とあるブログが公開していた画像はこれまで見たことのないような光景だった。
その景観に唖然と見ていた。
紹介されていた地域は京都府京田辺市の宮津である。
毎年の伝統行事に茅の輪潜りがある。
これまで私が拝見してきた茅の輪潜りの場はほとんどが神社である。
尤もお寺さんにおいても茅の輪潜りがある。
東大寺は解除会。
法華寺は蓮華会式に茅の輪潜りがある。
かつて大和郡山市井戸野町の常福寺も茅の輪潜りがあった。
お寺さんの茅の輪潜りは数少ないと思うが、宮津の茅の輪潜りはお寺でもなく、神社でもない集落の道端に設営である。
茅の輪を潜るのは宮津の人たち。
茅の輪潜りの際に唱える詞がある。「みな月の 夏越のはらひする人は 千歳(ちとせ)の命 延ぶといふなり」であるが、宮津では唱える作法はないように思える。
その不思議な光景を見たさに訪れた。
茅の輪を作って設営したのは宮さん行事を斎行する朔日講の人たちである。
そのことを知ったのは平成28年の12月30日に訪れた白山神社の砂撒きのときだった。
講中の了解を得て拝見した神社の年中行事・朔日講宮守覚書に茅の輪設営の段取りが書いてあった。
茅の輪を作る日は7月31日より前の日曜日。
朝早くに講中が白山神社に集まって製作する。
設営は30日の夕刻。
設営が終れば、2本の小幣を茅の輪に挿しておき、集落の人たちが、以降いつでも参ることができるように調えておく。
茅の輪を撤去するのは7月31日の夕刻とあった。
拝見したいのは設営状態である。
その設営の場は集落のどこであるのか探索したく夕刻に訪れた。
夕刻であれば設営は終わっているだろうから、と思って出かけた。
まずは白山神社である。
神社、境内にはどなたもおられない。
ある人のブログに公開していた集落の道端はどこになるのか。
探す集落道のだいたいは把握している。
平成28年の12月31日に行われていた籾御供配りに同行したことがある。
時間的な都合もあって集落半分くらいであるが、たぶんにこの道であろうと推定していた。
車を走らせて見つけた設営地にはどなたもおられないが、こんな光景は初めて見る。
円形に整えた美しい姿で立てていた場は今まで見たことのない景観を描く。
とても珍しい景観を目にしたときの感動は忘れることはないだろう。
あり得ない場所に立てていた茅の輪を目の前にしばらくは佇んでいた。
設営された茅の輪をじっと眺めていたら、違いがあることがわかった。
茅の輪の材料は茅でなく笹である。
宮守覚書にも書いてあった材料。
製作日までに調達した材料は笹。
自生する竹を伐って笹の葉を集める。
葉だけでなく枝付きの笹の葉である。
材が笹であっても形は茅の輪である。
数本の笹の葉を束にして崩れないように荒縄で縛る。
製作工程は拝見していないが、一人や二人ではできない作業であったろう。
しばらくその場で佇んでいたら近くに住む婦人がやってきた。
ほんまは明日に参るのであるが、今から潜ろうとしていた。
撮影許可は得ていないからカメラは構えていない。
婦人の話しによれば、つい先ほどに買い物から戻ってきたばかりだという。
出かけるときは立っていることに気がつかなかったそうだ。
出かけるときの時間帯はわからないが、その時点ではまだ設営ができていなかったのだろう。
買物を済ませて戻ってきたら茅の輪があったという。
立ててあるから、「今日のうちにしやなあかん」と思って潜ったという。
潜る際に手にする御幣は茅の輪に挿してある。
一晩中、茅の輪に挿しておく御幣が夜露に濡れてしまっては、不味いのでビニール袋を被せていた。
その袋を外して竹に挿した御幣を手にする。
そして茅の輪を潜る。
潜る回数は3回である。
唱える詞章もなく3回潜って参拝を終える。
3回潜ることによって半年間の穢れを落とす。
そう思うのである。
ちなみに婦人が云うには、茅の輪の設置場所は毎年が同じ。
集落道の中央でなく端寄りに立てる。
潜るのは端寄りでなく集落道の方である。
逆に端寄りを潜れば土手側になる。
斜めの土手側を潜れば土手下に落ちることになるから、道側を潜る。
