マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

春陽堂の大福餅

2010年06月10日 09時09分34秒 | 葛城市へ
當麻山口神社の宮司が亡くなられたという知らせを聞いて手を合わせに行った。

奥さまから今年も期間限定でお店を開いていると聞いて訪問した春陽堂。

旦那さんを亡くしたおばあちゃん。

顔もつやつやでこの時期ははつらつとしている。

今年で91歳になったそうだ。

2年前に取材したこともはっきりと覚えておられる。

元気な姿を拝見したらほっとする。

今年の売り子は女の子が二人。

一人は覚えていると目を輝かせた。

みくちゃんは中学一年生になっていた。

ご主人も元気でヨモギモチの「姫餅」を作っている。

朝から晩まで働き通し。

サラリーマンに日曜日があるのはよく判ると笑った。

行事のときに玄関へ括った注連縄も元気だ。

色あせずにそのときのまま。

道行く人が尋ねることがあるそうだ。

今年もデパートから頼まれた姫餅販売。

あっという間に売れたという。

姫餅もあるけど最近は大福餅がよく売れていると話す。

持ち帰って家で開けたら家族の手が伸びる。

ふくよかでしなやかな餅はヨモギモチ。

自然な風味作りのこし餡と口の中で幸せを味わう。

(H22. 4.29 EOS40D撮影)

五條吉野川・薫風の鯉のぼり

2010年06月09日 08時06分31秒 | 五條市へ
風そよぐ吉野川。

ようやく穏やかな季節を迎えたこの日、爽やかな風が身体を通り抜けていく。

その風を受けて舞い上がる鯉のぼり。

300匹からなる連なる鯉のぼりが河川敷に立てられている。

高さは14mで約1kmにわたって並んでいる。

家庭で不要になった鯉のぼりが色とりどりに勢揃いすれば圧巻だ。



十年まえから始められた町起こしの鯉のぼりは五條市の風物詩となっている。

(H22. 4.29 EOS40D撮影)

阪本地に伝わる慰霊の踊り

2010年06月08日 07時30分24秒 | 五條市へ
シャクナゲの花が咲き誇る旧大塔村の山の里。

阪本の国道から急坂を登り切ったところが向坂本の地だ。

古野瀬(ダムで水没した)の集落から見て向こう側にあるから向坂本と呼ばれている。

ここは熊野詣での西熊野街道。

近鉄電車が下市まで開通してから寂れていったと長老は語る。

毎年4月29日の政吉法要祭に奉納される阪本踊りが披露される。

村の伝えによれば『淡路から出稼ぎに来ていた文蔵という若者に、阪本の村娘たちが片想いをしたことから村人が嫉妬して、文蔵を水責めにして殺害してしまった。阪本の男たちは五條の代官所へ連行された。働き手を失った村は疲弊し、山林のヒノキまで売らねばならない状況になった。そこに立ち上がった男がいた。中村屋の政吉は村を救うため罪を背負って出頭した。政吉は死罪となり捕らえられていた村人は放免された。政吉は「死罪になったら盆踊りで弔ってほしい」と遺言していた。』それが阪本踊りの始まりとなった。

郷土の義民の哀しい話は踊る姿に蘇る。

政吉法要祭は中垣の専用駐車場上に建てられた墓前で行われる。

お花を飾り、御供を供えて法要が始まった。

祭壇に線香が灯されて佛心寺の僧侶がお経を唱えていく。

はじめに揃って合唱。

「なむしゃむにー、なむしゃむにー」の唱和が青空の下で唱えられる。

昨夜から降り続いた雨は朝方に止んだ。

心配されていた法要は気持ちの良い風がそよぐ日となった。

般若心経を合唱して親類縁者、家内安全、病魔退散を祈る。

修正の儀で焼香していく。



集まった村人は40人を越えた。

焼香の順を待つ人々が並ぶ。

政吉さんのおしょうらい(精霊)回向や先祖代々、過去帳のおしょうらい慰霊を弔った。

法要後の踊りは「やっちょんまかせ」、「はりま」に「かわさき」。

そして、「えー 小代阪本よ 昼寝はよ出来ぬ へエー淡路文蔵がヨ 殺された ショウガヨ ありゃ殺された」 「えー 小代阪本よ 今切るよ桧  へエー淡路文蔵ノヨ 公事ノ金 ショウガヨ ありゃ公事ノ金」 「えー 小代阪本よ 四十とよ八戸 へエーミンナ政吉サンニ 救ワレタ ショウガヨ ありゃ救ワレタ」と歌い踊られる「政吉踊り」の4曲。



