マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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第25回天理考古学・民俗学談話会聴講

2014年11月20日 08時19分43秒 | 民俗を聴く
始まってから25回目を迎えた天理大学天理考古学・民俗学談話会。

なんと今年で四半世紀にも亘る。

私は天理大学の卒業生でもないごくごく普通の一般人。

天理考古学・民俗学談話会を聴講するようになったのは平成24年からだ。

発表されるテーマによっては知りたいものがある。

そう思って今年もやってきた。

学生、一般人の受付は別個だ。名を記して500円の資料代を支払って、ふるさと会館こと天理大学9号棟に入る。

この日の午前1時。真夜中の棟内は人でいっぱいになったそうだ。

宇宙飛行士の若田光一さんが船長を務めている国際宇宙ステーションと米国NASAに天理大学雅楽部を結んだコラボ演奏があったという。

管楽器の笙(しょう)を奏でたのは若田さん。

NASAではバイオリン演奏で雅楽部学生が共演した。

ユニークな試みである。

長期間に亘って活動してきた若田光一さんは5月14日に、無事に地球へ帰還した。

それから数時間後に始まった第25回天理考古学・民俗学談話会の第一部は、題して<地域社会と文化遺産>。

1.伏見城と伏見桃山・名古屋大学大学院博士課程の西野浩二、2.水間八幡神社の祭祀組織・天理大学歴史文化学科事務助手の小野絢子(アヤコ)、3.関西における民芸運動の展開・大阪日本民芸館学芸員の小野絢子(ジュンコ)、4.東吉野村の「魚見石」―神武聖蹟と伝説の変化―・天理大学考古学・民俗学専攻の齋藤純氏らが発表する。

