詩は書いているけれど、わたしにわたし固有の詩論の持ち合わせはない。
詩は汗やあくびのように、日常生活をいとなんでいる精神(もしそういうものがあったとしたら)の中から「生まれてくるもの」である。
しかしいつも、いつもそういってすましているのではなく、捕えがたいものを捕えようとたまには努力してみようかという気分になってきた。
そういう気分になったのは、小林秀雄の「表現について」(新潮文庫「Xへの手紙・私小説論」所収)を読んだからである。
わたしはこの論文を数十年ぶりに読み返し、さまざまな・・・ほんとうにさまざまな啓示を受けた。
つぎに書くのは、そこから得られた啓示のうちの一部と考えてかまわない。
わたしの場合(あくまでわたしの場合)大部分のことばは、わたしの無意識の彼方・・・といってみたいようなところからやってくる。コミュニケーションのための言語ではないから、自分で書いたはずなのに、よくわからない、解釈がいくつも成立しうるということがよくある。
したがって、最初の「読者」はわたしなのである。「へええ、ああそう」みたいな感想が、大抵はやってくる。ときには少し考え込んだり。
ことばの選び方は、非常に直観的なものである。直観を使わなければ、遠くへはいくことができない。
わたしに限らず、人間は自分の行動のすべてを、理由づけたり、他人に説明できたりするわけではない。
「さあ、どうしてあんなことをしたのだろう」
カミュの「異邦人」では主人公ムルソーは動機なき殺人を犯す。
「なぜ殺した?」と追究され、彼は太陽のせいだ・・・と答える。
人間の意識された領域はごくわずかなものであると、わたしは考えている。大海を漂う氷山のように、心とか精神とかいわれるもののおそらくは九割は水面下に存在している。
むろんこれは、わたしはそうかんがえることを好む・・・ということであって、心理学的な客観的データに基づくものではないが・・・。
最初の読者たる「わたし」が、わたしの詩を読む。
「これはなにを表したのですか? ここはどんな意味?」
そう質問されたとしても、わたしは質問者が満足するような答えを出せそうにない。
詩はことばを「素材」として使っている。ことばはわたしであるが、わたしではない。
日本語の大海の中に浮かんでいる一艘の小舟か氷山としての「わたし」がいる。詩を書いているわたしには個人的な動機はあるはずだが、なぜこういうものが、こういう形で生まれてきたのか、人を納得させるだけの確たる根拠は示せないようにおもえる。
最近作から一つだけ例をあげる。
ポエムNO.2-56「隣りにだれか」の第二連、三連である。
《淋しさの岬 そのはるか彼方に夕陽が沈んでいくのを見ている。
隣りにいるはずの人はいつのまにか消えて
振り返るとぼくの長い影が
小説的なフィクションに寄りかかった旧い街角のほうへのびて
・・・のびて。
最果てとは「いまいる場所」のことだろうか?
ぼくは怪しむ。
ああ ああ
と声に出して 中年のへんなおじさんが独り言をいっている。
それはかつてぼくの友人だった人。
結婚歴はなく ひとりで歩いて
・・・歩いて
ここまでやってきた。
そして忍び寄る老年に直面している。》
この詩は近ごろになく率直に、詩的言語を使ってわたしの心境を詠んだものだけれど、キモになるのはつぎの二行。
《最果てとは「いまいる場所」のことだろうか?
