マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

オリジンののり弁当

2012年12月11日 09時31分45秒 | あれこれテイクアウト
不味くはないが美味しくいただけるオリジンののり弁当は290円。

ご飯に掛ける醤油が付いている。

ノリは2枚あるがそれほどでもない。

チクワの天ぷらは細めだ。

魚のフライは他店ののり弁当を同じように思えた。



ご飯の量に適合としている思っているのでしょうか、具の割合から云えば少々少なめのような気がするオリジンののり弁当。

大和郡山のイオン店一階の一角にある。

品数は豊富なほうのように見える見本の品々に札がある。

「10月2日 日テレバラエティ情報番組で評判」になったという印だ。

のり弁当以外にも数種類ある。

大和郡山店のオリジンは創作弁当や総菜を売る店。

食べてみたいが買う気が起らないのは何故だろう。

(H24.10. 7 SB932SH撮影)

椎木町杵築神社当屋神迎え

2012年12月10日 07時37分13秒 | 大和郡山市へ
「今月今日 御神燈」の行燈を屋外に掲げている椎木町。

椎木町は東と西に集落がある。

それぞれに氏神さんを祀っている。

参籠所に幕を張って一の鳥居には提灯を高く掲げたこの日は杵築神社の祭礼。

氏神祭の宵宮は当屋家に神さんを迎える儀式である。

東西の集落にはそれぞれに十人衆と呼ばれる宮座中があり、年中行事を勤めている。

十人衆は終身制である。

氏神祭には境内寺になる光堂寺がある。

安置されているのが本尊薬師瑠璃光如来であることから薬師堂とも呼ばれている。

そこには「薬師如来」と書かれた提灯を掲げる。

牛頭天王社の神宮寺であると、地元住民が編集された『椎木の歴史と民俗』に記されているお寺だ。

牛頭天王社は現在の杵築神社。

明治政府の命令によって神社名を替えたのである。

提灯はそれだけではなく地蔵尊にも掲げられて「地蔵大菩薩」とある。

行燈、提灯を掲げて村の行事を知らせている。

神迎えの始めは白いマスクをつけた神主によって神遷しされる。

一人静かに祝詞を奏上して遷された。

神さんは真新しいヤカタに納められて当家へと向かう。

和服姿の座中が先頭に立つ。

十人衆の一番若い者が勤める。

サカキの葉を水に浸けては左右に振ってお渡りをする。

神さんが通る道を清めるツユハライ役である。



大事そうにヤカタを手に持つのは神さんとも呼ばれている一老であるが、この年は三老が勤めた。

神主と同じように白いマスクを付けて白装束のソウ(素襖)を着る。

3人は神社より少し離れた当家の家に向かってお渡りをする。

門屋を潜って入れば玄関先に組み立て式のオカリヤがある。

「仮宮」と呼ばれるお旅所である。

その内部に納めた分霊遷しまし。

アニトーヤとオトウトトーヤが見守る中で祭典が行われる。

アニトーヤは神迎えの当主でオトウトトーヤはアニトーヤのサポート役だという。

神遷しの祝詞を奏上される神主。



その姿を一目見ようと三老の親族は手を合わせる。

宵宮の神迎えはかつて八日座と呼ばれていた。

平成3年10月に発刊された村の歴史を纏めた『椎木の歴史と民俗』にそのことが記されている。

当時も仮宮は屋形だった。



文中ではその昔の仮宮が記されていた。

元来はススキを並べて竹で押さえた壁を三方に廻らした三尺四方だったそうだ。

前後に根付きの芝を置いて手前にコモを敷く。

神迎えをしたあとにはゴクツキをしていた。

御供のモチは五石。

十人衆や若十人衆が手伝って賑やかに搗いていたとある。

1/3程度のモチを残した。

その最後のモチ搗きには天井まで放り投げた。

天井にモチが着けば縁起が良いとされたようだ。

神迎えを終えれば昼に座をもてなす。

それが八日座のことなのであろう。

現在は神迎え、座、宵宮とも同一日に行われている。

(H24.10. 7 EOS40D撮影)

