マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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池ノ内町牛の宮しんこ喰い

2010年06月20日 07時25分58秒 | 大和郡山市へ
午前3時半は夜中の範疇。

真っ暗な闇のなかにギョギョッシ、ギョギョッシとオオヨシキリの鳴き声が聞こえてくる。

新聞配達の単車のライト照らす光と音だけが夜明け前の時刻を告げていく。

これより1時間後、二人の少年が牛の宮塚に姿を現わした。

少年には父親が付き添っている。

碑の前に即席の祭壇をこしらえて持ってきたシンコ団子とワカメ汁やお神酒を供える。

ローソクに火を点して二人は手を合わせてお参り。

今日は牛の宮でしんこ喰いの日。

塚にシートを広げてしんこ団子やとワカメの酢和えをよばれる。

「こんな暗い所でしていたら、何をしてるんやろと思われるだろうな」と笑う父親。

陽が昇る前の光景は怪しげな様相を醸し出す。

ほんのりと池ノ内の朝がやってきた。

近くで物音が聞こえた。

怪しげな音だ。

鳥かと思えばタケノコ採りの音だった。

そのころ一番電車がライトを照らして大和路線を通過していった。



それから4時間半後。

主役を終えた子どもと親は構造改善センターに上がった。

お参りを済ませたあとはぐっすりと睡眠をとったそうだ。

野球部の早朝練習は祭日で休み。

母親も揃ってセンターに会する。

前年まではしんこ団子を村に配っていた。

形式は略されてセンターに取りに来る方式になった。

実は、しんこ配りは昨年で廃止だった。

その通達が間に合わなくてしんこ団子を注文していた。

それで配ったのだという。

村への呼び出しはマイク放送。

緊張な面持ちで電源をあげた。

ピンポンパンポーンのコールが鳴った。

マイクに向かって連絡文を読みあげた。

外で聞いていた父親は聞こえないという。

なんとマイクのスイッチが入っていなかったのだ。

始めて体験する放送に苦笑い。

放送を聞いた子どもたちがすぐさまやってきた。

お皿に盛ったしんこ団子は三つずつ。

お箸でよばれる。



久しぶりに顔を合わせた子どももいる。

食べ終わったら外で遊んでいる。

子どもの日は、やはり子どもにとっての祭日だ。


※なお、平成元年の資料によれば特上コメの粉を40kgも注文されている。餡も相当数だが量を示すものは見あたらなかった。その資料にはコメの粉が2kgに対して同量の砂糖を2kg混ぜて5.6kgのしんこ団子を13パック作っていた。さらにしんこ団子が6kgに対して餡を4.5kg加えて14パック。配った総数は74パックであった。
もう一枚の資料には絵付きで詳しい作り方を書いてあった。はじめに2kgが1こしきとして、米の粉2kgと砂糖2kgに塩を杯に半分程度を入れて1.9kgの湯を投入。しゃもじで錬り混ぜながら作る。次にさらしの布を重ねて(4段程度)こしきに入れる。何回も上下を入れ替えて中の下が白くなったらこしきがあがってくると書かれている。微妙な作り加減まで書かれてあった。それを臼に入れて練る。そして団子のように丸める。手水は湯に砂糖を混ぜるとある。団子は台の上で長くして切る。にぎり棒ではなかったようだが、資料として残された人に敬意を表する。

また、平成7年に記された資料には行事の段取り日が書いてあった。4月初めに16個入りのしんこ(470g)と餡(330g)の値段がある。おそらくその頃からしんこ団子をお店注文に変化したのであろう。4月30日は牛の宮の草刈りと清掃。5月4日に注文したしんこ団子を取りに行って供物などを準備した。お酒、杯、とり皿、箸、お盆にしんこ団子のパックとワカメとちりめんじゃこの酢の物を持って朝5時頃に参るとある。現在より半時間遅かったようだ。

(H22. 5. 5 EOS40D撮影)

タイトルは行事の継承

2010年06月19日 07時29分50秒 | 民俗の掲載・著作
行事の主役がいない場合はどうされているのだろう。

子供の涅槃のような対象の子供がなければその年の行事は中止というケースは多々ある。

生まれる子供がいなければ長く中断ということもありえる。

中断せぬためにはどうすれが良いのか。

その問題を解決したのが自治会役員で継承している池ノ内のしんこ喰いだ。

地域の行事を継続する効果的な手段であった。

当初は8回でということで始まった「つながり」の「行こか」シリーズ。

好評を得て延長掲載してきたが、この行事が最後の紹介となった。

今後は「まちかどレポート」が継承していくことであろう。

(H22. 5. 4 SB932SH撮影)