短時間で踊り終えた。

ひと休憩してからは楽しみのモチ撒きに移る。



供えたお下がりの御供とともにモチを撒いていく。

コモチを求める手は青空に伸びていく。

ときおり緑色のモチが飛んでいく。

ヨモギを混ぜて搗いたヨモギモチだ。

最後の方にはひときわ大きいオオモチが投げられる。

昔は賽銭のお金を入れて放り投げていた。

だから余計に賑わったのだと長老は目を細める。

(H22. 4.29 EOS40D撮影)

藺生山の神やさぶらけなど

2010年06月07日 08時01分38秒 | 楽しみにしておこうっと
藺生では田植え初めの儀式の「植え初め(うえぞめ)」をさぶらけ(さぶらきが訛った)と呼ばれている。

田んぼの畦に付近の水田に苗をカヤの木を6本挿す。

それは2段であって合計12本。

一年の月の数を現すそうだ。

稲苗がすくすくと育つように祈るさぶらけ。

2房のフキダワラは田植えを始める前に氏神さんの葛神社の拝殿に今年も豊作になるようにと供えておく。

賽銭箱の上に乗せる人、傍らに置く人などまちまちだ。

フキダワラはお米を入れて藺草で縛ったもので田んぼには供えない。

1月のオコナイで授かったゴーサンは本来なら籾蒔きのときに挿すのだが、JAで苗を購入するようになってからは田植えのときに挿している。

田植え前、家ではコガシ(お米を炒って、それを挽いたもの)をご飯の上に振りかけて食べている。

藺生のさぶらけは例年5月のゴールデンウイークのころ。

田んぼは荒起こしして、池の水を引いて溜めたあとマンガ(馬鍬)を掻いて代掻きをしてきた。

田んぼを均したところへ水を引いて田植えをする。

30日にダムから水が出るのでそれから池の水を引く。

田んぼをまだ耕していないところもある。

今年は天候不順で苗の育ちが悪い。

JAで購入しているのだが、ゴールデンウイーク明けになってしまうと話されるTさん。

親戚らが応援して田植えを終える。

そして全てが終了したら2房のフキダワラは家の炊事場に供える。

エビスさんに祀って今年も豊作になりますよう、無事に田植えを終えることができたと奉告する。

1月7日は山の神。

葛神社の上のほうに山の神がある。

モチを挿したウルシの木と幣を祀る。

傍らには古い舘がほかして(捨てるの意)ある。

それは山の神に預けておいたものだという。

かっては山の仕事をしていた人が山仕事の道具であるナタやヨキを置いて参っていた。

今は山の持ち主ともう一人の2人がしているそうだ。

モチや弊は風雨で溶けている。

藺生の山の神は3カ所。

他に並松(なんまつ)のゲートボール場の傍と西岡電気から峠を下ったところだそうだ。

道は分かり難いそうだ。

そこではカンジョウナワを張っている。

1月に神社のカンジョウナワを張る日、社守さんが張りに行くそうだ。

元々は10月の佐平祭のときにしていたという。

Tさんは左官業を営んでいる。

その日は家で、一年の仕事がうまくいきますようにと仕事道具を並べて祈る。

コテ、カマド(竈)レベル、サシガネ、スミツボなど道具一式とこしらえた鏡餅を供えている。

鍛冶屋さんは仕事場で一年の仕事を祈るふいごの祭りがある。

仕事や道具は違いはあるが、ふいごの祭りと同じようなことである。

語られたなかでとても興味をもった行事である。

5月8日はオツキヨウカだった。

そのころは山にツツジが咲いている。

太い真竹を切ってくる。

10尺の長さの竹の先にツツジを取り付けて今年も豊作になるようと祈っていた。

ツツジは3本。

中央はすくっと立つツツジ。

2本背中合わせのようにして縛った。

先代の親父がしていたことは記憶にあると語るTさん。

戦後、昭和30年代のころまでしていた。

トラクターが田んぼを耕すようになって消えた行事。

かって各地で見られた「天道花」の風習だと思われる。

(H22. 4.29 EOS40D撮影)

南之庄の田植えが近い

2010年06月06日 07時28分53秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
都祁南之庄では岳のぼりのころに苗代が作られている。