南六条杵築神社の夜宮

2012年12月09日 09時33分19秒 | 天理市へ
天理市の南六条は南と北の地区に分かれている。

南は元六条で北が元柳生と呼ばれる古来の地名がある。

南の地区には牛頭天王を祀る杵築神社があり、北は三十八(みそや)神社。

南方と北方とも呼ばれているそれぞれの地区の氏神さんである。

北方にある三十八神社の祭礼は度々訪問したことがある。

祭りに先だって行われた頭家渡しは平成20年の9月。

翌月の10月初めには棒標浚えがあった。

石上(いそのかみ)神宮の郷社になる北方。

石上神宮の神官によって神事された榊を布留の境界を示すサカキ立てと呼ぶ行事である。

数週間後に行われた宵宮に拝見した太鼓台は南方の杵築神社からやってきた。

ドン、ドンと打ち鳴らしながら南方の青年会が担いできた太鼓台だった。

後方には子供会が曳行する子ども御輿も巡行していた。

南六条の祭りは南方と北方で行われる共同行事であった。

この日に行われた杵築神社の夜宮(宵宮)は神事を終えたころに雨が降りだした。

太鼓台が繰りだす時間は本降り。

19時、止むやもしれないと雲の動きを確かめて決断されて出発した。

それを見届けた頭屋は4人。

一番から四番(一老から四老とも)からなる頭屋の人たちだ。

9月の17日には桃尾の滝に出かけて禊ぎに足洗いをしてきたという。

かつては西方の龍田川であった。

川は汚れてぬるぬるだったと話す。

ミナライとされる次年度の頭屋も4人。

揃って龍田川で足洗いをしていたのは20年以上も前のことだと話す。

8人の頭屋たちは拝殿で会食を済ませる。

その間にも参拝される氏子たち。

訪れる度に頭屋の一人がお祓いをする。

こうして参拝者を待つ場には茹でたエダマメがある。

なんでも丹波から取り寄せた丹波の黒豆。

ほっこりして美味しい。

その様相は南方の三十八神社も同様であったが、こちらは参拝者に一束ずつ手渡される。

「エダマメたばり」という名で呼んでいたことを思い出した。

宵宮は長時間。

辻に立てた提灯の火も消えるころ。

「そろそろ消えるころだ」と云って数人の頭屋は手分けしてローソクの交換にでかける。

太鼓台が出発してから2時間経過した。

遠くからヨイヨイヨイの掛け声に合わせて「そりゃよっとどっこせっ」や「そりゃよっとまかっせ」が聞こえてきた。



北方の住民が話すかつての太鼓台。

女性着物に長い襷帯の装束に白粉のおしろいを塗ってあっちこっち練っていたと話していたが今はそうでもない。

三十八神社で小休止されて戻ってきた時間は21時。

集落の家筋に入ってはヨイヨイヨイ。

「そりゃよっとどっこせっ」や「そりゃよっとまかっせ」の掛け声が集落に響き渡る。

あっちの筋、こっちの筋に入ってはヨイヨイヨイ。

なかなか鳥居を潜らない。

今度こそ入るだろうと思っていてもまたもや戻る。

これを繰り返しながらようやく宮入りした太鼓台。

境内に入ってもまた戻るお練りの繰り返しだ。

4年前には気がつかなかった御輿の灯り。

流行りのLED電飾が美しく飾る。