小林町オコナイ魔除け札の水口供え

2010年06月18日 07時27分15秒 | 大和郡山市へ
小林町で農業を営む家は10数軒。

天候が良くなる5月のゴールデンウイーク中に苗代作りを始めている。

モミオトシをしたのは前日で今日は朝から苗代作りを始めたKさんは74歳。

県庁勤めだった弟さんと二人で苗床を作っている。

土が固かったので耕した。

その道具は草取り機。

先が土を掘り起こすようにできているから利用したそうだ。

機械で土を柔らかくして水をかけて平坦にする。

そして、苗箱を敷いて肥料を撒く。

撒く道具はテカゴ。

肥料の油かすを計量したのは一升桝。

深さが二寸七分、幅は四寸九分と彫られている。

どちらも先代が使っていた年代ものの道具だ。

苗箱の上には心棒に撒いた新聞紙と穴あきシートを被せていく。

呼吸を合わせて歪まないように広げていく。

新聞紙にのり付けした糊がくっついているので、破れた箇所を補強しながら作業を進めている。

Kさんの田んぼは7反半。

苗箱は150枚用意した。

1反で20箱も要する計算だ。

半分ぐらいになった頃、家から持ってきた魔除けのお札。

新福寺で行われた3月のオコナイで授かったお札だ。

ヤナギの枝に三角折りにしたお札だ。

それをお花とともに苗代田の縁に挿す。

田主は心の中で今年も豊作になりますようにと思いを込めて祈った。

その後も苗代作りの作業が続く。



シートを敷いては端っこを泥土で置く。

風で飛ばされないように押さえていく。

最近は苗代田にビニールシートを被せるところが多くなっているが、Kさんは、面倒だが苗が強くなるのでそうしているという。

かっては牛がいた。いうことをよう利いてくれたそうだ。

牛は都祁の白石に預けた。

いわゆる預け牛だ。

秋に戻ってきたときは痩せていたそうだ。

ムギも栽培していた。

小林では「田植えさん」が生駒の高山から来ていた。

3人が2日間。住み込みで作業をしていた。

「草取りさん」も来ていた。

こちらは2人で2日間。

「フゴ」を担いで2往復。

しんどいからと先代がゴム車を買ってくれた。

つい最近まで物置にあったが捨てた。

ゴムはくたびれてなかったそうだ。

(H22. 5. 4 EOS40D撮影)

天理から郡山へと苗代供え巡り

2010年06月17日 08時35分38秒 | 大和郡山市へ
天理市豊田で石上神宮の松苗供えを拝見して地元郡山へ戻ってきた。

気になっていた小林町の苗代を探してみた。

すると3月のオコナイのときの魔除け札を見つけることができた。



十数軒の農家ではたばったお札を挿すと聞いていたものだ。

夕陽があたる苗代に堂々と立っている。

そして向かった先は矢田寺付近だ。

こちらも気になっていたので探してみた。

数カ所で苗代が見つかったがお札はない。

山麓側をふと見上げると白いものが目に入った。



これだろうと近づいたらお札だった。

撮ったデジタル画像を検証してもらったら坊住職は間違いないという。

1月2日の夜に営まれる修正会で祈祷されたお札だ。

お札は会式が終わったあとに住職が村人の家を訪問して配られるそうだ。

配る住職は4年に一度の当番の坊。

翌日かその翌日に一軒一軒訪問して各家に配られる。

その牛玉宝印書が苗代に供えられていた。

日が暮れるまではもう少し時間がある。

今度は矢田坐久志玉比古神社の綱掛けのお札を探してみる。



昨年の探索で見つかっていた数カ所以外を探してみたところ、それは見つかった。

(H22. 5. 3 EOS40D撮影)

