かろうじて地蔵盆の状況がわかった南町、材木町を拝見して車を走らせる。
旧町を通る道は一方通行に狭い道ばかりだ。
走らせるといっても時速は遅い。
メーターは20km以下。
両サイドの筋道にもあるのか、ないのか、キョロキョロ目で探してみるが、一向に見つからない。
諦めて旧町を離れようとしたときである。
時間帯は午後2時半。
場所は旧町の南の端にある新町である。
南町で拝見したような笹に括り付けた赤白の布が見えた。
そこで緊急停車。
通行の邪魔にならない場所に停めさせてもらって町の人に伺った地蔵盆。
午後の3時には住職が来られて法要されるというのだ。
急なお願いであったが承諾してくださった。
取材させていただけるのは、たいへんありがたいことである。
子どもさんの名前で奉納された祝いの旗立ては何枚あるのだろうか。
白色が男の子で赤い色は女の子。
奉納してから一年経てば笹に括り付ける。
旗に奉納された年号がある。
平成3年、4年、11年、17年、22年の平成生まれもあれば昭和生まれも何枚かあった。
一枚、一枚を捲って見えるようにしたいが、それは無理。
見える範囲内で調べてみれば昭和51年、昭和55年があった。
「私の子どもやけど、もう42歳になるんや」と云う。
随分前の奉納であるが、綺麗に洗って丁寧の折りたたんで残していると云う。
南町の婦人は笹に飾った子ども祝いの奉納旗は整理していると話していた。
婦人が云うには、大きくなって今では町を離れた子どももいる。
いないか、いるのかもわからないケースもある。
不安性のある子どもの存在に「この子はもうおらんやろう」と除外しているが、新地はずっと残しているそうだ。
地域性によって判断に若干の違いがみられる事例であった。
新地の地蔵尊は地蔵盆のときにだけ移動するという。
地蔵さんが普段におられる場は東を南北に流れる寺川沿いの祠に納めている。
その場で地蔵盆をするには車の往来を気にしなくてはならない。
狭い上に堤防地の斜めに立つ位置。
雨が降っては祭り難い場所。
そこで決めたのは、年に一度の地蔵盆だけは移っていただきましょう、ということで、すぐ近くになる行者堂に来ていただくことにした南の地蔵尊。
前日の夕方までに抱えて行者堂に運ぶそうだ。
史跡案内板に書かれた由来によれば「延享三年(1746)、行者堂の前身堂として行者堂の東、ムクの木の傍らに地蔵堂田原本・平野藩・寺院本末御改メ帳に“本誓寺末寺 地蔵堂 開基・開山は不詳、本堂 二間四面、本尊 地蔵菩薩、境内 東西四拾三間、南北三間 但シ無年貢地”とあり、“この場所から卍模様の小型軒瓦があった”と書いていた。明治時代、地蔵堂が廃絶のため、地蔵堂役行者倚像、前鬼像、熊野地方から伝来したとされる後鬼像を“戸久屋”の妻が自宅離れで祀るも、逝去のため本誓寺に預けた。大正三年頃に風邪が大流行し、これは、役行者倚像、前鬼像、後鬼像を新地で祀ることのなくなった祟りであるので、新地青年団が中心に田原本町陣屋町総堀の三前ほどの南堀を埋め立てて行者堂を建立し、現在に至る」とあった。
ちなみに、ここ新地の行者堂は役行者椅像を安置する田原本町の「御佛三十三ケ所巡礼 第十七番」の一つ。
毎年4月の第一日曜日に加持祈祷の春季護摩法要をしているそうだ。
寄贈者を募り大金を捻出されて昭和34年10月に新造された現在の行者堂。
そのときに新調された幕は三像を安置する前に張って本誓寺住職を待っていた。
本誓寺住職が新地の行者堂に来られる時間帯。
いっこうに、やってくる気配がない。
自治会長さん他、役員の人たちは地区周辺を巡って、今、どこで法要しているのか探された。
現在は近くの大門西に来ていると伝令が戻ってきた。
その次は大門中。
そして大門東などなど。
新地に到着するまでの待つ時間が伸びていくそのころ。