拝殿前になれば「倒せ、倒せ」の連呼。



雨が降る中、こうしてようやく落ち着いた。

そうして始まった子供の相撲。

境内に丸く線で描いた土俵。

そこに力士が登場する。

小学生までの子どもたちだ。

南方の戸数は62軒。

これほどの子どもたちが集まってくるとは思ってもみなかった。

「ひがぁーしー ○○くん にぃーしー ○○くん」と名前を呼び出す行司の手には手作りの軍配。

「六条健児」と書かれている。

「みあって みあってー はっけい のこった」と声を掛けるのはミナライ頭屋の一老。



次々と勝負結果を采幣する。

勝った子どもは駄賃を貰う。

頭屋の一老から笑顔で受け取るオヒネリ。

勝負の印しである。



年長者から年少へと力士が登場する南六条の子供相撲に拍手喝さいで盛りあがる。

こうして終えた宵宮の夜。

明日は祭りで次の次の頭屋が決められる。

つまり次に担うミナライ頭屋である。

伊勢代参が持ち帰ったお札でフリアゲをするのは拝殿。

神主が立ちあって見守る中で行われる。

フリアゲの名称がある頭屋を決めるクジは丸めた紙片。

何人かの名を記された紙片にそろりそろりとお伊勢さんの札を降ろす。

そうすれば一つが上がってくる。

神意によって導かれたクジが上がってくるのだ。

そうして4人のミナライ頭屋を次々と決める。

頭屋たちはそう話していた式典は「鍵渡しの儀式」とも云われている。

かつて南六条は8軒で営む座があった。

明治33年の盟約書では宮本座と呼んでいたが、新町を含めた村(座)行事として再出発した昭和60年には新頭屋組織へ移された。

かつての座は宮本座と呼ぶ。

現在は新頭屋組織で行われている杵築神社の祭礼。

そのほとんどの年中行事を新頭屋組織で行われている。

ほとんどというのは年中行事の中でも1月の御田式(ごーさん札を奉る)と9月の二十八日座だけは旧頭屋の行事として残された。

それを営むのは新頭屋ではなく、8軒の旧頭屋家である。

一軒の旧頭屋を訪れた平成20年6月。

史料の一部を拝見した。

兄頭屋と弟頭屋で一年間も杵築神社の分霊を祀る旧頭屋。

記録されたお渡り写真を拝見する。

日の丸御幣を持つ白装束のトーヤと根付き稲を担ぐ頭屋衆が写っていた。



その旧頭屋には今でも2枚の神田(じんでん)で耕作していると新頭屋の一人が話していた。

翌日の祭りにモチスマシがあると云っていた。

コモもあるというモチスマシ。

4年前に聞いた話ではすまし汁の椀に入れた一合モチをよばれると話していた。

「ボウトウノモチ」と呼ばれる儀式だと旧頭屋が云っていたのはこれのことなのだろうか。

また、節句には竹を割ったチンマキがあるという。

モチゴメと粳米を粉にして蒸す。

それを竹に入れるのだろうか。

5月5日の端午の節句には訪れたいものだ。

新頭屋の話はさらに続く。

南六条には2組の伊勢講と4組の庚申講があるという。

講中の寄合は2カ月に一度だそうだ。

その伊勢講の8人が施主となって寄進奉納された神社の幕があるから存在は確かなものである。

(H24.10. 6 EOS40D撮影)