新泉の野神祭り

2010年06月16日 08時21分11秒 | 天理市へ
一週間前に作った野神祭りの役道具。

ムギワラ製の牛、馬、ムカデや竹製のカラスキにマンガンだ。



ムギワラは昨年作ったときに残しておいたものを混ぜて作られたから色艶ぐあいが異なる。

ムギワラは「はかま」を取って綺麗にした。

牛を引く棒やカラスキの代掻き棒はヤナギの木。

皮を剥がしやすいから使っているそうだ。

例年通りに頭屋の家の前に集まってきた役員たち。

大和神社の宮司を先頭に氏神さんの素盞鳴神社を目指して出幸した。

今年で頭屋の子どもは役目を終える最後の野神祭り。

中学生になれば主役の座を明け渡す。

来年は一人になった子ども。

牛耕するにはもう一人が要る。

来年のことはさておき主役の子どもたちは頭屋の家の座敷にあがった。

これから始まるのは宮司とともによばれる会食だ。

「ごちそう」と呼ばれているお膳の前に座った。



大きなタケノコは丸太から炊きあげた。

その大きな椀にはトロロコンブがある。

よろこぶの意味があるそうだ。

ニヌキ(ミヌキともいう)タマゴにコーヤドーフとフキの煮物が添えてある。

しょうゆとミリンで味付けているそうだ。

小さな椀はチシャとタケノコを木の芽とゴマを味噌で和えたもの。

皿にはカツオのナマブシ(ナワブシともいう)。

膳には載らないが巻きずしがある。

コーヤドーフ、カンピョウにミツバを巻いたシンプルな巻き方だ。

数は7切れと決まっている。

セキハン(赤飯)や7個のモチもある。

これらは昔から決まっている献立だ。

全般的にお味は薄めだが。

木の芽和えは酒の肴に最適な味。

「これらは大人の味だ」と頭屋の主人にお酒を注がれる宮司が仰る。



子どもだけの座に大人の味の料理をだす。

さすがに子どもの口には合わなくて途中で座を離れてしまった。

こうして一歩、一歩と大人への道を歩むのであろうか。

子どもの頭屋はい(入)り頭屋とひき頭屋の二組がある。

入り頭屋はよちよち歩きの子ども。

さすがに生まれたての子どもは入り頭屋にならない。

幼稚園に入るころだ。

ひき頭屋は小学校最終学年生。

今回が最後に野神祭りを卒業していった。

野神祭りは元々5月5日に行われていた。

それが市の行事を重なったことから3日になった。

頭屋のご主人が子どものころに変わったそうだ。

そのころは子どもが12人もいた。

牛耕の役は取り合いになったという。

そのころはコメを3合、うるちコメのモチゴメは2合。

タケノコやコーヤドーフに100円をよせて(持って来るという意味の大和言葉)いた。

それを使って頭屋の家で「ごちそう」をこしらえていたそうだ。


※辻ごとに竹を挿してお酒を注ぐ。酒を注ぐのは氏神さんのスサノオがお酒を好きだからだといい、参道となる農道は神社への道しるべだろうと宮司が仰る。頭屋の永尾さんはその竹を「ゴンゴウ」と呼んでいるが、資料では「竹のゴウ」になっていた。

※昭和52年の書き留めたメモでは「頭屋」が「頭家」と書かれていた。

(H22. 5. 3 EOS40D撮影)

藤井のトアゲとお日待ち

2010年06月15日 07時39分06秒 | 天理市へ
藤井の庚申さんの夜会食は庚申の日に近い日曜日に行われている。

なお、3年、4年にいっぺん回ってくる庚申さんのトアゲがある。

上のほうの丸こい石の前に集まる。

花立てなど飾りものも作るというから桜井市の瀧倉や芹井などで行われている形式と同じであろう。

次のトアゲは平成24年。

3月末か4月初めになるそうだ。

毎年12月14日の夜はお日待ち。

庚申さんと同じようにヤドの家に集まる。

掛け軸はアマテラスオオミカミのお伊勢さん。

昔はたいそうやったと話される。

朝の4時から搗いていたが、間に合わないからと前日の晩にしたこともあるという。

大きなモチを重箱にいっぱいに詰め込んだ。

それは柔らかいうちに糸で切断していた。

モチは餡でつつんでいたことからアンコロモチと呼んでいた。

そのモチはお日待ちの日に7個ずつ7軒に配っていた。

心やすい家にも配っていた。

やめてから20年は経つという。

(H22. 5. 2 記)