町内の人たちと話していた男性と目があった。
思い出した男性は田原本町法貴寺に住むMさん。
お家まであがらせてもらった元田原本町教育委員長である。
届く年賀状には「いつもブログ拝見し、参考にしています」と書かれているから恐縮する。
その場に慌てて駆け込む男性がおられた。
何故にここにおられるのか・・。
男性が住まいする地は田原本町の佐味。
7月3日にカンピョウ干し作業を取材させてもらったFさんだった。
たまたま立ち寄った新地に見たことのある車が停まっていたので、もしかとしたらと近寄ったら、私だったというわけだ。
何という奇遇であろうか。
ちなみにここ行者堂に掲げている史跡の案内板の写真・文は奈良県文化財保護指導員のNさん。
みなさん、ほんまにお世話になっている。
この場を借りて感謝申し上げる次第だ。
結果的に云えば本誓寺住職が法要に走ってこられた時間帯は午後4時。
例年通りの時間帯に始められた。
蝋燭、線香に火を灯して法要をされる。
町内の人たちも手を合わせて拝む。
その時間はほぼ2分間。
待っている方が圧倒的に長かったわ、と話す。
参拝されていた町内のある人は行者堂での法要を済ませた住職を我が家に案内すると云っていた。
そこまで着いていくことはしないが、旧町は、自宅内に地蔵尊を安置している家も何軒かあるようだ。
住職が離れたあとの行者堂の飾り付けである。
お供えはばらして分ける。
笹を下ろして紅白の祝い旗も片づける。
かつては大鍋を炊いて作っていたカントダキもあった。
子どもたちには握ったおにぎりも。
盛夏だからスイカも出して食べていたそうだ。
そのころの行者堂の地蔵盆は賑わった。
いつの間にか、町内から長男は出ていくわ、町内は年寄りが多くなった。
回覧を廻すと同時に町内会の集金もする。
そのときに住民の存在を確認する。
昨今は安否確認のようになってしまったという新地もかつては立山も造っていた。
紐を引っ張ったら動く立山だったと回顧される。
ちなみに行者堂に移して地蔵盆をするようになったのは20年前。
いやもっと前だったかもという人も何人かがおられたことを付記しておく。
自治会長ら参拝者に急なお願いして取材をさせてもらった田原本町新地・行者堂の地蔵盆。
終れば元の祠に戻される。時間帯はすぐではないので、場所だけでもと聞いて探してみればあった。
開いていた扉の奥は空っぽであったから間違いない。
新地は22軒。
昔は遊郭もあった町。
北から南へ繋がる中街道の名もある下ツ道は山上詣りのルートにもなっているという。
室町時代、浄土真宗などの寺院や坊を中心に形成された田原本町。
寺院が中心体に集落構成の地域を寺内町と呼ぶ。
寺院信者に商工業を寄せ集めた自治の町を守るための構造は濠に土塁を構築した。
奈良県に見られる寺内町は、ここ田原本町の他に橿原市の今井、大和高田市の高田、広陵町の箸尾、御所市の東御所、下市町の下市、吉野町の飯貝などが知られる。
田原本町のHPによれば田原本町の概要は、水陸交通の要衝の地にあることから、中心旧町になる田原本地区は中世に楽田寺の門前として開け、近世は浄土真宗教行寺の寺内町として発展した、とある。
水陸交通と云えば東に流れる寺川がある。
陸は古代の幹道である下ツ道。
中世は中街道と呼ばれた大動脈であった。
江戸時代は交代寄合(参勤交代を行う格式畑旗本家の平野氏の知行地)であった。
平野氏の陣屋町として栄え“大和の大坂”といわれるほど商業が盛んとなったとある。
陣屋は、文禄四年(1595)の戦い賤ケ岳の七本槍の一人である平野長泰が拝領した田原本村の地に二代目長勝が寛永十二年(1635)に着工したそうだ。