新庄町鉾立神社祭り宵宮

2012年12月08日 07時54分57秒 | 大和郡山市へ
集落戸数が8軒の新庄町鉾立。

大和郡山市内ではあるが隣村が天理市の上総町寄り。

古代の街道でいえば中ツ道と業平道が交差する地区にある。

鉾立に鎮座する神社はその名も地名を冠にした鉾立神社だ。

かつては太い街道のホコノモリにあったと云う。

その街道が中ツ道。

南へ100mほど下った処だそうだ。

東側には鉾立池がある。

その辺りに元社を示す文久三年(1863)建之の石碑が今でもあると話す今年の当屋にあたったのはI氏。

二反の神田(ジンデン)があったと話す。

当屋の回りは早い。

8年ごとに回ってくる。

「年老いた人ばかりが住んでますんや」と云う。

この日は宵宮。

当屋家を出発した紋付きの和服姿の男性たち8人は御幣持ちを先頭にお渡りしてきた。

先日にM氏からお聞きした時間よりも早めて出発した一行は鳥居を潜って本殿前に並ぶ。

一歩前に出たのが当屋。

I氏の息子さんである。

親父さんは当屋を委ねて息子に裏方につく。

鉾立神社は三社ある。

春日神社と熊野神社も祀っている。

それぞれの神さんの前に立って御幣を左右に振る。

いわゆる奉幣振りの作法なのであろう。

神さんに供えたのは紅白の水引紐で締めた巻き昆布、スルメ、ホウレンソウ、コーヤドーフ(祭りにはタイ、マツタケも)などである。

参ったあとは参籠所で当屋が接待する会食をよばれる男性たち。

御供を下げてお酒をと共に飲食をする。

昆布は大まかに切って直会で食べる。

かつては畑で作ったアゼマメを参拝者に食べて貰っていたそうだ。

マツリの日にはモチを搗いていた。

モチはアンコロモチにして親戚筋に配っていたと話す。

今ではパック詰め料理で会食する宵宮の籠り。

陽が落ちる頃には鳥居に掲げた提灯に火を灯す。



その頃には村の人たちがやってきた。

予めに掲げていた各家の提灯に火を灯す。

提灯は御神燈。

それぞれの家の家紋がみられる。

当主の名もあるから我が家の提灯。

それを確認してローソクに火を灯す。

丸に立ちオモダカ(沢瀉)紋、丸に梅鉢紋、丸に三つ割りかたばみ(片喰)紋、丸に剣かたばみ(片喰)紋、丸に四方剣かたばみ(片喰)紋などがみられた提灯灯し。



立ち話を済ませて村へ戻っていくが宵宮の籠りは以降も続く。

I氏が話す鉾立の行事。

8軒の祭りの営みは今月1日がツイタチ座。

おそらく朔座をいうのであろう。

明日は秋祭りでお渡りに孫が担ぐ稲担ぎ。

前当屋にアト当屋も参列するお渡りに扇を三つ括った日の丸御幣は当屋が持つ。

御幣には青と白色の2枚重ねの幣だそうだ。

その話を聞いて思い出した。

新庄町の本村に鎮座する素盞嗚神社。

そこでも御幣を持つお渡りがある。

トーヤ(当舎)が持つ御幣と同じであった紺と白の混色であった。

衣装は烏帽子を被ってソウを着る。

氏子たちは和服姿だそうだ。

祭りを済ませば次の当屋が受ける当屋受けもある。

宵宮に先だってM氏が話していた大晦日の行事。

I氏も同じようなことを話す。

それは特に砂撒きとは云っていない。

神さんが通る砂の道だと話していた。

鉾立神社の東側には地蔵寺がある。

真言のお寺であるが無住寺。

檀家をもつ寺ではないが、7月23日には鉾立の住民が清掃をしている。

その日に行われる地蔵会式があるからだという。

そこで会式を勤めるのは小林町の新福寺住職。

法要をするそうだ。

後日に伺ったお寺。

その通りだと話していた。

大日講もあるという地蔵寺。

毎月15日がお勤めの日。

おばはん講と呼ばれる婦人たちが寄りあう。

都合でその日の前後になるらしい。

昼食を食べてから集まる講はキリコ餅も供えていたようだ。

(H24.10. 6 EOS40D撮影)

