前日からこの日も続く行事に再び訪れた木津川市山城町・平尾里屋敷の涌出宮。
午前中いっぱいかけて調える作業がある。
社務所に集まってくる人たちは与力座の人たち。
散らかっていた境内を奇麗に掃除。
作業を済ませてとんどを焚いた場で暖をとっていた。
掃除機を利用して座饗応の場になっていた居籠舎も奇麗にしていた。
いち早く参拝される人たちもいる涌出宮。
昨夜に行われた大蛇こと大松明を燃やしていたときとはうってかわって静けさを取り戻していた。
近くに流れる鳴子川上流の山から来た由来がある大蛇。
焼きはらわれてすっかり姿を消していた。
涌出宮は元禄五年(1692)に造営の三間社流造の本殿を主格に末社が並ぶ。
右手にある末社は三社造り。
右から大国主神社、市杵島神社、熊野神社があり、その向こうに稲荷神社、天神社・・・。
左手の末社は右から八幡宮、日枝神社、熱田神社の三社造りに春日神社もある。
清々しい朝いちばんに供えた御供。
籾盛りに人参、鏑大根、ピーマンなどの野菜盛りに林檎、蜜柑もあれば昆布巻きもある。
「おはようございます」、朝のご挨拶をさせてもらった中谷勝彦宮司の案内で拝見した本殿御供に前日も見たミニチュア農具がある。
マグワ(※馬鍬をマングワ或いはマンガンなどと呼ぶ地域もある)にカラスキ、スキ、クワの4品。すでに神さんにお供えしている道具だけに近寄ることはできない。
遠目で拝見した三方乗せのミニチュア農具。
ピントは合っていないが、見えたマグワのそれらしき一部でそれがわかる。
さて、社務所内で行われている作業である。
午後の行事に座饗応の儀がある。
前夜と同じように古川座をはじめ、尾崎座、歩射座の座中に与力座がもてなす儀式にだされる膳料理の調整ごとである。
座ごとに調整される膳作り。
はじめに調整されたのは古川座の平膳である。
脚のない黒色の平膳に盛る素焼きのカワラケ。
中央の皿に茹でた大豆。
個数は五つである。
角々に置いた一皿に千切りした大根と人参のカキナマス。
二皿目にゴマメ。
三皿目に酒粕と角切の大根。
平膳に箸を添えている。
皮を剥いだ樫の木を奇麗に作った一膳の箸である。
これらを調理し、ここ涌出宮に持ち込むのは古川座の一老。
受け取った与力座の人たちが膳の形に調える。
空いている角にも並べる。
素焼きのカワラケには違いないが、特別なカワラケである。
平成2年から3年11月までの期間に社務所に神楽殿の改築工事、その際に森林を含め境内整備事業をされた。
そのとき、発掘調査もされたら、なんと、南北朝時代・室町時代の素焼きのカワラケが出土した。
枚数は4、5枚。
いごもり祭の座饗応に使用している素焼きは土に還ることなく、いごもり祭の歴史を語ってくれる物的証拠。
付番されたナンバリングカワラケとなって現代に蘇り、座饗応の場に活用されている。
なお、涌出森境内一帯は、京都府文化財環境保全地区に指定されており、弥生期の居住跡に弥生式土器や石器等類が出土。
また、竪穴式住居跡も確認されたそうだ。
古老役が作るキョウメシ(京めし)がある。
小さな茶碗というか、湯のみ茶碗にうるち米で炊いたご飯を盛って、素焼きカワラケにひっくり返して盛る。
その上に皿よりもやや小さめの素焼きカワラケで蓋をする。
二枚のカワラケで挟んで作ったキョウメシ。
充てる漢字は饗飯。
つまり、午後に行われる饗応(※あえと呼ぶ)の儀に相応しい“饗飯“であろう。
奈良県内事例に多くみられる”キョウノメシ”。
略して“キヨウ”と呼ぶこともある。
できあがったキョウメシは、平膳に並べるわけでなく、別途コウジブタに並べておき、饗応の儀に出されるときに移す。
そのわけは、平膳の高さにある。
黒色の平膳の高さすれすれに4種の品はあるが、キョウメシの高さは2倍ほどにもなる。
重ねることのできない高さの関係でキョウメシは後ほどの、持ち込まれてから盛ることになる。
黒の平膳は一枚、一枚重ねて4段。
その上に膳蓋をのせる。
座の場に持ち込む量として計算された段数である。
ほぼ古川座のキョウ(饗)を調えたころに裃に着替えを始めた一人の古老役のYさん。
支度を調えて出かける七度半(ひったはん)の呼び出し遣いである。
尾崎座、歩射座の膳作りは引き続き行われるが、前もって取材をお願いしていた七度半呼び出しに同行させていただく。
(H30. 2.17 EOS40D撮影)
