阪本踊りは平成23年より中断しているが、同様の踊りが旧大塔町阪本の天辻地区や隣地区の簾で行われていることを知ったのは昨年の平成23年8月だった。
運営するブログで阪本便りを伝えるⅠさんが書き込みをされていた。
狐のセンギョなども案内してくださるⅠさんの阪本便りはいつも頼りにしている貴重な情報源である。
それより一年前の平成24年。
県文化財課が緊急伝統芸能調査の関係で天辻地区や簾に調査員が入ると聞いていた。
十津川村をはじめとする大踊りの調査に加わってほしいということであったが、私の調査担当は地元である大和郡山市白土町のチャチャンコの調査で精いっぱいだった。
ダブル調査は身体的・時間的にも余裕がなく、負荷もかかることから断っていた。
緊急伝統芸能調査は平成25年度に終えて平成26年6月に発刊された。
その経緯は6月18日に当方のブログで紹介した。
そのような状況を経てようやく落ち着いた今夏のお盆取材。
初めて訪れる両地区の調査取材に至ったが場所も知らない。
早めに出かけて現地入りしたものの村落がどこにあるのやらさっぱり判らない。
天辻峠は毎年通っている道にあるが、村落に入る道が判らないのだ。
予め連絡してⅠさんに教えてもらっていた天辻会場は天誅組本陣遺地だった。
新天辻トンネルを抜けて星の国手前を左折れ。
国道にある天誅組本陣遺地立て看板を目印に登っていく。
急坂のアスファルト舗装路を登っていけば、天辻の集落が現れる。
集落道は登りやすいが、どこまで行けばいいのやら。
行けども、行けども目印が判らない。
たまたま墓参りをされていた二人の婦人に道を尋ねる。
その二人は村を出た人。
この日はお盆で墓参りをされていたが、盆踊りのことは存知していないようだ。
本陣遺地ならあそこの辻を左折れした先にあると伝えられて指をさした方角に向かって登っていく。
それほど遠くない地にあったのが本陣遺地。
数台停められる[P]マークもあった。
ここは標高750m。
涼しい風が通り抜けていく。
踊り場は昭和60年8月に改築されて延命地蔵尊を安置する地蔵堂だ。
この日の13時には地蔵法要が行われたのであるが、到着時間が16時半。
地蔵法要を終えてあとだけにどなたもおられない。
天辻の地蔵尊は2体ある。
一つは石仏で、もう一つは木造の地蔵尊。
天川村山西に伝わる話しによれば「弘法大師が同村庵住の白井谷で阿弥陀如来、不動尊、地蔵尊の三体を造立した。その三体を近くの三本松へ運んで、どこでも好きな処へ行かれたいと云えば、阿弥陀如来は庵住、不動尊は坪内へ。地蔵尊は望んで天辻に行かれた」と書いあった。
木造の地蔵尊は庵住からやってきて天辻に安置されたのであろうか・・・。
天辻の地蔵祭りは1月24日、7月24日、8月24日の3回であったが、現在はお盆に里帰りされるこの日だけになったようだ。
提灯を吊るした堂内中央に平らな縁台を設えて太鼓やバチが置かれていた。
太鼓もバチも昭和51年7月に新調したものだ。
バチには「天誅踊り保存会」と書いてあった。
『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』によれば盆踊りの演目は天辻・簾地区とも同じで、「開き」、「やっちょんまかせ」、「政吉踊」、「はりま」、「大文字屋」、「祭文」、「かわさき踊」、「薬師」、「さっさよいこえ」、「天誅踊」、「とこそんで」、「さのさ」、「おかげ踊」、「やってきさ」、「祝歌」、「なんちき」、「まねき」、「八拍子」、「都」、「役者」、「やれとこさ」、「どんどんど」、「さよさよ」の23曲があった。
天辻には独自の踊りとして「天誅踊」が伝わっている。
踊りに天誅踊保存会が組織されていたが現在は休止中だ。
もう10年も前かに活動を休止されているようだ。
この「天誅踊」は刀を使って踊るようだ。
敵味方に別れて2人で踊る。
偶数人を要する殺陣(たて)のような振りがあるらしい。
地蔵堂で待っていても仕方がない。
そう思って阪本に下りて、仕事を終えたばかりのⅠ家を訪れた。
もう一つの地区の簾の地を案内してもらうために立ち寄ったⅠさん。
お会いするのは久しぶりだ。
簾へ行くには阪本より天川村塩谷・塩野に向かう道を走る。
ダム湖に架かる簾橋を渡って急こう配の道を登っていく。
とにかく細い道の連続急カーブ。
30度ぐらいと思えるカーブを登るのはとてもじゃないが、危険な道沿いに数軒の家がある。
カーブを曲がろうとした際、上から下ってくる車と遭遇するが、除けるのがとても困難な狭い道。
そろそろと後退してなんとか回避した。
その車は里帰りであったようで、光圓寺にも数台が停まっていた。
駐車場は停めるわけにもいかず、手前にある広い地は車の転回がしやすいと思ってここに停めた。
左上側に建っているのが簾の光圓寺である。
は寺伝・建保二年(1214)創建である。
踊り場はどうやら桜と思われる樹の下のようである。
かつての踊り場は同寺よりさらに登った国王神社の踊り堂であった。
明治22年8月18、19日、大雨風により十津川筋に未曾有の大被害を起こした山崩。
山腹深層崩壊は1080カ所、50数の土砂ダムが発生した。
そのころの簾は62戸。
その後の昭和35年は38戸。
村を出ていく家は増えて現在は2戸になったそうだ。
国王神社の踊り堂を拝見する時間もなく今回は断念した。
翌日に訪れる簾をあとにして山を下った。
