのがオオサンショウウオ。
地域を定めない生息確認域の天王川、細谷川、奥野々川を所在地とする国指定の特別天然記念物であり、大阪北部農と緑の総合事務所による保護活動がなされている。
Yさんはさらに話してくださる。
お爺さんは板を並べて、凍り豆腐をイデかしていた。
イデかすとは凍らすということだ。
「イデる」は濁音だが、本体は「いてる」である。
「いてる」は「凍てる」である。
「凍てる」が濁音化して「イデる」となったわけだ。
ちなみに凍り豆腐を作っていたお爺さんが云った言葉がある。
アレを川に流したら凍らないという伝えがある。
「アレ」とは何ぞえ。
それは「キツネ」である。
もうすぐ戻ってくるキツネガエリの一行。
戻ってきたら、キツネの口に5円玉を銜えさせて川に投げ込む。
投げ込んだか川の流れにまかされてキツネが流れる。
そうすれば、凍り豆腐は凍らないということである。
そのキツネは昔も今も一匹。
昔は子どもが作っていたが、今は区長が作る。
小学4年生以上の子どもたちが集まってキツネガエリをしていたが、いつまで続けられるか心配される少子化時代である。
ここで凡そ45分も待っていた。
新興住宅地にも「フク」を授けていたキツネガエリの子どもたちが戻ってきた時間帯は午後4時15分。
数年前までの出発時間は午後2時。
すべてを終える時間は夜の時間帯の午後7時。
少子化によって女の子に幼子も入れて継承してきたが、あまりも遅くなっては子どもに危険が及ぶ可能性もあると考えられて、これまで時間よりも2時間早くした。
そのおかげもあって、現在は午後12時から午後5時まで。
日が暮れないうちに終えるようにされた。
残すはあと1軒。
最後の力を振り絞って元気よく声をだす。
「わーれ(我)はなーに(何)をするどんやい キーツネガエリをするどんやい きーつねのすーし(寿司)を いくおけ(幾桶)つけて ななおけ(七桶)ながら エイ、エイ ばっさりこ ビンボウキツネ(貧乏狐)をおいだせ(追い出せ) フークギツネ(福狐)おいこめ(追い込め)」の詞章である。
「わーれ」は「我」であるが、「藁」の可能性も拭えない。
奇妙なのは「きーつねのすーし」である。
この「すーし」はお寿司である。
何故にお寿司が詞章にあるのか。
福井県おおい町の川上上方事例に「狐の寿司は七桶八桶 八桶に足らんとて 狐がえりするわ」がある。
同県同町の川上父子事例では「狐がえりがえりよ わら何するど 若宮をまつるとて 狐がえりがえりするぞ 狐のすしは七桶なから 八桶にたらぬとて 狐がえりがえりよ」である。
福井県事例から考えるに、天王区の詞章に「寿司」があってもおかしくはない。
しかも天王の詞章に「いくおけ(※幾桶)つけて ななおけ(※七桶)ながら・・」がある。
寿司は七桶であるが、遠く離れた土地に類似性をもつのはまったく不明である。
また、兵庫県美方郡香美町(香住区香住)に町指定無形民俗文化財に「入江きつねぎゃあろ」がある。
同町のHPには「キツネ狩りは播磨・丹波そして但馬の全域、県外では東が福井県の白木半島(三方町)西は鳥取県米子市に至ります。大体兵庫県・京都府北部を中心に、若狭から伯耆[ほうき]に至る山陰地方に広がっており、入江の「キツネ狩り」は嫁の「シリハリ」と習合した形態をもつ伝統行事で貴重な文化財」とあるかた、相当広範囲に亘ってキツネ狩り(キツネガエリ)があるわけだ。
ちなみに兵庫県のわらべ歌に朝来町の「狐狩り」の詞章がある。
その他の地域も多種多様。
鳥追いと同じ意味をもつというのが興味深い。
各地の民俗事例から考えるに、天王区のキツネガエリは、狐追い行事のような気がするのだが・・・どうだろうか。
さて、天王区のキツネガエリは各戸に「フク」を授けて、終わりではなく、最後にキツネの川流しで終える。
場所は出発地点と同じ、天王川に架かる小谷橋の上である。
午後4時半の記念写真。
4時間半にも亘って行ってきたキツネガエリは笑顔で〆た。
そして始まった〆のキツネガエリ囃子。
勢いよく太鼓を打って御幣も振る。
詞章も大きな声で力強い。
そして、「いっせーのっ」とみなが声をかけて放り投げる。
Yさんが話してくれたキツネに銜えさせる5円玉は確認できなかったが、天王区の人たちに「フク」を授けたキツネは流れる川に身を任せるように下流に流れていった。
すべてを終えた一行は天王公民館に集合する。
講堂と思われる場に大きな版画を掲示していた。
「貧乏ぎつね追い出せ 福ぎつね追いこめ」の文字がある版画の背景にある民家は茅葺家。
その前に並ぶ5人の子どもたち。
キツネをもつタイショウの顔はどことなく女の子に見える。
右に並ぶ小さな子どもも女の子。
服装は昔風であるが、この様相から近代になって描かれたものであろう。
かつての情景であるなら、男の子だけのはずだが、作品は素晴らしい。
さて、今年の子どもたちは、といえば、座敷で寛いでいた。
冷えた身体を温めてくれる部屋ストーブ。
薪でもなく電気フアンストーブである。
子供会の会長や役員さんは各家からいただいた祝儀を集計して分配される。
袋のお金はいったいなんぼやろと透かしてみる子どもは中学生。
下の子どもは眼中にないように見えた。
携帯電話に記録された歩数計。
実質の歩行時間は1時間41分。
距離にして5.2kmだったことを付記しておく。
(H29. 1. 7 EOS40D撮影)
(H29. 1. 7 SB932SH撮影)