二草庵摘録

本のレビューと散歩写真を中心に掲載しています。二草庵とは、わが茅屋のこと。最近は詩(ポエム)もアップしています。

事実求是(じじつきゅうぜ)って何だろう ~「清朝と近代世界 19世紀」ほか

2021年01月22日 | 歴史・民俗・人類学
事実求是とははじめて聞くことばだ。
噛み砕いていうと「事実に基づいて、物事の真実を求める」となる。
片山智行さんの「魯迅 阿Q中国の革命」を拾い読みしていたら、出てきたことば。
わたしがフィクションではなく、歴史を読みたがるのは、心の隅に、こういう衝動、あるいは欲求があるからだ・・・と思う。
事実求是・・・覚えておきたい語彙である。

さて本日はつぎの2冊のレビュー(感想)を書こう♪

■古澤誠一郎「清朝と近代世界 19世紀」シリーズ中国近現代史① 岩波新書(2010年刊)


《近代世界のなかで存亡の危機に直面しながらも、妥協と自己変革を遂げていった清朝。そこにあった苦しみや迷い、努力や挑戦とはどのようなものだったのか。なにが体制の立て直しを可能にしたのか。統治の変化、社会の動向、周辺部の状況などを含め、18世紀末から日清戦争開戦前夜までの清朝の歩みをいきいきと描く。》(Amazon BOOKデータベースより転写)

清朝の初期から説き起こしているが、中心は清朝末期の混沌たる混乱期。まるで雑炊のように、巨大国家大清帝国が、鍋でふつふつ煮られている。それを、なかなかうまく整理整頓してある。読んでいて、読者たるわたしの頭が、混乱することはない。
著者の吉澤誠一郎さんは、1968年のお生まれ、中堅にさしかかる研究者といっていいだろう。

シリーズ中国近現代史には、つぎのような献立がならんでいる。

シリーズ中国近現代史① 清朝と近代世界 19世紀 吉澤誠一郎
シリーズ中国近現代史② 近代国家への模索 1898-1925 川島 真
シリーズ中国近現代史③ 革命とナショナリズム 1925-1945 石川禎浩
シリーズ中国近現代史④ 社会主義への挑戦 1945-1971 久保 亨
シリーズ中国近現代史⑤ 開発主義の時代へ1972-2014 高原明生/高田宏子
シリーズ中国近現代史⑥ 中国近現代史をどう見るか 西村成雄

岩波=古典とアカデミズムといっていいので、すべて有名大学の教授、または準教授。まあ、そういう地位にいなければ、こんな研究をしても食べていけないだろう。
ノーベル賞にノミネートされたり、商品開発に結び付いたりする理数系の教授に比して、人文科学系は、書物にうもれてばかりで、お金にはならない研究なので、社会的にはとても地味な存在である。
しかも人口減少、少子化のあおりをうけて、就職口すら減っているようだ。
そういった逆風のなかで、吉澤先生はコツコツ成果を出しているお一人なのであろう。

アヘン戦争や「太平天国の乱」については、これほど詳しい記述にお目にかかったことは、かつてなかった。
距離をとって、公平な立場から書こうとしているため、多少まわりくどく、歯がゆい面はどうしても存在する。そこをこらえて読んでいると、時代の遠近感がはっきりしてくる。
むずかしいところを、切れ味鋭いメスではなく、やや切れ味の悪いメスで、丁寧に腑分けしてみせてくれる。

清朝末期の混沌は、近ごろ平野聡さんの「大清帝国と中華の混迷」を読んだばかりのせいか、わかりやすかった。何を書き、何を書かないか?
そういった“腑分け”の仕方が、うまいし、平野さんとはことなった角度から、照明を当てている。
また、新書のいわば“性格”を乗りこなすことにも成功していると思われた。時代のにおい、ざわめき、怒号、悲哀が十分つたわってくる。
口幅ったい表現となるが、4点と5点のあいだくらいの評価・・・といっておこう。読んでいて「時代の目撃者」になった気分が味わえた(´ω`*)