藤井の庚申さん

2010年06月14日 08時08分34秒 | 天理市へ
60日サイクルでやってくる庚申さんの日。

天理市藤井では庚申の日に接待されるヤドの家に集まってくる。

日が暮れた時間を集まる時間としているので夏期と冬期では異なる。

ヤドの家では庚申さんの掛け軸を掛け、その前に「おっぱん」と呼ばれる膳をだす。

白飯にお茶、ワカメの吸い物。

アゲとタケノコの煮染めに厚焼きタマゴ。

献立の決まりは特になく、適当なあり合わせ。

つまり家で食べている料理を供えている。

「おっぱん」は、「御飯」と表記され、「おんはん」が訛ったものであると考えられる。

昔は、さまざまな料理をこしらえて、バナナは一房程度の果物やお菓子も出していた。

食事が終わったらコーヒーにアイスクリームとだんだん派手になってきたという。

これではますます上昇してキリがないから、パック詰め仕出し料理と白飯と漬け物だけにした。

食事の接待はヤドがもつ。

藤井には北、上、南の三つの垣内があり、実施される日は同一日だ。

各垣内はおよそ7軒ずつの講家がある。

今夜の庚申講は北垣内のヤドの様子を伺った。

北垣内は7軒であるが都合で5人が参集された。

「おっぱん」の膳横に千円が積み重ねられている。

これは旅行費用の積立金だ。

年に6回の庚申さんの日に積み立てていくので一年で6千円貯まる。

だいぶと貯まったが旅行に行く日は決めていないそうだ。

ヤドの座敷にあがったときに掛け金を置く。



そうして料理の膳を広げて食事会が始まった。

庚申さんには手を合わせることなく灯明の火が揺らいでいるだけだ。

供えた一升瓶のお酒の栓を開けて酒とともに饒舌になっていく。

普段は犬の散歩ぐらいしか顔を合わさない。

2ヶ月にいっぺんはたっぷりと夜が更けるまで話しこんでいく。

こういう機会はとても大切なんですとヤドの奥さまが話される。

(H22. 5. 2 EOS40D撮影)

藤井の水口供え

2010年06月13日 07時51分20秒 | 天理市へ
4月12日に籾種を撒いた。

15日にはハウスに供えたと話すご婦人。

雨があがったら水が入ってくるところに挿す。

昔はキリコ(モチ)を炒って撒いていたが、それはアラレのオカキに代わった。

そのころはほうらくで炒っていたそうだ。

1月に行われた東福寺のオコナイと三十八神社の乱声で授かった牛玉宝印の書。

同じく1月に行われた弓打ちの弓に巻いて挿す。

4月末の大安の日の朝に挿したそうだ。

その日も雨だったらハウスで「寝かして」、晴れの日に挿す。

「寝かす」とは大和言葉で休ませることだ。

懐かしい言葉に思わず肯いた。

苗代をたくさんこしらえなくてならない地主さんは、縁者の手を借りて今朝から支度された。

出来上がった苗代棚は飾られたお花とともにお札が夕陽が差し込み山間の美しい姿を見せる。

(H22. 5. 2 EOS40D撮影)

津越のヤッコメ

2010年06月12日 08時01分37秒 | 山添村へ
津越のヤッコメが気になっていた。

家外におられたK氏の奥さんに聞いた。

それは毎年4月29日のことだという。

今年の子どもは3、4人だった。

朝早く、ダムの大橋に集まって集落を巡る。

子どものおる家の門を叩いてお米をもらっていく。

子どももおらん家にも訪ね歩いてKさんの家横で終わる。

対象の子どもは中学2年生まで。

昔は小学高等科だった年齢だそうだ。

ヤッコメとは焼くコメが訛ったもので、キリコとも呼ばれるカキモチになったが、かってはコメをはだいたもの。

はだくとは焼くことだという。

大和言葉が存分にでてくる。

モチに代わったが行事の名称にその様相が残っている。

K宅の玄関には剣のようなものが2本。

互い互いに飾っている。

役員をしていたので宮さんの造宮のときに拝受されたそうだ。

宮さんは天神社。

津越の神社が合祠された神社だ。

今朝はその神社の月並祭だった。

7月17日は神社で合祠の記念祭が行われているそうだ。

(H22. 5. 1 聞き取り)

田植え初めの気候事情

2010年06月11日 07時10分15秒 | 山添村へ
今年は天候が不順だ。

2月は初夏の陽気かと思える日々があった。

そのままだったら稲も育ちが良く、農作業が忙しくなるだろうと思っていたが、3月に入ると冷え込む日々となった。

4月もそうだった。

例年なら5月3日に田植え初めの「植え初め(うえぞめ)」をしている。

4月25日には霜が降りた。

屋根には霜柱が立った。

これでは苗が育たんようになるといって、植え初めの実施日を送らせた。

水を張った田んぼの春は遠い。

お茶も遅れていると話す山添北野のI氏の奥さん。

昔は4月15、16日に獅子舞がやってきた。

その日、田んぼに水を落とした。

苗を芽吹くには袋に入れて風呂に浸ける。

それを苗代に落とした。

これをモミオロシと呼んでいた。

外でしていたので今年のような天候でも苗は強靱に育ったという。

田植え初めは田んぼの畦にカヤと苗を植える。

そこには祈年祭でたばったサカキも挿しておくそうだ。

(H22. 5. 1 聞き取り)