モーツァルトとは、何者であったのだろう?
いや、抽象的な、あるいは観念的な問いを発しても仕方ない。
そんなことをしても、わたしのような後世の凡人は、ただモーツァルトという名のスフィンクスにからかわれるだけが関の山である。
クラシック音楽は「今年の新作・新曲はこれです」というものが、残念ながら存在しない。
よく耳にすることばだけれど、1975年、ショスタコーヴィッチの死をもって、交響曲が終わってしまったように、クラシック音楽というジャンルは、若干の例外はあるにしても、創作としてはほぼその使命を終えてしまった。
それとともに、作曲から演奏の時代へと移ってゆく・・・と、どんな音楽史にも、そういう意味のことが書かれている。
したがって、このジャンルにおいては、J・S・バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンの三人が、永久に、不動の巨星ということになる。ほかの作曲家は、この偉大なる恒星をめぐる惑星であり、衛星、あるいは彗星のような存在といっていいだろう。
なぜこんなあたり前のことをいまさら書いているのかというと、昨日、二つの「クラリネット五重奏曲」が収録されたCDを買ってきて、さっきからくり返し耳をかたむけているからである。
モーツァルト「クラリネット五重奏曲イ長調K581」
ブラームス「クラリネット五重奏曲ロ短調作品115」
このあいだのDiaryでも取り上げたように、今年の夏はプリンツがウィーン室内合奏団とやったCDを、こころゆくまで聴くことができた。
それはわたしに“新しい音楽体験”を、たしかに、もたらしてくれたものであった。
ところが、この二曲の「不動の定番」といえる演奏は、レオポルト・ウラッハが1951年、ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団とやったもので、数十年にわたって、ぶっちぎりの人気を誇っていることを知るにいたって、どうしても、このドイツ・グラモフォン盤を手に入れて、聴きこんでみたくなったのである。
そして、その音楽が、いま、ラジカセから流れて、わたしの耳に達している。
白鳥の舞にもたとえられるような、純真無垢なクラリネット独奏部の、なんという美しさ!
ここにある、しんと静まり返ったような名状しがたい哀愁は、わたしの独断によれば、これらの曲が、演奏会のためというより、モーツァルト自身、ブラームス自身のために作られた曲だからだろう。
さっきググって調べていたら、つぎのような文章にぶつかったので、引用させていただこう。
《ブラームスのクラリネット五重奏曲の、あの晩秋の憂愁と諦念の趣きは実に感動的で、作者一代の傑作のひとつであるばかりでなく、十九世紀後半の室内楽の白眉に数えられるのにふさわしい。けれどもそのあとで、モーツァルトの五重奏曲を想うと、『神のようなモーツァルト』という言葉が、つい口元まで出かかってしまう。何という生き生きした動きと深い静けさとの不思議な結びつきが、ここにはあることだろう。動いているけれども静かであり、静穏のなかに無限の細やかな動きが展開されている。
一つ一つのフレーズは、まずは十八世紀のごく普通のイディオムで語られているのだが、何ともいえぬ気品があり、雅致がある。あすこ(ブラームス)には、人間の運命に対する省察と諦観があったが、ここ(モーツァルト)には自由がある。かわいそうなブラームス!》
これは先年亡くなった吉田秀和さんのことばだそうである。
「ブラームスには人間の運命に対する省察と諦観があった」というのは、その通りで、わたしの耳にも、この音楽はそういった情念の響きをつたえてくる。
なにものかに対する哀惜の音楽であり、身をよじるような悲しみの音楽である。
二人の天才によって、クラリネットという管楽器は、その限界性能を、あますところなく披瀝し、筆舌に尽くしがたい“白鳥の舞”をくり広げる。モーツァルトとブラームスの世界の中で、なにかが、すでに真冬の寒風のように吹きつけている。
いや、そういってはいけないのだろう。
ここには、この世からの退場のときを間近にひかえた人間がふっともらした微笑のようなものが、かくれているから。
ベートーヴェンのレリーフを、書斎の壁にかけていたブラームス!
古典派の遺産をこころから崇拝していた彼は、モーツァルトの「クラリネット五重奏曲」を知っていて、作品115を書いたのあろう。どちらも飛びきりの名曲だけれど、二曲をつづけて聴いていると、後者が前者に慕い寄る子白鳥に見えなくもない。
《今日のわれわれには、モーツァルトのように美しく書けなくなってしまった。われわれにできるのはただ彼が書いたのと同じくらい純粋に書くように努めることだ》(ヨハネス・ブラームス)
歴史とはひらたくいってしまえばわれわれの過去のことであるが、どんな文明・文化にも、はじまりがあり、終わりがある。
桑原武夫さんが「第二芸術論」で書いてしまったように、俳句(本来は俳諧)、あるいは短歌(和歌)はすでに終焉を迎えてしまった文化だし、写真もそうなのだろう。
俳句、俳諧が、あるいは写真が、いちばん輝いていた時代はいつだったろう・・・と考えてみると、そう考えざるをえない。
さきに引用したブラームスのことばの中のモーツァルトを、俳句でいえば、芭蕉や蕪村、写真でいえば――カルティエ=ブレッソンやロバート・フランクに置き換えてみればいい。
つまり、ブラームスの歎きは、ある意味で21世紀人としてのわれわれの歎きでもあるように思われる。
ウラッハとプリンツと・・・。
この二人は、師弟だそうである。「クラリネット五重奏曲」の演奏には、したがって、25年ほどのへだたりがある。釈迦や孔子を持ち出しては場違いかもしれないが、弟子はいつの時代においても師にはかなわないという真理が、ここでも通用しそうである(^^;)
※吉田秀和さんのことば、バッハのことばは以下のサイト<クラシック歳時記in信州松本>から引用させていただきました。ありがとうございました。
http://blogs.yahoo.co.jp/chikuma46/45609880.html