小林町マツリのゴクツキ

2012年12月07日 08時21分11秒 | 大和郡山市へ
マツリの前にはゴクツキをするという小林町の住民。

かつてはトーヤ(当屋)の家で行われていたゴクツキは平成17年に公民館(土地改良区事務所)が完成してからはそこになった。

竹を立てて注連縄を張った公民館の屋内には神さんを祀っている。

屋形を設えた仮宮には砂を盛って幣を付けたサカキが2本。

左座と右座、それぞれのトーヤを示す分霊神さんはこの日の朝に両一老が挿したそうだ。

かつては左座、右座それぞれのトーヤ家で祀っていたが公民館に移ったことで一つにした。

マツタケ、クリ、ナシなどをお供えする。

この日に集まってきた村の男性たち。

ゴクツキ前に寄り合いがあった。

来年は杵築神社の造営の年。

議論が長引いている。

それを終えて玄関先に集まった。

大きな石臼を設営して始まったマツリのゴクツキ。

千本杵で餅を搗く。

石臼は公民館ができてからそれで搗いている。

それ以前にトーヤを勤めたHさんの話しによればもっと小さかったようだ。

両座で搗いていたからそれでよかった。

今では一度に搗くから大きな臼。

知り合いから貰ってきた臼だという。

羽根釜で蒸した餅米は三升。

実際は三升半ぐらいの量だという。

左座、右座の餅を一挙に搗くからひと臼だ。

以前は座それぞれに一臼ずつ搗いて分けていた。

千本杵はヒノキの木。

10本あるから搗く人は10人。

かつては伊勢音頭を唄いながら搗いていたそうだ。

唄がなければ意気が合わない。

なんとかしてほしいと尼講の婦人たちが願って持ち込まれたカセットテープ。

当時に唄われていた伊勢音頭を収録したという。

「~はぁ なんじゃいな おもしろや」が聞こえてきた唄はどうやらイシツキ唄のようである。

「・・・はぁ 終わりじゃ 終わりじゃ」も聞こえてきた唄は99歳のときのN氏の唄声だ。



サカキの葉を銜えて千本杵のゴクツキは呼吸もあってきて後半は「ほれ よいしょ よいしょ」の掛け声も揃って4分間半で搗き終えた。

かつては龍田川に出かけて川の小石を拾ってきた。

それをお風呂に入れて浸かったモチツキ人。

禊をしてからゴクツキをしていたという。

出来あがったモチは手でこねる。

出来立てほやほやのモチは熱い。

こねるのもたいへんやと話しながら作っていくのは長老らとトーヤ。



大きなカガミモチと10個のコモチにした。

モチはそれだけではなかった。

細長い杉のヘギ板は短冊のような形。

それに小さなモチをくっつける。

一枚に6個だ。

12枚作られたモチは「ジュウニカグラ」と呼ぶ。



12枚あるから「ジュウニ」は判るが「カグラ」と呼ぶ意味は判らない。

この「ジュウニカグラ」は翌日の宵宮で座の作法に使われる。

右座から左座へ一枚。

次に左座から右座へと移される「ジュウニカグラ」のモチ。

それぞれ6枚を交換する座の作法であるという。

カガミモチやコモチは宵宮の本殿に供える。

なお、コモチは祭典を終えたあとに宮司、巫女、両座の一老、二老、三老と新福寺に渡される。

(H24.10. 6 EOS40D撮影)

再訪のふくちぁんラーメン

2012年12月06日 06時42分52秒 | 食事が主な周辺をお散歩
息子がらーめんを食べたいと云ったのか、それともかーさんなのか知らないが、らーめんを食べたいと急に云いだした二人。

それならばと向った先は神殿(こどの)の「ふくちぁんラーメン」。

ほぼ2カ月ぶりだ。

先だっても立ち寄ったラーメン店では9日の日にギョウーザが安くなる。

それを知ってからは9日のつく日が待ち遠しい。

食べたいと思ったら実行する。

買出しに行った「ふくちぁんラーメン」にはギョーザお持ち帰り500円の看板があがっている。

冷凍餃子、冷凍野菜餃子の2種類。

いずれの商品でも5人前25個で500円だ。

銀袋パッッケージに入れてくれて手渡された通常の餃子。



数日後には胃袋に入った。

家族揃って美味しいというふくちぁんラーメンの餃子。

王将の餃子とは一味違うがいける口。

今度は野菜餃子を試してみたいと思っていた頃である。

思わずラーメンが食べられるといそいそやってきたお店。

前回同様にふくちぁんラーメンを頼んだかーさんはしょうゆ味を注文した。

私はとんこつラーメンだ。



息子は迷いに迷ってしょうゆラーメン。

3杯のラーメンができあがるまでは少々時間がかかる。

そんなときはお店自慢の『無料食べ放題のキムチバー』。

今回はキムチとマカロニサラダを小皿に盛った。



いずれも美味しい。

息子もパクパクキムチ。

そうしてテーブルに来た3杯のラーメン。

とんこつもしょうゆラーメンとも600円。



お手軽価格のラーメンに舌鼓。

麺は細めで喉越しがいい。

スープにコクがある。

つるつるっとあっという間に器は空っぽ。

ところが息子はスープを残している。

味見すれば濃い。

醤油っぽさは独特かも・・・。

息子が云うには好みでないという。

それはスープでなくラーメンそのもの。

どちらかといえばうどん派なのである。

(H24. 9.29 SB932SH撮影)
(H24.10. 6 SB932SH撮影)