長勝は支配権が対立する軋轢があったことから寺内町形成を進めていた真宗教行寺を田原本町の箸尾に転座させ、陣屋を慶安四年(1648)に竣工、明治四年(1871)の廃藩置県までを代々が継いできた平野家であるが、正式に田原本藩になったのは最期の領主の長裕のわずか3年間であった。
平野家の菩提寺である浄土宗本誓寺は元々八幡町であったが、二代目長勝が正保四年(1647)に教行寺の跡地に移した。
本誓寺南にある浄土真宗浄照寺(創建時は円城寺)もまた二代目長勝が創建である。
いわば、平野家が陣屋、寺院を配置して町を形成してきたかのようである。
当時の寺内町の区域はどこまでか判然としないが、町名をみれば理解しやすい。
三輪町の他に味間町、堺町がある。
三輪は桜井、味間は田原本町旧村の味間に大阪の堺町である。
中心部は本町、市町、魚町、茶町、材木町がある。
大和郡山の城下町でもそうだが、これらの町名でわかるように、また、日本各地にある城下町と同じように本町、市町(※市場)、魚町、茶町、材木町がある。
濠で防御した城下町もまた門がある。
ちなみにかつての郡山城の外堀に九条町大門があった。
外堀の北にあった大門である。
その他、北東に鍛冶町大門、東に高田町大門、南に柳町大門。
4つの大門があった。
田原本町に話しを戻す。
本誓寺、浄照寺に出入する濠に橋を架ける。
その橋に門があった。
いわば関所のようなもので門番がついていた大門中。
その両サイドに大門西、大門東もあれば、殿町もある。
浄土宗本誓寺が元々建っていた八幡町もあれば、祇園町、戎通、廓町もある。
他にも南町、根太口、小室、幸町もある寺内町であるが、本村には江戸時代以前(西暦927年の延長五年以降の創建)より牛頭天王を祀る祇園社だった津島神社もある。
津島神社の創建は寺内町が形成される以前からあった。
明治時代中頃に書写された棟札に天治二年(1125)があったことからわかる創建年代。
津島神社の神宮寺は京都祇園社と同様に感神院があった。
(H29. 7.24 EOS40D撮影)
旧町を通る道は一方通行に狭い道ばかりだ。
走らせるといっても時速は遅い。
メーターは20km以下。
両サイドの筋道にもあるのか、ないのか、キョロキョロ目で探してみるが、一向に見つからない。
諦めて旧町を離れようとしたときである。
時間帯は午後2時半。
場所は旧町の南の端にある新町である。
南町で拝見したような笹に括り付けた赤白の布が見えた。
そこで緊急停車。
通行の邪魔にならない場所に停めさせてもらって町の人に伺った地蔵盆。
午後の3時には住職が来られて法要されるというのだ。
急なお願いであったが承諾してくださった。
取材させていただけるのは、たいへんありがたいことである。
子どもさんの名前で奉納された祝いの旗立ては何枚あるのだろうか。
白色が男の子で赤い色は女の子。
奉納してから一年経てば笹に括り付ける。
旗に奉納された年号がある。
平成3年、4年、11年、17年、22年の平成生まれもあれば昭和生まれも何枚かあった。
一枚、一枚を捲って見えるようにしたいが、それは無理。
見える範囲内で調べてみれば昭和51年、昭和55年があった。
「私の子どもやけど、もう42歳になるんや」と云う。
随分前の奉納であるが、綺麗に洗って丁寧の折りたたんで残していると云う。
南町の婦人は笹に飾った子ども祝いの奉納旗は整理していると話していた。
婦人が云うには、大きくなって今では町を離れた子どももいる。
いないか、いるのかもわからないケースもある。
不安性のある子どもの存在に「この子はもうおらんやろう」と除外しているが、新地はずっと残しているそうだ。
地域性によって判断に若干の違いがみられる事例であった。
新地の地蔵尊は地蔵盆のときにだけ移動するという。
地蔵さんが普段におられる場は東を南北に流れる寺川沿いの祠に納めている。
その場で地蔵盆をするには車の往来を気にしなくてはならない。