午前の部はここまでだ。第二部に<物質文化と技術>、第三部に<各地の遺跡調査>があったが、所用が入っており途中下車した。

私が知りたかったのは水間八幡神社の祭祀組織と東吉野村の「魚見石」だ。

水間八幡神社の祭祀は田楽を奉納する芸能行事がある。

マツリに出仕される当家・当人を決めるフリアゲ神事、宵宮に行われる当家の座に真夜中の田楽奉納、大祭の座・馬駆け・子供力士相撲である。

2月11日には名替えが行われると聞いているが未だ拝見できていない。

対象となる男児がいない場合は代理人となる名替えの儀はいわば元服。

村入りの認められる年齢に達した際に幼名から成人の名に替えるのである。

総代が立会する儀式より数時間前には年番の引き継ぎもある。

今では11日に移っているが、かつては1日であった。

その日は弓鏑的の式があったと大正四年調の神社調査書にそう書かれているが、「宮座」の文字は見られない。

水間の八幡神社の祭祀を務める組織は宮座だと推挙された発表者。

いつしか村座に移った変遷を卒業論文にしたためたそうだ。

県内各地には今尚宮座を継承している地域もある。

村座に移った地域も多々あるなかで、なぜに水間を選ばれたのか発表にはなかった。

宮座研究は奥が深い。

調査地をどこにするかで特定することは難しい。

一事が万事ですべてを明らかにすることはできないと思っている。

昭和4年に宮座調査書の質問にある「宮座」の名称に回答はなかった水間。

そりゃそうである。

私が知る地域でも「宮座」の呼称はなく、○○座とか□□座、或いは○○講とか□□講である。

ある地域では「宮座講」の名も見られる。

「宮座」の呼称で呼んでいたのは僅かで、「座」と呼ぶ地域もある。

これはいったいどういうことなのであるのか。

呼称の研究は多くの事例を調査しなければならない。

本質的には地区に残されている文書が一番だと思っている。

場合によっては神社に寄進した燈籠などに「座」或いは「講」の名がある。

そもそも江戸時代には「宮座」の呼称はあったのか、である。

地域によっては「座」は一つだけでなく、二つ、三つの場合もある。

もっと多くの事例を研究する余地がある発表。

若い人だから、水間だけでなく多くの地域に足を運んでほしいと思った。

天理大学歴史文化学科教授の齋藤純氏が報告された「東吉野村の「魚見石」―神武聖蹟と伝説の変化―」はとても興味深い。

「魚見石」は氏の談話で始めて知った。

東吉野村の小(おむら)にある「魚見石」の原像はどのような過程があって、そう呼ばれるようになったのか。

「小」の文字一つで「おむら」と呼ぶ訳も始めて知った。

もともとの「小」は「小村」であった。

「村」の字が取れて「小」の一文字になったが、呼び名がそのまま残ったのである。

それはともかく「小」にある「魚見石」の伝承に、「神武天皇が厳瓮(いつべ)を流して戦勝占いをした所だ」がある。

ところが日本書紀にはそのような記述がないのだ。

一方、「高僧の奇跡譚と似た内容を村の人が記憶にある」というのだ。

高僧はおそらく弘法大師。全国各地に弘法大師が発見したなにがしだという奇跡譚がある。

「魚見石」に掲げられている聖蹟碑は村の伝承であるには違いないが、日本書紀の事柄にはないのである。

いつの時点で事実に基づかない「魚見石」が伝説になったのかである。

日本書紀にあるのは、大和侵攻に際して天神の夢告があったということだ。

夢告は「天香山の埴土(はにつち)を以って平瓮(ひらが)、厳瓮(いつべ)を造って丹生の川に沈める」。

厳瓮とは酒瓶である。

思い出したのは、畝火山口神社の埴土取り神事だ。

大阪の住吉に鎮座する住吉大社で祭祀される際に用いられる「神酒壷」と呼ぶ祭器の願材料が「埴土」である。

祭器の原材料は、畝火山口神社の元社になる畝傍山山頂に存在する。

かつては耳成山にもあったことが知られている。

「埴土」は夜行性コフキコガネの糞であると橿原市史に書かれてあった。

樫の木の養分を集めて、土(のなかの精髄を)丸めて団粒にするコフキコガネの習性。

自然界から生まれたものを秘土とした埴土に驚きを隠せない。

日本書紀にある「埴土」は天香山であったのだ。

「埴土」で造った土器を川に沈めて、その浮き沈みで祈い(うけい)をした。

その場は「誓(うけい)の淵」だ。

「土器を沈め、魚が酔って流れたならば、国を平定できるという祈い。

それを見た家臣の椎根津彦は神武天皇に報告したところ、大いに喜んで丹生の川上に諸神を祭った」ということである。

齋藤純氏は続けて話す。

「魚見石」の異伝に「焼魚蘇生譚」がある。

それと同じ類型譚は各地に見られる。

宗派拡大をもくろむ宗教伝播者がいた。

それが各地に広がった「焼魚蘇生譚」。

魚を捕る村の人から料理した魚を提供される。

宗教伝播者は、自己のものとして川に入れる。

すると魚が蘇生して川に棲むことになる。

氏曰く、これをきっかけに在来の村人と訪れた宗教伝播者による教化によって宗教的関係が結ばれる、というのだ。

「小」では「村人から提供されたアマゴは片身を焼いたまま、堰に入れた。するとアマゴは蘇生して堰より俎上する様を村人とともに見た」というのだ。

その場をカンジョウノフチ(勧請の淵)と呼び、宗教伝播者(推定弘法大師)は神仏を勧請し祈願を行ったと記す。

古老が記憶にあった「焼魚蘇生譚」は「魚見石」に改変された。

その際に神武天皇の祈いを加えたのであろう。

伝説はいくつかの要件が合わさった作り話の物語(譚)なのである。

言い伝えはともかく伝説は古譚。

なにがしかの要素が変化を加えて伝わってきた。

事実関係は史料にある。

それを深く考察することが大切だとあらためて認識した講演であった。

ちなみに氏が一覧表にされた弘法大師が由来する「焼魚蘇生譚」の地域は次のとおりだ。

奈良県内では東吉野村小の他、旧都祁村の上深川、旧室生村三本松・同村平原、十津川村出谷・小壁がある。吉野町国栖の由来は弘法大師でなく、天武天皇になる。

和歌山県では高野山内玉川も弘法大師。

大阪府は行基が関係する堺市家原寺だ。

兵庫県伊丹市昆陽池も行基である。

(H26. 5. 3 SB932SH撮影)


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