しばらくはⅠ家で休憩させてもらった。
そして再び天辻に向かう。
(H26. 8.14 EOS40D撮影)
運営するブログで阪本便りを伝えるⅠさんが書き込みをされていた。
狐のセンギョなども案内してくださるⅠさんの阪本便りはいつも頼りにしている貴重な情報源である。
それより一年前の平成24年。
県文化財課が緊急伝統芸能調査の関係で天辻地区や簾に調査員が入ると聞いていた。
十津川村をはじめとする大踊りの調査に加わってほしいということであったが、私の調査担当は地元である大和郡山市白土町のチャチャンコの調査で精いっぱいだった。
ダブル調査は身体的・時間的にも余裕がなく、負荷もかかることから断っていた。
緊急伝統芸能調査は平成25年度に終えて平成26年6月に発刊された。
その経緯は6月18日に当方のブログで紹介した。
そのような状況を経てようやく落ち着いた今夏のお盆取材。
初めて訪れる両地区の調査取材に至ったが場所も知らない。
早めに出かけて現地入りしたものの村落がどこにあるのやらさっぱり判らない。
天辻峠は毎年通っている道にあるが、村落に入る道が判らないのだ。
予め連絡してⅠさんに教えてもらっていた天辻会場は天誅組本陣遺地だった。
新天辻トンネルを抜けて星の国手前を左折れ。
国道にある天誅組本陣遺地立て看板を目印に登っていく。
急坂のアスファルト舗装路を登っていけば、天辻の集落が現れる。
集落道は登りやすいが、どこまで行けばいいのやら。
行けども、行けども目印が判らない。
たまたま墓参りをされていた二人の婦人に道を尋ねる。
その二人は村を出た人。
この日はお盆で墓参りをされていたが、盆踊りのことは存知していないようだ。
本陣遺地ならあそこの辻を左折れした先にあると伝えられて指をさした方角に向かって登っていく。
それほど遠くない地にあったのが本陣遺地。
数台停められる[P]マークもあった。
ここは標高750m。
涼しい風が通り抜けていく。
踊り場は昭和60年8月に改築されて延命地蔵尊を安置する地蔵堂だ。
この日の13時には地蔵法要が行われたのであるが、到着時間が16時半。
地蔵法要を終えてあとだけにどなたもおられない。
天辻の地蔵尊は2体ある。
一つは石仏で、もう一つは木造の地蔵尊。
天川村山西に伝わる話しによれば「弘法大師が同村庵住の白井谷で阿弥陀如来、不動尊、地蔵尊の三体を造立した。その三体を近くの三本松へ運んで、どこでも好きな処へ行かれたいと云えば、阿弥陀如来は庵住、不動尊は坪内へ。地蔵尊は望んで天辻に行かれた」と書いあった。
木造の地蔵尊は庵住からやってきて天辻に安置されたのであろうか・・・。
天辻の地蔵祭りは1月24日、7月24日、8月24日の3回であったが、現在はお盆に里帰りされるこの日だけになったようだ。
提灯を吊るした堂内中央に平らな縁台を設えて太鼓やバチが置かれていた。
太鼓もバチも昭和51年7月に新調したものだ。
バチには「天誅踊り保存会」と書いてあった。
『奈良県の民俗芸能-奈良県民俗芸能緊急調査報告書-』によれば盆踊りの演目は天辻・簾地区とも同じで、「開き」、「やっちょんまかせ」、「政吉踊」、「はりま」、「大文字屋」、「祭文」、「かわさき踊」、「薬師」、「さっさよいこえ」、「天誅踊」、「とこそんで」、「さのさ」、「おかげ踊」、「やってきさ」、「祝歌」、「なんちき」、「まねき」、「八拍子」、「都」、「役者」、「やれとこさ」、「どんどんど」、「さよさよ」の23曲があった。
天辻には独自の踊りとして「天誅踊」が伝わっている。
踊りに天誅踊保存会が組織されていたが現在は休止中だ。
もう10年も前かに活動を休止されているようだ。
この「天誅踊」は刀を使って踊るようだ。
敵味方に別れて2人で踊る。
偶数人を要する殺陣(たて)のような振りがあるらしい。
地蔵堂で待っていても仕方がない。
そう思って阪本に下りて、仕事を終えたばかりのⅠ家を訪れた。
もう一つの地区の簾の地を案内してもらうために立ち寄ったⅠさん。
お会いするのは久しぶりだ。
簾へ行くには阪本より天川村塩谷・塩野に向かう道を走る。
ダム湖に架かる簾橋を渡って急こう配の道を登っていく。
とにかく細い道の連続急カーブ。
30度ぐらいと思えるカーブを登るのはとてもじゃないが、危険な道沿いに数軒の家がある。
カーブを曲がろうとした際、上から下ってくる車と遭遇するが、除けるのがとても困難な狭い道。
そろそろと後退してなんとか回避した。
その車は里帰りであったようで、光圓寺にも数台が停まっていた。
駐車場は停めるわけにもいかず、手前にある広い地は車の転回がしやすいと思ってここに停めた。
左上側に建っているのが簾の光圓寺である。
は寺伝・建保二年(1214)創建である。
踊り場はどうやら桜と思われる樹の下のようである。
かつての踊り場は同寺よりさらに登った国王神社の踊り堂であった。
明治22年8月18、19日、大雨風により十津川筋に未曾有の大被害を起こした山崩。
山腹深層崩壊は1080カ所、50数の土砂ダムが発生した。
そのころの簾は62戸。
その後の昭和35年は38戸。
村を出ていく家は増えて現在は2戸になったそうだ。
国王神社の踊り堂を拝見する時間もなく今回は断念した。
翌日に訪れる簾をあとにして山を下った。
しばらくはⅠ家で休憩させてもらった。
そして再び天辻に向かう。
(H26. 8.14 EOS40D撮影)