ビニールを被せているので育成具合は判らない。

すくすくと育っているのはおそらくMさんの苗代だろう。

被せられた苗床の傍には一本の木が見られる。

それは歓楽寺で行われたオコナイのフジの木だ。

僧侶が声明を唱えているときに「ランジョウ」と発する。

そうすると一斉に畳の床をフジの木で叩く。

オコナイを終えたら祈祷札をもらう。

そのときのフジの木とお札が苗代横に供えて挿す。

しっかりと苗が育つようにという願いだがJAで苗を購入するようになってからはお札立てのミトマツリは消えていった。

苗が育ったら田植えが始まる。

田植え初めは「植え初め(うえぞめ)」という。

5月のゴールデンウイークの始めころだそうだ。

結鎮の際に拝受されたクリの木が12本。

萱の木も12本。

それを12個のフキダワラとともに挿して稲の豊作を祈る。

フキダワラにはご飯を入れるそうだ。

いわゆる「さぶらき」である。

クリの木は宮さんでたばってきたもの。

南之庄ではこれをしている家は数軒だという。

農業を営む家が少なくなっている。

若い者は感心もなくなってきた。

十年後には田んぼもなくなっているのではないかと仰るTさんはトラクターに乗って田んぼに出かけて行った。

(H22. 4.26 EOS40D撮影)

久方ぶりのわらじや

2010年06月05日 08時30分39秒 | 食事が主な周辺をお散歩
おふくろがやってきた。

4月は誕生日やからと言って必ずやってくる。

次男も同じ誕生月。長男は転勤したので戻ってこれん。

4人セットの軽自動車はわらじやに向かった。

ここのにぎり寿司は大評判。

こんな美味い寿司はくるくるには現れない。



次から次へと注文した料理に舌鼓。

握りずし盛り合わせ980円、若鶏のから揚げ580円、出し巻き680円、蛸の造り680円、烏賊の造り680円、鯛の造り800円、シーザーサラダ580円、下足の天ぷら480円、小海老の天ぷら680円にうどん定食700円まで注文した。



どれを食べても美味すぎる。

マズイという形容詞がまったく出てこない。

穴場中の穴場だ。

それにしてもなんで定食やねんと言われそうだが食べ盛りの次男はこれでも満腹中枢を刺激しない。

一人当たりは3000円だった。

高めについたが孫やかーさんからの祝いの服をプレゼントされたおふくろは大喜びだった

(H22. 4.25 SB932SH撮影)

かっての吐山ダケノボリ

2010年06月04日 06時44分19秒 | 奈良市(旧都祁村)へ
昭和初期までは日照りが長く続くとそれぞれの大字で雨乞いの祈願が行なわれていた。

夕方から鉦や太鼓を叩き、手には松明を持って登る都祁吐山(※)のダケノボリ。

弁当を持っていったとされる雨乞いの行事。

願掛けが実って雨が降ったら雨乞踊りをする。

11月に下部神社の末社である春日神社の秋例祭で行われている吐山の太鼓踊り(※)は、雨乞いや豊年祈願の満願であって、祈願成就されたとして奉納されてきた。

その下部神社の元社は小川口に鎮座する。

かっては4月23日が元社の春祭りだった。

エビスマツリの後宴といって弁当を持ってカネヒラ山(※)にダケノボリをしていたらしい。

現在の下部神社へ遷されたことで祭礼は恵比須神社の春祭りに合祭された。

なおかつ、子どもたちや氏子らが集まりやすい29日の祭日に変った。

址地にはひっそりと佇んでいる鳥居がみられる。

数年前に下部神社の造宮がされた際に新調されたものだ。

ここでは10月9日に旧社地祭礼が行われている。

大字の人が集まるそうだ。

吐山に伝わる正月の子供の唄に「正月どん ござった どこまでござった カネヒラまでござった。」の唄があるそうだ。

カネヒラ山は吐山の岳(ダケ)。

正月さんが村のダケに降臨する。

レンゾの日にはダケノボリをしてツヅジの花を折っていた。

それを苗代の水口に立てて水口祭りをしていた。

苗をJAから購入するようになってからはひとつも見んようになったと畑仕事の男性は話される。

2月7日、小川口にある山の神の伝承地に集まっていたという。

今では誰も来ないようになったが正月に注連縄を張っているという。

以下は岩井宏寛氏の執筆による。

※太鼓踊りはもともと雨乞い祈願に踊られた雨乞い踊りであった。そのため神霊を躍動させ勇めるというところから「勇め踊り」と称した。太鼓踊りの源流は、田楽が風流化して京の町衆のあいだで踊られた風流踊りである。それが連歌と同じような道筋で都介野郷に伝わり、さらにここから国中すなわち平坦部の郷村に伝播し、そこで念仏踊りの要素と結びついて、ナモデ踊り(南無天踊り、南無阿弥陀仏踊り)と呼ばれ、雨乞い踊り、雨乞い願満踊りとして定着していったのであった。