ぼくは怪しむ。》
つまり、この二行を発見するために、わたしは多くのことばをついやしているように感じられた。
え? それってなに? なにをいいたいの・・・といわないで欲しい。文字通りの意味であって、その背後に、深遠な思想など隠れてはいない。
「表現について」の中で、小林さんは詩と詩人について多くのことを語っているが、とくにわたしのアンテナがピリリと反応したのはつぎの一節。
《詩作とは日常言語のうちに、詩的言語を定立し、組織するという極めて精緻な知的技術であり、霊感と計量とを一致させようとする恐らく完了する事のない知的努力である。》
《言葉はひたすら普通の言葉では現し難いものを現さんとしている》
「ああ、そうだな。その通りですよ小林さん。《現し難いものを現さんとして》試行錯誤を重ねている。作品はその軌跡のようなものです」
わたしのへたな詩にもし読者のような人がいたら、わたしがそうつぶやくのを耳にしただろう。
詩は汗やあくびのように、日常生活をいとなんでいる精神(もしそういうものがあったとしたら)の中から「生まれてくるもの」である。
しかしいつも、いつもそういってすましているのではなく、捕えがたいものを捕えようとたまには努力してみようかという気分になってきた。
そういう気分になったのは、小林秀雄の「表現について」(新潮文庫「Xへの手紙・私小説論」所収)を読んだからである。
わたしはこの論文を数十年ぶりに読み返し、さまざまな・・・ほんとうにさまざまな啓示を受けた。
つぎに書くのは、そこから得られた啓示のうちの一部と考えてかまわない。
わたしの場合(あくまでわたしの場合)大部分のことばは、わたしの無意識の彼方・・・といってみたいようなところからやってくる。コミュニケーションのための言語ではないから、自分で書いたはずなのに、よくわからない、解釈がいくつも成立しうるということがよくある。
したがって、最初の「読者」はわたしなのである。「へええ、ああそう」みたいな感想が、大抵はやってくる。ときには少し考え込んだり。
ことばの選び方は、非常に直観的なものである。直観を使わなければ、遠くへはいくことができない。
わたしに限らず、人間は自分の行動のすべてを、理由づけたり、他人に説明できたりするわけではない。
「さあ、どうしてあんなことをしたのだろう」
カミュの「異邦人」では主人公ムルソーは動機なき殺人を犯す。
「なぜ殺した?」と追究され、彼は太陽のせいだ・・・と答える。
人間の意識された領域はごくわずかなものであると、わたしは考えている。大海を漂う氷山のように、心とか精神とかいわれるもののおそらくは九割は水面下に存在している。
むろんこれは、わたしはそうかんがえることを好む・・・ということであって、心理学的な客観的データに基づくものではないが・・・。
最初の読者たる「わたし」が、わたしの詩を読む。
「これはなにを表したのですか? ここはどんな意味?」
そう質問されたとしても、わたしは質問者が満足するような答えを出せそうにない。
詩はことばを「素材」として使っている。ことばはわたしであるが、わたしではない。
日本語の大海の中に浮かんでいる一艘の小舟か氷山としての「わたし」がいる。詩を書いているわたしには個人的な動機はあるはずだが、なぜこういうものが、こういう形で生まれてきたのか、人を納得させるだけの確たる根拠は示せないようにおもえる。
最近作から一つだけ例をあげる。
ポエムNO.2-56「隣りにだれか」の第二連、三連である。
《淋しさの岬 そのはるか彼方に夕陽が沈んでいくのを見ている。
隣りにいるはずの人はいつのまにか消えて
振り返るとぼくの長い影が
小説的なフィクションに寄りかかった旧い街角のほうへのびて
・・・のびて。
最果てとは「いまいる場所」のことだろうか?
ぼくは怪しむ。
ああ ああ
と声に出して 中年のへんなおじさんが独り言をいっている。
それはかつてぼくの友人だった人。
結婚歴はなく ひとりで歩いて
・・・歩いて
ここまでやってきた。
そして忍び寄る老年に直面している。》
この詩は近ごろになく率直に、詩的言語を使ってわたしの心境を詠んだものだけれど、キモになるのはつぎの二行。
《最果てとは「いまいる場所」のことだろうか?
ぼくは怪しむ。》
つまり、この二行を発見するために、わたしは多くのことばをついやしているように感じられた。
え? それってなに? なにをいいたいの・・・といわないで欲しい。文字通りの意味であって、その背後に、深遠な思想など隠れてはいない。
「表現について」の中で、小林さんは詩と詩人について多くのことを語っているが、とくにわたしのアンテナがピリリと反応したのはつぎの一節。
《詩作とは日常言語のうちに、詩的言語を定立し、組織するという極めて精緻な知的技術であり、霊感と計量とを一致させようとする恐らく完了する事のない知的努力である。》
《言葉はひたすら普通の言葉では現し難いものを現さんとしている》
「ああ、そうだな。その通りですよ小林さん。《現し難いものを現さんとして》試行錯誤を重ねている。作品はその軌跡のようなものです」
わたしのへたな詩にもし読者のような人がいたら、わたしがそうつぶやくのを耳にしただろう。