(H30. 2.18 EOS40D撮影)
午前中いっぱいかけて調える作業がある。
社務所に集まってくる人たちは与力座の人たち。
散らかっていた境内を奇麗に掃除。
作業を済ませてとんどを焚いた場で暖をとっていた。
掃除機を利用して座饗応の場になっていた居籠舎も奇麗にしていた。
いち早く参拝される人たちもいる涌出宮。
昨夜に行われた大蛇こと大松明を燃やしていたときとはうってかわって静けさを取り戻していた。
近くに流れる鳴子川上流の山から来た由来がある大蛇。
焼きはらわれてすっかり姿を消していた。
涌出宮は元禄五年(1692)に造営の三間社流造の本殿を主格に末社が並ぶ。
右手にある末社は三社造り。
右から大国主神社、市杵島神社、熊野神社があり、その向こうに稲荷神社、天神社・・・。
左手の末社は右から八幡宮、日枝神社、熱田神社の三社造りに春日神社もある。
清々しい朝いちばんに供えた御供。
籾盛りに人参、鏑大根、ピーマンなどの野菜盛りに林檎、蜜柑もあれば昆布巻きもある。
「おはようございます」、朝のご挨拶をさせてもらった中谷勝彦宮司の案内で拝見した本殿御供に前日も見たミニチュア農具がある。
マグワ(※馬鍬をマングワ或いはマンガンなどと呼ぶ地域もある)にカラスキ、スキ、クワの4品。すでに神さんにお供えしている道具だけに近寄ることはできない。
遠目で拝見した三方乗せのミニチュア農具。
ピントは合っていないが、見えたマグワのそれらしき一部でそれがわかる。
さて、社務所内で行われている作業である。
午後の行事に座饗応の儀がある。
前夜と同じように古川座をはじめ、尾崎座、歩射座の座中に与力座がもてなす儀式にだされる膳料理の調整ごとである。
座ごとに調整される膳作り。
はじめに調整されたのは古川座の平膳である。
脚のない黒色の平膳に盛る素焼きのカワラケ。
中央の皿に茹でた大豆。
個数は五つである。
角々に置いた一皿に千切りした大根と人参のカキナマス。
二皿目にゴマメ。
三皿目に酒粕と角切の大根。
平膳に箸を添えている。
皮を剥いだ樫の木を奇麗に作った一膳の箸である。
これらを調理し、ここ涌出宮に持ち込むのは古川座の一老。
受け取った与力座の人たちが膳の形に調える。
空いている角にも並べる。
素焼きのカワラケには違いないが、特別なカワラケである。
平成2年から3年11月までの期間に社務所に神楽殿の改築工事、その際に森林を含め境内整備事業をされた。
そのとき、発掘調査もされたら、なんと、南北朝時代・室町時代の素焼きのカワラケが出土した。
枚数は4、5枚。
いごもり祭の座饗応に使用している素焼きは土に還ることなく、いごもり祭の歴史を語ってくれる物的証拠。
付番されたナンバリングカワラケとなって現代に蘇り、座饗応の場に活用されている。
なお、涌出森境内一帯は、京都府文化財環境保全地区に指定されており、弥生期の居住跡に弥生式土器や石器等類が出土。
また、竪穴式住居跡も確認されたそうだ。
古老役が作るキョウメシ(京めし)がある。
小さな茶碗というか、湯のみ茶碗にうるち米で炊いたご飯を盛って、素焼きカワラケにひっくり返して盛る。
その上に皿よりもやや小さめの素焼きカワラケで蓋をする。
二枚のカワラケで挟んで作ったキョウメシ。
充てる漢字は饗飯。
つまり、午後に行われる饗応(※あえと呼ぶ)の儀に相応しい“饗飯“であろう。
奈良県内事例に多くみられる”キョウノメシ”。
略して“キヨウ”と呼ぶこともある。
できあがったキョウメシは、平膳に並べるわけでなく、別途コウジブタに並べておき、饗応の儀に出されるときに移す。
そのわけは、平膳の高さにある。
黒色の平膳の高さすれすれに4種の品はあるが、キョウメシの高さは2倍ほどにもなる。
重ねることのできない高さの関係でキョウメシは後ほどの、持ち込まれてから盛ることになる。
黒の平膳は一枚、一枚重ねて4段。
その上に膳蓋をのせる。
座の場に持ち込む量として計算された段数である。
ほぼ古川座のキョウ(饗)を調えたころに裃に着替えを始めた一人の古老役のYさん。
支度を調えて出かける七度半(ひったはん)の呼び出し遣いである。
尾崎座、歩射座の膳作りは引き続き行われるが、前もって取材をお願いしていた七度半呼び出しに同行させていただく。
(H30. 2.17 EOS40D撮影)
(H30. 2.18 EOS40D撮影)