秋になってもゴーヤ

2012年12月05日 06時45分45秒 | 我が家の花
夏にゴーヤを食べる。

季節感ある野菜はプランターで作っている。

9月になればできても小さい。

短くてこ太りのゴーヤばかりだ。

もう終わりだと思っていて放置していた。

それが末ともなれば様相が変わってきた。

実りが良いのだ。

復活して普段の長さに戻ったゴーヤはまたまた増え続ける。

毎日が大きくなっていって10月。

いつまで実りが続くのだろうと思ってその後も観察した。

半ばの時期であって収穫できたゴーヤ。

食べても、食べても実る。

さすがに10月も末になれば大きくならない。

(H24.10. 6 SB932SH撮影)

鉾立の行事

2012年12月04日 08時34分12秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市新庄町の東外れに鉾立の地がある。

鉾立は8戸からなる旧村。

かつては7戸であったが、新庄の本村から1戸が移転されて8戸となった。

行政区域の中では鉾立の地名は存在しない。

そこは出垣内と呼ばれている。

鉾立の地に鎮座するのは鉾立神社。

まさに鉾立の氏神さんである。

ここは春日神社と熊野神社を祀る三社。

朱塗りの社を塗り替える時期がくれば相当な費用がかかるという。

同神社で行われる秋祭りは10月の9日、10日であった。

10日は体育の日

祭礼に相応しい祭日であったが、ハッピーマンデーが執行されたことで祭りの日を替えた。

毎年交替する神社祭祀役目を担うのは一戸のトーヤ(当屋)家。

回りは8年おきにやってくる。

当屋を勤めるのは当屋家の当主。

年老いて勤めることができない場合は息子が勤める。

普段の生活には若者が見られないが一年交替の宮守勤めをするという。

祭りの日には氏子たちが和装で当屋の家に出向く。

かつては紋付の羽織袴姿だったようだ。

今では簡略化されて紋付羽織を着るだけだと話す。

朝の8時に出向い行く当屋家。

当屋は神職のような姿になるというからおそらくは狩衣姿であろう。

履物は下駄というからカロンコロンと音がすると思われる。

10時になれば鉾立神社を目指してお渡りをする。

筒井の二宮宮司を先頭に当屋、氏子、親族らが行列をするようだ。

当屋は穂付きの稲を二荷担ぐ。

竹にハサガケするような形だそうだ。

そこには水引で括りつけた竹製のとっくり酒もぶら下げて行列する。

数年前に聞いた話では神社鳥居前でワーイと発声するようだ。

前日の宵宮は特別な祭典は見られないが、拝殿に家紋がある提灯を掲げる。

その位置には金具があった。

日が暮れるころにローソクを灯して村人を待つ。

また、鳥居などにも提灯を掲げるというから、それは御神燈であろう。

和装姿の氏子8人は社務所で会食をする。

そのような神社であるが、大晦日には砂を撒くと話す。

当屋の都合のいい時間帯に撒く砂は神さんが通る道

数少なくなった氏神迎えの砂撒きが現存していたのであった。

集落から神社へ続く道に一本の砂を撒いていく。

その道は拝殿前で直角にする。

拝殿の前まで撒く道標である。

神社の注連縄は一本の細い注連縄。

シデを括り付ける。

ところが集落では葉付きの竹に簾型の藁を下げていたという。

名はなかったとM氏が話す簾型の注連縄はかつてのことだった。

『大和の村落共同体と伝承文化』に記された宮座一覧に鉾立があった。

それには明治以前は鉾立垣内の4戸で営まれていたとある。

現在は7戸で座の首座を一老と呼ぶらしい。

(H24.10. 4 聞き取り)

