二草庵摘録

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川尻秋生「平安京遷都」シリーズ日本古代史⑤(岩波新書 2011年刊)レビュー

2019年09月04日 | 歴史・民俗・人類学
読みおえてみて、非常に雑然とした読後感。まるで、とっ散らかったおもちゃ箱をのぞき込んだようだ(^^;)
焦点となる歴史的な出来事はあまた存在する。むしろ多すぎるくらいだ。大風呂敷を拡げたものの、たたみきれなかったとでもいうように。

《醍醐・村上天皇の時代は、後に「聖代」視されるが、二人の時代も10世紀である。この影響も十分考慮する必要があるだろう。
いわば「言説としての10世紀」が記憶されたのである。》(本書221ページ)

巻末に置かれた「おわりに」の中で川尻秋生さんは、こう述べておられる。
天皇・貴族制のいわば“お手本”が、この時代にあったのだ。
西暦になおせば、700年代末からおおよそ900年代末までの300年間。

WebのBOOKデータベースではつぎのように紹介されている。
《権力争いの結果、予期せず皇位について桓武は、皇統の革新を強調すべく二度の遷都を行った。
以後長らく日本の都として栄えることとなった平安京。
その黎明期、いかなる文化が形成されたのか。天皇を中心とした統治システムの変遷や、最澄・空海による密教の興隆、また地方社会の変化にも目配りしつつ、武士誕生の時代までを描く。》(引用者が改行)

「なんでもかんでもつめ込み過ぎたかな?」という反省は、川尻さんにもあったようだ。
それについて、

《最後に平安時代史研究について、筆者の意見を述べさせていただきたい。平安時代の研究はなかなか難しいところがある。常日頃、学生と話していても、奈良時代と比べてつかみ所がないといわれることもしばしばである。
その理由は、期間が四百年と長く、一口に平安時代といっても、時期ごとの変化がきわめて大きいことである。
また史料の性質も、国家や官人が関与した記録と貴族の日記では大きく異なるし、在地に関する文書類に対しては、まったく別の読み方を要求される。
つまり、時代の変化と、史料の多様性に対応する必要があるのである。》(222ページ、引用者による改行あり)

ある意味で弁解ととれないこともないが、古代、奈良時代に対し、研究者の数も少ないそうである。
九世紀末以降、「日本三代実録」を最後に、正史がなくなってしまったこととも関連があるだろう。
個人の日記、和歌ばかりでは、拠るべき基準がないのに等しい。

第二章 唐風化への道
第三章 「幼帝」の誕生と摂政・関白の出現

わたし個人としてはこのあたりがおもしろかった(´▽`)
むろん坂上田村麻呂らによる“蝦夷征伐”(現在では征伐とは呼ばないようだが)も興味深いのだが、史料が限られてしまって、今後の研究を待っているところだという。
「『幼帝』の誕生と摂政・関白の出現」の章がなぜおもしろいかというと、天皇を頂点にいただく国家権力が、大きな曲がり角を迎えたということが、ありありと実証されるからである。

ちなみに第六章「都鄙の人々」は、
1.人々のくらし
2.地域社会と都
3.変わりゆく支配体制

・・・という構成。
都ばかりでなく、地方の民・百姓へも目配りがいきとどいている。しかし結果として、読後感は散漫になってしまったようだ。
わたし的には、摂政・関白はもっと強力な権力を行使しうる存在だとかんがえていた。しかし、そうではない。
天皇の代行として、政務に携わっただけなのだ。
最高権力は、天皇にある。したがって、天皇の“外戚”として一時的に政治権力を掌握できても、“外戚”の資格が失われればその権力も消えてしまう。この不変の権力構造の底に、重い意味が隠されている。

この時代は、武士は歴史の表面には登場していない。
将門も、純友も国家権力に刃向かう逆賊として討伐の対象になるしかなかった。
つぎの第六巻「摂関政治」、このあたりで武士階級はほんとうの力をつけてくる。
現代歴史学=日本史がそれをどのように展望してみせるのか、愉しみではある。



評価:☆☆☆

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