このあいだから、少し意識して、交響曲に耳をすましている。
この数日、とくにくり返し聴いたのは、以下の3曲。
1)ベートーヴェン 交響曲第6番「田園」
ワルター指揮コロンビア響はさすがに聴きあきてしまったので、BOOK OFFでみつけたオイゲン・ヨッフム指揮王立アムステルダム・コンセルトヘボウ管(1969年)。
練りあげられた楽器の各パーツの響きあいが、じつにすばらしい。十代のころから聴いているせいで、いくらか不感症になっているわたしの耳を洗うせせらぎの音になる。やっぱり「田園」はこうでなくちゃ(^_^)/~
2)ブラームス 交響曲第2番
ワルター指揮コロンビア響(1960年)
トスカニーニ指揮NBC響(1952年)
この曲を聴いていると、トスカニーニという指揮者のスケールの大きさがいくらかわかってくる。モノラール、しかも録音状態は決していいとはいえない二枚だけれど、デジタル・リマスターのおかげでまずますのクリア感。
トスカニーニといえば、つい数日前にもレスピーギの「ローマ三部作」に驚かされたばかり。
ブラームスの2番、3番はどちらも、可憐でエレガントなテイスト感がすばらしい。1番や4番のような重々しさ、荘重さがほとんどなく、さらっとしていて新鮮な果汁たっぷり、こころの曇りが拭いさられていくような爽快感がある。ブラームスの2番、3番の向こうには、ベートーヴェンではなく、たぶんモーツァルトがいる。
わたしのこの曲の“評価基準”となっているのは、ベーム指揮ウィーン・フィルの名盤(1975年)。
こちらと比較し、第4楽章の盛りあげはいま一つなのだが、こういう演奏もありだろう。ワルターらしいカンタービレに、日常生活の擦り傷を洗われていく。しかし、シューリヒトのブラ2の“高貴な香り”のまえでは、やや影がうすくなるように思うのは、わたしの先入観かしら?
3)ドボルザーク 交響曲第9番「新世界より」
ケルテス指揮ウィーン・フィル(1960年)
クーベリック指揮ベルリン・フィル(1966年)
この曲も、カラヤンの若いころの演奏で、聴きあきるほど聴いてきた。しかし、上にあげた2枚は、今年になって手に入れたもので、わたしにとってはまだ十分な鮮度がある(^^;)
ケルテスの演奏は現在でも評価のきわめて高い名盤中の名盤らしいが、ぼんやり聴いていると、わたしの場合、ケルテスか、クーベリックかわからなくなる(笑)。
聴き比べをする愉しみとはいっても、たとえば、4枚5枚のCDを聴いて、どれがだれの演奏かをいい当てるような力はわたしにはない。
http://www.geocities.jp/ohtatomoyh/3_kyoku/dvorak/1_d1009.html
たとえばここにはドボルザークの第9番、およそ20枚のCDがピックアップされているが、眼をつぶってつぎつぎと聴き、これらすべてをきちんと聴きわけられる人がどれだけいるか、半信半疑なのだけれど。
これらの交響曲には、ある種の共通項がある・・・と考えて、わたしは聴いている。
それが、多少牽強付会すれば「こころ落ち着け、自然のふところをしばしさまよう」というコンセプトになる。この3曲には、よくいわれる“癒し効果”が、たっぷりとふくまれているのだ。
ささくれだったここをいだいて家に帰ってきて、さて風呂に入って、着替えて、ゆっくりくつろごうと思っても、ON、OFFスイッチをポチッと切りかえるように、気分を切りかえることはわたしにはできない。
そのとき、こういう音楽のもたらす効果は、あなどれない。
眼をつぶってじっと耳をすますことがあるし、本を読みながらBGMとして流しておくことがある。
音楽は、部屋の空気をがらりと変えてしまうし、その場の雰囲気を、なんというか――根底的に支配してしまうところがある。
だから、そういう意味では、いまこの場で身をまかせる音楽をどれにするかは、じつに愉しい選択たりうる。
・・・このところ、秋雨前線の影響なのか、お天気がよくなくて、夕方突然驟雨があったりする。
思い出してしずくの写真をピックアップしたので、さらに2枚追加しておこう。撮影はいずれもわが家の庭や裏庭。
しずくの一つひとつが音符であり、音なのだと想像すると愉しくなってくる。