評価:☆☆☆☆




■川島 真「近代国家への模索 1894-1925」シリーズ中国近現代史② 岩波新書(2010年刊)

《日清戦争や義和団戦争に敗北した清朝は、変法・自強や光緒新政などの改革を試みながらも、求心力を失っていった。そして、辛亥革命により中華民国が誕生するも、混乱は深まっていく。列強による「瓜分の危機」の下で、「救国」の考えが溢れ出し、様々な近代国家建設の道が構想された30年を、国際関係の推移とともに描く。》(Amazon BOOKデータベースより転写)

岩波新書のシリーズ中国近現代史②「近代国家への模索」である。
百花斉放といえば聞こえはいいが、実態としてはさまざまな政治勢力が覇を競った、混沌たる時代である。
1898年といえば、明治31年、1925年といえば大正14年にあたる。本書には、このような和洋の暦に対する配慮がまったくなされていないので、日本近代史を適宜参照することができない。

ストーリー性に乏しいため、愉しく読めたといえば嘘になる。本文はあとがきをふくめ、242ページ。27年間の出来事が、ぎっしりつめ込まれている。
川島真先生は、あれもこれも気になって、トピックからトピックへと、その時代相を網羅的につらねていく。
正直なところ、あちらこちらで読者たるわたしは頭がこんぐらかって、しばしば“あともどり”しながらの読書となった(´・ω・)?
そのトピックに対しても、いろいろただしがきが付く。結果として、本筋が見えにくくなってしまった。

この時代の主役は、袁世凱と孫文・・・であるが、ほかにも夥しい数の脇役が登場する。すでに知っている名より、知らない名の方が圧倒的に多い。しかも、皆歴史に登場したと思ったら、数年で消えていく。
蒋介石、毛沢東が、その片鱗を現しているが、彼らが主役となるステージは、もう少し先に用意されている。

《いずれにしても、救国のための新たな国家像は、一つの像を結ばないままであった。このほか民主や自由、科学などといった命題も議論されたが、19世紀末から20世紀初頭のこうした多様な国家像の競演は、規模が大きく国内に多様な要素をもつ中国の歴史にとっては必要な一時期であったとみることもできるだろう。》(「おわりに」より)
《革命をめぐる言説は、正義や正当性をめぐる議論と密接にかかわった。正邪を明確にし、その正義のために暴力を用いることは肯定された。五・四運動に際して曹汝霖宅で章宗祥がどれほど学生に殴られようとも、それは「民族の裏切り者」に対する正義の行動として描かれるのである。このような正義と暴力の関係は、それ以後の中国史にも深くかかわることになる。》(「おわりに」より)

一歩後ずさって見方を変えれば、中国という国家がもっているさまざまな可能性が試された時代なのである。孫文は結局、中国の統一ができず、地方政権に終わってしまった。
川島先生は、大所高所から歴史を俯瞰する視点は採用していない。
北京、南京、広東。各地方で渦巻き、泡立つ多様性の波頭に対し、複眼的思考をもって叙述するから、“読みやすい”とは、とてもいえない。

「おわりに」や「あとがき」で、川島さんのいわば本音を推測することはできる。
一王朝としての清ではなく、日本をはじめ、欧米のナショナリズムの影響をあびて、「中国」という国家観が、この時代からあぶりだされてくる。海外から侵略をうけることで、中国は中国になったともいえる。
そのため、広大な国土の各地で、信じられないほどたくさんの人びとの血が流された。
そういった血をたっぷり吸って、やがて中華人民共和国が出現する。
しかし、それは、まだまだ先。
第3巻「革命とナショナリズム」も手許にある。
この3巻で、このシリーズ中国現代史に区切りをつけようとかんがえている。

飛ばし読みはせずに読めたのだが、いやはや、少々しんどかったぞ(ノω`*)



評価:☆☆☆☆

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