臭いのが当たり前のサッポロ一番魁龍どトンコツワンタンめん

2012年12月03日 07時40分15秒 | あれこれインスタント
天理市の大型店。

イオンが経営するビッグ・エクストラだ。

ここは安くて安全でお得な買い物ができる。

この日に立ち寄ったのは家の貯蔵ラーメンが底をついたことによる。

あれやこれやのラーメンを買い足す。

棚にあった山盛りのラーメン売り場に目が云った。

お得なラーメンが売りだされている。

サッポロ一番が売りだした「魁龍どトンコツワンタンめん」だ。

蓋には店主の名がある。

福岡博多の魁龍博多本店ブログも紹介してある蓋面にはノンフライ久留米風細麺とある。

名店を再現したラーメンなのであろう。

内蓋を開ければお店の紹介があるから相当美味いんだろう。

早速調理して食べた。

調理といってもインスタントラーメンお湯を注ぐだけだ。

具やスープタレが小袋にある。

タレは後入れとあった。

具を入れて3分待った。

2袋あるうちのひと袋のタレを降り注いだ。

なんかおかしい香りがする。

臭いのだ。

なんだろうと思いながらもうひと袋のタレも入れた。

湯から香ってくる重苦しい臭い。

まったく臭い。

そういうラーメンなんだろうと思って食べてはみるものの箸が進まない。

麺は細くてするする入るのだが、香ってくる臭いに圧倒される。

臭みが顔前に襲ってくる感じだ。

吉本新喜劇でいえば「クッサァー」であるが遥かに凌駕する臭い。

これってほんまにラーメンなのか。

出汁も飲んでみた。

味は久留米ラーメンに近い。

出汁は問題ないと思うが臭さにはまいった。

白さがまったく見られないワンタンの味は判らないし無理やり食べた。

チャーシューも入っているらしいがこれも味はわけわからん。

強烈な臭味には耐えられん。

これが「クセの獣臭」と云われても食べられないものは仕方がない。

2個も買ったがどうしよう。

返品したいが保管庫に眠ったままだ。

(H24. 9.30 SB932SH撮影)

私がとらえた大和の民俗(2)玄関ホール写真展

2012年12月02日 09時43分27秒 | しゃしん(県立民俗博物館展示編)
展示場所 奈良県大和郡山市矢田町545 奈良県立民俗博物館 玄関ホール (入場200円)
開館時間 9時~17時 (入館は16時半まで)
展示日程 平成24年10月6日(土)~平成24年12月2日(日)(終了しました)
特別講演 平成24年10月7日(日)
 <出品写真家の語る写真家トーク 「祭りの写真を撮る」 13時半より>(終了しました)
        第一幕 自己紹介を兼ねて私の祭りの撮り方を解説
        第二幕 祭りのここを撮りたい写真家トーク



※ 展示会場で写真家による写真解説日があります。いずれも13時半からです。
   10月13日(土)  森川光章氏  (終了しました)
   10月20日(土)  野本暉房氏  (終了しました)
   10月27日(土)  植田真司氏  (終了しました)
   11月 3日(土)  森川寿美三氏 (終了しました)
   11月 4日(日)  田中眞人氏  (終了しました)
   11月10日(土)  脇坂実希氏  (終了しました)
   11月11日(日)  松本純一氏  (終了しました)
   11月17日(土)  志岐利恵子氏 (終了しました)
   11月24日(日)  野口文男氏  (終了しました)
   12月 2日(日)  松井良浩氏  (終了しました)



ご来館お待ちしております。

なお、下記の日程においても引き続き展示されます。
   平成25年 1月21日(月)~ 1月25日(金) 奈良県庁県民ホール(終了しました)

   平成25年 1月29日(火)~ 2月11日(月) 奈良県立図書情報館(終了しました)