天理市遠田町の南を抜ける街道筋がある。
少し足を伸ばしてみようと東に向けて走る。
集落に入ったとこらへんだ。
そこに建っていた庚申さんに正月のお供えがあった。
その地はどこであろうか。
カーナビゲーションによれば天理市の柳本町の南の端になるようだ。
瓦屋根の立派な造りの祠に奉られた「庚申」石。
正月らしく祠を支える両柱に松、竹、梅に南天を添えた奉書包を紅白の水引で括っていた門松。
祠中央に、これもまた立派な手造りの注連縄を吊るしている。
金銀・朱色の扇を挿して飾り付けもあれば、ウロジロ、ダイダイもある注連縄の簾も美しい。
花立てにも松、竹、梅にイロバナ。
庚申さんにこれほどまで正月を飾っているのは拝見したことがない。
信仰心が篤いと思える丁寧な奉り方に感動する。
花立ての傍には小型パックの二段餅もあれば、紅白水引で括った鏡餅もある。
これもまた、信仰する村の人が供えたのであろう。
左にある石仏はおそらく地蔵さん。
それには松、竹、梅にイロバナ立てだけであるが、庚申さんと見比べたらえらい違いである。
庚申さんの右隣の石塔は「□□十四丁正年八月吉日」の刻印がある太神宮塔。
年号が判読できなかったので判読できた「十四丁」を以って調べてみた。
「十四」は和暦の14年で、その年の干支は「丁」。
それをキーにして調べた結果は、文化十四年(1817)丁丑、若しくは寛永十四年(1637)の丁丑である。
伊勢のおかげ参りが熱狂的になった代表的な年代は、慶安三年(1650)、宝永二年(1705)、明和八年(1771)に文政十三年(1830)。
文化、文政年間に建てられた太神宮塔(大神宮塔の場合もある)は県内各地に多く見られる。
寛永十四年は当て嵌めるには無理があると考えて、柳本町の太神宮塔が建てられた年は「文化十四丁丑年八月吉日」とするのが妥当であろう。
その石塔にもダイダイ付きの注連縄があるが、括るところがなくて火袋に納めていた。
(H29. 1. 2 EOS40D撮影)
少し足を伸ばしてみようと東に向けて走る。
集落に入ったとこらへんだ。
そこに建っていた庚申さんに正月のお供えがあった。
その地はどこであろうか。
カーナビゲーションによれば天理市の柳本町の南の端になるようだ。
瓦屋根の立派な造りの祠に奉られた「庚申」石。
正月らしく祠を支える両柱に松、竹、梅に南天を添えた奉書包を紅白の水引で括っていた門松。
祠中央に、これもまた立派な手造りの注連縄を吊るしている。
金銀・朱色の扇を挿して飾り付けもあれば、ウロジロ、ダイダイもある注連縄の簾も美しい。
花立てにも松、竹、梅にイロバナ。
庚申さんにこれほどまで正月を飾っているのは拝見したことがない。
信仰心が篤いと思える丁寧な奉り方に感動する。
花立ての傍には小型パックの二段餅もあれば、紅白水引で括った鏡餅もある。
これもまた、信仰する村の人が供えたのであろう。
左にある石仏はおそらく地蔵さん。
それには松、竹、梅にイロバナ立てだけであるが、庚申さんと見比べたらえらい違いである。
庚申さんの右隣の石塔は「□□十四丁正年八月吉日」の刻印がある太神宮塔。
年号が判読できなかったので判読できた「十四丁」を以って調べてみた。
「十四」は和暦の14年で、その年の干支は「丁」。
それをキーにして調べた結果は、文化十四年(1817)丁丑、若しくは寛永十四年(1637)の丁丑である。
伊勢のおかげ参りが熱狂的になった代表的な年代は、慶安三年(1650)、宝永二年(1705)、明和八年(1771)に文政十三年(1830)。
文化、文政年間に建てられた太神宮塔(大神宮塔の場合もある)は県内各地に多く見られる。
寛永十四年は当て嵌めるには無理があると考えて、柳本町の太神宮塔が建てられた年は「文化十四丁丑年八月吉日」とするのが妥当であろう。
その石塔にもダイダイ付きの注連縄があるが、括るところがなくて火袋に納めていた。
(H29. 1. 2 EOS40D撮影)