婦人の話しによれば、茅の輪潜りをしている際に、「・・・みなづきの・・・」と云いながら潜っていたそうだ。
詞章すべてを唱えていたのかどうかわからないが、夏越しの祓え詞だったようだ。
婦人はかれこれ40年間もずっとそうして潜っているという。
「みなづき」と云えば思い出す和菓子の「水無月」。
京都人は皆月といえば、自然と和菓子を思い起こすようだ。
この日の目的はもう一つある。
宮守こと村神主を務めるYさんが住む家を訪ねることである。
訪ねる目的は大晦日に行われた籾御供の印判である。
村神主は一年間のお勤め。
一年ごとに繰り上がっていく。
その宮守交代は2月行事。
御供配りを撮らせてもらったYさんから宮守を引き継いだYさんを訪ねた。
まずは茅の輪の件である。
この年は作業が捗って茅の輪は午前10時ころには出来上がっていた。
夕方にまた一同が集まるのを待たずに、作り終えてすぐに設営したという。
Yさんが云うには、茅の輪を設営した場は、子どものころからずっと同じだという。
材料も茅でなく笹の葉だった。
なぜに集落道にあるのか村の人に聞いたことがないからわからないという。
この年の設営は前日の7月30日に立てた。
潜るのは翌日の31日に決っているというから夏越し祓であろう。
ところで御供配りの紙である。
朱色の判で押した文字は「白山神社 神饌」である。
特にそれ以外の文字はなかった。
気にかけていた紙はこれでなく、正月の1月1日行事に供える紙であった。
五穀豊穣を祈る印がある。
「牛玉」文字にごーさんの宝印を押していた紙であった。
手元にはないが、その紙はお札。割いた竹に巻いているという。
平成23年の1月1日に行われた朔日講行事のことは京都新聞が取材して発刊している。
その誌面に、「伝統の印しは五角形の紙片におし、柳の枝を割って挟む」とあった。
当時は柳の木であったが、現在は竹に移ったようであるが、Yさんがいうにはそのお札は苗代作りの際に立てていたそうだ。
(H29. 7.30 EOS40D撮影)
その景観に唖然と見ていた。
紹介されていた地域は京都府京田辺市の宮津である。
毎年の伝統行事に茅の輪潜りがある。
これまで私が拝見してきた茅の輪潜りの場はほとんどが神社である。
尤もお寺さんにおいても茅の輪潜りがある。
東大寺は解除会。
法華寺は蓮華会式に茅の輪潜りがある。
かつて大和郡山市井戸野町の常福寺も茅の輪潜りがあった。
お寺さんの茅の輪潜りは数少ないと思うが、宮津の茅の輪潜りはお寺でもなく、神社でもない集落の道端に設営である。
茅の輪を潜るのは宮津の人たち。
茅の輪潜りの際に唱える詞がある。「みな月の 夏越のはらひする人は 千歳(ちとせ)の命 延ぶといふなり」であるが、宮津では唱える作法はないように思える。
その不思議な光景を見たさに訪れた。
茅の輪を作って設営したのは宮さん行事を斎行する朔日講の人たちである。
そのことを知ったのは平成28年の12月30日に訪れた白山神社の砂撒きのときだった。
講中の了解を得て拝見した神社の年中行事・朔日講宮守覚書に茅の輪設営の段取りが書いてあった。
茅の輪を作る日は7月31日より前の日曜日。
朝早くに講中が白山神社に集まって製作する。
設営は30日の夕刻。
設営が終れば、2本の小幣を茅の輪に挿しておき、集落の人たちが、以降いつでも参ることができるように調えておく。
茅の輪を撤去するのは7月31日の夕刻とあった。
拝見したいのは設営状態である。
その設営の場は集落のどこであるのか探索したく夕刻に訪れた。
夕刻であれば設営は終わっているだろうから、と思って出かけた。
まずは白山神社である。
神社、境内にはどなたもおられない。
ある人のブログに公開していた集落の道端はどこになるのか。
探す集落道のだいたいは把握している。
平成28年の12月31日に行われていた籾御供配りに同行したことがある。
時間的な都合もあって集落半分くらいであるが、たぶんにこの道であろうと推定していた。
