旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

篠山城跡

2015年06月17日 | 旅 歴史
 兵庫県篠山市北新町に篠山城跡があります。
 篠山城は桐ヶ城ともよばれ篠山市街地の中央にあります。慶長14年(1609)、徳川家康は、親藩の松平康重を笠間藩(茨城県笠間市)から従来からあった八上城に5万石で移封させ、八上城を廃して新たに篠山城を築城させました。
 篠山は交通の要衝で大阪城の豊臣家に対する軍事的拠点になり、豊臣恩顧の西国大名と豊臣家を分断する布石にもなりました。築城の普請奉行は姫路52万石の池田輝政、縄張りは津22万石と藤堂高虎が命ぜられました。
 助役として広島49万石福島正則、土佐20万石山内康豊をはじめ、西国の15ヶ国の外様大名が命ぜられました。8万人の労力と財力が投入され、6ヶ月という速さで慶長14年12月に篠山城はほぼ完成したそうです。
 城郭は篠山という小山を利用した平山城で東西、南北とも約400m、天守閣はありませんが、本丸の北東の高台には殿守丸を配し、さらに東西19m、南北20m、石垣高さ17mの天守台があります。本丸と二の丸には3重櫓があり天守閣のような役割を果たしています。
 二の丸には、大書院、小書院、中奥御殿、奥御殿、台所、庭園などがあり儀式や執務を行う重要な場所でした。大書院は京都二条城の御殿を模したといわれています。東西28m、南北26mと大規模で、格式の高いものでした。昭和19年(1944)の火災により焼失し、再建されています。
 元和5年(1619)、松平康重が岸和田藩に移封になり、高崎藩(群馬県高崎市)から松平信吉が入封しました。翌年、信吉は死去し、松平忠国が2代目になりました。慶安2年(1649)に忠国は明石藩に移封になり、高槻藩から松平康信が5万石で入封しました。。
 寛延元年(1748)、5代目松平信岑が亀山藩に移封になり、亀山藩から青山忠朝が5万石で入封しました。2代目青山忠高は儒学者を登用して藩校・振徳堂を建設し藩士の教育と文化発展に努めました。4代目青山忠裕、5代目青山忠良は老中の要職についています。青山家は明治維新まで6代続きました。

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