二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

夢の盃(ポエムNO.2-58)

2015年05月31日 | 俳句・短歌・詩集
大いなる喪失に耐える。腰痛、歯痛に耐えるように、しばらくはしゃがみこんで。それから歩き出す。わたしは古代カルタゴの戦士だったことがあるようだ。いや・・・たしかに戦士であった。それからローマがやってきて、血が流れ、多くの血が流れ、大地を染めて。真紅の薔薇を眺めていると、そこに前世のぼくが映り、戦友たちのさんざめきが聞こえる。

あるときは古代カルタゴの戦士、またあるときは、インドのマハラジャ・・・ラジャスターン州の大金持ちであった。平家の殿上人であったし、アンデスの、眼には見えない銀色の鷲であった。履きつぶされた古靴であったこともあるし、喧嘩が弱い野良犬だったこともある。たしかな記録がないから、実証するのはむずかしいが。

一滴の水が大地をうがつ。
数千年かかって。

何者かの夢が、一滴二滴のしずく・・・しずくとなって、ぼくの眠りの奥にしたたる。したたっている、音がする。ぼくは昨夜、そのしずくの下から歩き出して、ここまでやってきたが・・・。ああ、ナポリの空に凍りついた花火、華やかな冷たい花火に見とれた冬をすぎ、ドストエフスキーの友人であった時代をなつかしみ、十九世紀パリの夕映えを眺め。

ちっぽけな種だらけのスイカ横町をまわって、
稲妻が切り裂く闇の中で黒い馬のいななきを聞きながら、
人っ子ひとりいないキリコの十字路をすぎ、すぎる。
タチアオイの花、金雀枝の葉が美しい
歴史の路地の十字路を。

前世でぼくは死体となってその路地にころがっていたことがあった。ややや、だれだ大切な記憶を蹂躙するやつは! そのあとにやってきた深いふかい眠りをすぎ、ランボーの真昼をすぎた、すぎた。夢の盃。そしていま、毒杯のように現世の些事を呑み干している。血の色をしたぶどう酒が足許にこぼれる。

自分を憐れんで何になる? 何に。
ひび割れた盃であっても、
盃は盃。
種だらけのスイカ横町で男の子女の子がはしゃいでいる。
かつてはぼくもその子どもの一人だった。
一滴の水がある日爆弾のように落ちてきて、
記憶の球体をこなごなに砕き、砕き、
ぼくはいま、見知らぬ十字路にふたたび立って蒼穹を見あげている盃である。

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