車を走らせて見つけた設営地にはどなたもおられないが、こんな光景は初めて見る。
円形に整えた美しい姿で立てていた場は今まで見たことのない景観を描く。
とても珍しい景観を目にしたときの感動は忘れることはないだろう。
あり得ない場所に立てていた茅の輪を目の前にしばらくは佇んでいた。
設営された茅の輪をじっと眺めていたら、違いがあることがわかった。
茅の輪の材料は茅でなく笹である。
宮守覚書にも書いてあった材料。
製作日までに調達した材料は笹。
自生する竹を伐って笹の葉を集める。
葉だけでなく枝付きの笹の葉である。
材が笹であっても形は茅の輪である。
数本の笹の葉を束にして崩れないように荒縄で縛る。
製作工程は拝見していないが、一人や二人ではできない作業であったろう。
しばらくその場で佇んでいたら近くに住む婦人がやってきた。
ほんまは明日に参るのであるが、今から潜ろうとしていた。
撮影許可は得ていないからカメラは構えていない。
婦人の話しによれば、つい先ほどに買い物から戻ってきたばかりだという。
出かけるときは立っていることに気がつかなかったそうだ。
出かけるときの時間帯はわからないが、その時点ではまだ設営ができていなかったのだろう。
買物を済ませて戻ってきたら茅の輪があったという。
立ててあるから、「今日のうちにしやなあかん」と思って潜ったという。
潜る際に手にする御幣は茅の輪に挿してある。
一晩中、茅の輪に挿しておく御幣が夜露に濡れてしまっては、不味いのでビニール袋を被せていた。
その袋を外して竹に挿した御幣を手にする。
そして茅の輪を潜る。
潜る回数は3回である。
唱える詞章もなく3回潜って参拝を終える。
3回潜ることによって半年間の穢れを落とす。
そう思うのである。
ちなみに婦人が云うには、茅の輪の設置場所は毎年が同じ。
集落道の中央でなく端寄りに立てる。
潜るのは端寄りでなく集落道の方である。
逆に端寄りを潜れば土手側になる。
斜めの土手側を潜れば土手下に落ちることになるから、道側を潜る。
婦人の話しによれば、茅の輪潜りをしている際に、「・・・みなづきの・・・」と云いながら潜っていたそうだ。
詞章すべてを唱えていたのかどうかわからないが、夏越しの祓え詞だったようだ。
婦人はかれこれ40年間もずっとそうして潜っているという。
「みなづき」と云えば思い出す和菓子の「水無月」。
京都人は皆月といえば、自然と和菓子を思い起こすようだ。
この日の目的はもう一つある。
宮守こと村神主を務めるYさんが住む家を訪ねることである。
訪ねる目的は大晦日に行われた籾御供の印判である。
村神主は一年間のお勤め。
一年ごとに繰り上がっていく。
その宮守交代は2月行事。
御供配りを撮らせてもらったYさんから宮守を引き継いだYさんを訪ねた。
まずは茅の輪の件である。
この年は作業が捗って茅の輪は午前10時ころには出来上がっていた。
夕方にまた一同が集まるのを待たずに、作り終えてすぐに設営したという。
Yさんが云うには、茅の輪を設営した場は、子どものころからずっと同じだという。
材料も茅でなく笹の葉だった。
なぜに集落道にあるのか村の人に聞いたことがないからわからないという。
この年の設営は前日の7月30日に立てた。
潜るのは翌日の31日に決っているというから夏越し祓であろう。
ところで御供配りの紙である。
朱色の判で押した文字は「白山神社 神饌」である。
特にそれ以外の文字はなかった。
気にかけていた紙はこれでなく、正月の1月1日行事に供える紙であった。
五穀豊穣を祈る印がある。
「牛玉」文字にごーさんの宝印を押していた紙であった。
手元にはないが、その紙はお札。割いた竹に巻いているという。
平成23年の1月1日に行われた朔日講行事のことは京都新聞が取材して発刊している。
その誌面に、「伝統の印しは五角形の紙片におし、柳の枝を割って挟む」とあった。
当時は柳の木であったが、現在は竹に移ったようであるが、Yさんがいうにはそのお札は苗代作りの際に立てていたそうだ。
(H29. 7.30 EOS40D撮影)