狭い上に堤防地の斜めに立つ位置。
雨が降っては祭り難い場所。
そこで決めたのは、年に一度の地蔵盆だけは移っていただきましょう、ということで、すぐ近くになる行者堂に来ていただくことにした南の地蔵尊。
前日の夕方までに抱えて行者堂に運ぶそうだ。
史跡案内板に書かれた由来によれば「延享三年(1746)、行者堂の前身堂として行者堂の東、ムクの木の傍らに地蔵堂田原本・平野藩・寺院本末御改メ帳に“本誓寺末寺 地蔵堂 開基・開山は不詳、本堂 二間四面、本尊 地蔵菩薩、境内 東西四拾三間、南北三間 但シ無年貢地”とあり、“この場所から卍模様の小型軒瓦があった”と書いていた。明治時代、地蔵堂が廃絶のため、地蔵堂役行者倚像、前鬼像、熊野地方から伝来したとされる後鬼像を“戸久屋”の妻が自宅離れで祀るも、逝去のため本誓寺に預けた。大正三年頃に風邪が大流行し、これは、役行者倚像、前鬼像、後鬼像を新地で祀ることのなくなった祟りであるので、新地青年団が中心に田原本町陣屋町総堀の三前ほどの南堀を埋め立てて行者堂を建立し、現在に至る」とあった。
ちなみに、ここ新地の行者堂は役行者椅像を安置する田原本町の「御佛三十三ケ所巡礼 第十七番」の一つ。
毎年4月の第一日曜日に加持祈祷の春季護摩法要をしているそうだ。
寄贈者を募り大金を捻出されて昭和34年10月に新造された現在の行者堂。
そのときに新調された幕は三像を安置する前に張って本誓寺住職を待っていた。
本誓寺住職が新地の行者堂に来られる時間帯。
いっこうに、やってくる気配がない。
自治会長さん他、役員の人たちは地区周辺を巡って、今、どこで法要しているのか探された。
現在は近くの大門西に来ていると伝令が戻ってきた。
その次は大門中。
そして大門東などなど。
新地に到着するまでの待つ時間が伸びていくそのころ。
町内の人たちと話していた男性と目があった。
思い出した男性は田原本町法貴寺に住むMさん。
お家まであがらせてもらった元田原本町教育委員長である。
届く年賀状には「いつもブログ拝見し、参考にしています」と書かれているから恐縮する。
その場に慌てて駆け込む男性がおられた。
何故にここにおられるのか・・。
男性が住まいする地は田原本町の佐味。
7月3日にカンピョウ干し作業を取材させてもらったFさんだった。
たまたま立ち寄った新地に見たことのある車が停まっていたので、もしかとしたらと近寄ったら、私だったというわけだ。
何という奇遇であろうか。
ちなみにここ行者堂に掲げている史跡の案内板の写真・文は奈良県文化財保護指導員のNさん。
みなさん、ほんまにお世話になっている。
この場を借りて感謝申し上げる次第だ。
結果的に云えば本誓寺住職が法要に走ってこられた時間帯は午後4時。
例年通りの時間帯に始められた。
蝋燭、線香に火を灯して法要をされる。
町内の人たちも手を合わせて拝む。
その時間はほぼ2分間。
待っている方が圧倒的に長かったわ、と話す。
参拝されていた町内のある人は行者堂での法要を済ませた住職を我が家に案内すると云っていた。
そこまで着いていくことはしないが、旧町は、自宅内に地蔵尊を安置している家も何軒かあるようだ。
住職が離れたあとの行者堂の飾り付けである。
お供えはばらして分ける。
笹を下ろして紅白の祝い旗も片づける。
かつては大鍋を炊いて作っていたカントダキもあった。
子どもたちには握ったおにぎりも。
盛夏だからスイカも出して食べていたそうだ。
そのころの行者堂の地蔵盆は賑わった。
いつの間にか、町内から長男は出ていくわ、町内は年寄りが多くなった。
回覧を廻すと同時に町内会の集金もする。
そのときに住民の存在を確認する。
昨今は安否確認のようになってしまったという新地もかつては立山も造っていた。