※吐山の太鼓踊りは上村(田町、成福寺、長野は金平山へ)、下村(中南は中南岳へ、小川口は小川口岳へ、清水、大夫は清水岳へ)の垣内がダケノボリをして、のちに下部神社と恵比須神社で踊る。

(H22. 4.23 EOS40D撮影)

曽爾の桜景

2010年06月03日 07時30分25秒 | 曽爾村へ
雨の日の翌日はガスがかかる。

朝10時、サンビレッジ曽爾から曽爾高原を眺める。

そして、今井の行事を終えた。

帰宅するには時間はまだ早い。

せっかくだからと曽爾村の桜景観の状況を見て回った。

村長私邸のヤマザクラは満開だ。



朝の靄のときに撮っておけばよかったと思うがもう遅い。

曽爾の代表的な景観といえば屏風岩。

足を伸ばしてというよりも帰り道に寄ってみた。

もちろん500円の駐車料金を支払ってだ。

広くなったので停めやすい。

大字の管理人に挨拶して色彩豊かなヤマザクラを拝見。

ヤマツツジの花びらにちょうど陽が差し込んだ。



逆光に美しく映える。

今日はどこを捉えてみるか。



短時間の撮影を終えて帰ろうとしたら今井のご婦人方と出会った。

三多気も行ったし、御杖の丸山公園も行ったけど、近くにおりながらなかなかこっちへは来ないんですという。

そういえばここにおでん売りがあったよねの言葉に相づちをうつ。

たしかにここにあった。

だいぶと前のことだ。

そんなことを管理人と話していたら売れ残ることが多いのでやめたという。

余ったおでんは家の食事になったが毎日は困るんでやめたそうだ。

ご婦人は余ったからと行きしなに買ったときよりも帰りはごっそりもらって帰ったと思い出された。

(H22. 4.21 EOS40D撮影)

曽爾今井のヤマルリソウ

2010年06月02日 08時43分15秒 | 自然観察会(番外編)
今井の行事を終えて県道を歩いていた。

山側になにやらポツン、ポツンと青い花の群生が目に入った。

風景写真を撮ることよりも山野草に目線がいってしまう。

どこかで見たことあるような、記憶をたどれば・・。

たしか平成18年4月に行った奥吉野演習林での観察会で教えてもらったヤマルリソウに似ている。

指導先生に確認してもらったら間違いなくムラサキ科のヤマルリソウだという。

山地の湿った明るい木の下などでよく見られるそうだ。

確かに今井のヤマルリソウもそうだ。

今月の自然観察会で目にしたキュウリグサやハナイバナもこの仲間。

花の大きさは大きく異なるが似ている花つき。

園芸種のワスレナグサも似ているそうだ。

(H22. 4.21 EOS40D撮影)

曽爾今井の花見の宴

2010年06月01日 08時52分58秒 | 曽爾村へ
法要を終えると花見の宴。

役員の輪、当屋の組の輪の真ん中にオードブル料理や手作り煮染めのお重が並べられた。

煮染めはタケノコ、シイタケ、ニンジン、ゴボウ、コーヤドーフに卵焼きなどなど。



濃いめのお味が染みこんだ煮染め料理は故郷の味。

ビールの肴に最適だといながら、お下がりのお神酒でいただく。

天候も良くなってポカポカ陽気。

古樹のヤマザクラが青空に美しく映える。



岳さんはマツタケ山だけど急な斜面に生えているそうだ。

特別な職業師でないと危険な場所。

裏から行ってトメヤマへ。

売れんようなちっちゃなマツタケをくれるのだと笑う。

岳さんは兜岳。

正面から見れば兜の姿に見える。

その横は鎧岳。

曽爾の山々は荘厳な姿を見せてくれる。

宴は小学校が終わるころまで開いている。

まだまだ村人は来ない。

せっかくだからと緑の寄金で整備した公園でワラビ採り。



斜面の向こうは日当たりが良過ぎているのかひとつも見つからない。

半日陰になる場所に群生している。

手にはワラビの束が太くなってきた。

そのころにやってきた。



お地蔵さんに手を合わせて参拝する。

残りものやけどと煮染めをいただいて御供さんのモチ撒きに転じた。

宴会同様に桜の下で繰り広げられるモチの争奪戦。

小さ目のモチは棒モチ。

それを適度な大きさに切ったモチ。

搗いてからさまして固くなってから切る。

これをネコにするという。

大きなモチはカケモチ。

中には50円や100円が入っているので熱中する。



子どもに戻った気持ちになるわと村の春の宴は幕を閉じた。

(H22. 4.21 EOS40D撮影)