紐を引っ張ったら動く立山だったと回顧される。
ちなみに行者堂に移して地蔵盆をするようになったのは20年前。
いやもっと前だったかもという人も何人かがおられたことを付記しておく。
自治会長ら参拝者に急なお願いして取材をさせてもらった田原本町新地・行者堂の地蔵盆。
終れば元の祠に戻される。時間帯はすぐではないので、場所だけでもと聞いて探してみればあった。
開いていた扉の奥は空っぽであったから間違いない。
新地は22軒。
昔は遊郭もあった町。
北から南へ繋がる中街道の名もある下ツ道は山上詣りのルートにもなっているという。
室町時代、浄土真宗などの寺院や坊を中心に形成された田原本町。
寺院が中心体に集落構成の地域を寺内町と呼ぶ。
寺院信者に商工業を寄せ集めた自治の町を守るための構造は濠に土塁を構築した。
奈良県に見られる寺内町は、ここ田原本町の他に橿原市の今井、大和高田市の高田、広陵町の箸尾、御所市の東御所、下市町の下市、吉野町の飯貝などが知られる。
田原本町のHPによれば田原本町の概要は、水陸交通の要衝の地にあることから、中心旧町になる田原本地区は中世に楽田寺の門前として開け、近世は浄土真宗教行寺の寺内町として発展した、とある。
水陸交通と云えば東に流れる寺川がある。
陸は古代の幹道である下ツ道。
中世は中街道と呼ばれた大動脈であった。
江戸時代は交代寄合(参勤交代を行う格式畑旗本家の平野氏の知行地)であった。
平野氏の陣屋町として栄え“大和の大坂”といわれるほど商業が盛んとなったとある。
陣屋は、文禄四年(1595)の戦い賤ケ岳の七本槍の一人である平野長泰が拝領した田原本村の地に二代目長勝が寛永十二年(1635)に着工したそうだ。
長勝は支配権が対立する軋轢があったことから寺内町形成を進めていた真宗教行寺を田原本町の箸尾に転座させ、陣屋を慶安四年(1648)に竣工、明治四年(1871)の廃藩置県までを代々が継いできた平野家であるが、正式に田原本藩になったのは最期の領主の長裕のわずか3年間であった。
平野家の菩提寺である浄土宗本誓寺は元々八幡町であったが、二代目長勝が正保四年(1647)に教行寺の跡地に移した。
本誓寺南にある浄土真宗浄照寺(創建時は円城寺)もまた二代目長勝が創建である。
いわば、平野家が陣屋、寺院を配置して町を形成してきたかのようである。
当時の寺内町の区域はどこまでか判然としないが、町名をみれば理解しやすい。
三輪町の他に味間町、堺町がある。
三輪は桜井、味間は田原本町旧村の味間に大阪の堺町である。
中心部は本町、市町、魚町、茶町、材木町がある。
大和郡山の城下町でもそうだが、これらの町名でわかるように、また、日本各地にある城下町と同じように本町、市町(※市場)、魚町、茶町、材木町がある。
濠で防御した城下町もまた門がある。
ちなみにかつての郡山城の外堀に九条町大門があった。
外堀の北にあった大門である。
その他、北東に鍛冶町大門、東に高田町大門、南に柳町大門。
4つの大門があった。
田原本町に話しを戻す。
本誓寺、浄照寺に出入する濠に橋を架ける。
その橋に門があった。
いわば関所のようなもので門番がついていた大門中。
その両サイドに大門西、大門東もあれば、殿町もある。
浄土宗本誓寺が元々建っていた八幡町もあれば、祇園町、戎通、廓町もある。
他にも南町、根太口、小室、幸町もある寺内町であるが、本村には江戸時代以前(西暦927年の延長五年以降の創建)より牛頭天王を祀る祇園社だった津島神社もある。
津島神社の創建は寺内町が形成される以前からあった。
明治時代中頃に書写された棟札に天治二年(1125)があったことからわかる創建年代。
津島神社の神宮寺は京都祇園社と同様に感神院があった。
(H29. 7.24 EOS40D撮影)