旅と歴史

全国各地の史跡を取り上げて紹介しています。

京都市右京区太秦の広隆寺です。

2006年11月10日 | 旅 歴史
 広隆寺は、真言宗の寺院です。推古天皇11年(603)建立の京都最古の寺で、「日本書紀」によれば、渡来氏族の秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から与えられた仏像を本尊にして創建したといわれています。国宝の弥勒菩薩像は国宝第1号に指定された弥勒菩薩半跏思惟像の仏像です。永遠の微笑をたたえて霊宝殿に安置されている。高さ124cm赤松の一本造りで新羅より聖徳太子へ贈られたものだそうです。
 広隆寺には、仏像だけでも国宝が17体、重要文化財が31体もあります。この寺は818年と1150年に火災にあって創建時の諸堂はことごとく失われました。それにもかかわらず、これだけ多くの仏像が残っているのです。
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京都府京都市右京区花園妙心寺町1 の妙心寺です。

2006年11月06日 | 旅 歴史
 妙心寺は正法山と号し臨済宗妙心寺派総本山です。康永元年(1342)花園天皇の離宮を禅寺に改めて創建されました。16万㎡の広大な寺域に、七堂伽藍を中心に47の塔頭寺院が立ち並んでいます。総門から一直線に山門、仏殿、法堂、寝殿、方丈、庫裏の大伽藍が並ぶ七堂伽藍です。山号は正法山(しょうぼうざん)と称します。開山は大徳寺の開山大燈国師の法嗣である関山慧玄(かんざんえげん)を招聘しました。五山の禅寺が詩文に重きをおいていましたが、五山十刹にも加えられなかった妙心寺がいわゆる林下として禅の正統を守り応燈関(大応図師・大燈国師・関山)の法系を維持しました。大師入定後も逸材傑僧輩出して、関山禅の宗風全国を風靡するにいたったのです。そして妙心寺は3世無因宗因のとき大いに繁栄しました。その後幕府に背いて応永の乱を起こした大内義弘と関係が深かったため、3代将軍義満は寺地・寺領のすべてを没収し、住職拙堂宗朴は青蓮院に幽閉、寺は青蓮院の付属となってしまいました。
 その後大内・細川・今川・織田・武田諸氏の帰依を得て堂宇の建造も進み,永正年間(1504~21)17世林宗棟(とうりんそうとう)の力で大徳寺から独立し、五大派の衰退をよそに教線をのばして臨済宗の主流となりました。
仮涅槃堂(納骨堂)
 山門東の浴室(国重文)は明暦2年(1656)に,明智光秀の叔父密宗和尚が光秀追善のため建てた通称「明智風呂」を改装したもので,蒸風呂です。妙心寺鐘は国宝で、『徒然草』にもある天下の名鐘でです。

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関ヶ原

2006年11月05日 | 旅 歴史
 関ヶ原の笹尾山の石田三成陣地跡です。今日、功名が辻で舞台になりましたのでアップしてみました。慶長5年(1600)石田三成は9月14日の午後7時頃、折から降りしきる雨の中、大垣城を出陣して関ヶ原へと向かい、南宮山の南から牧田(まきだ)を経由して翌15日午前5時頃に笹尾山に到着、本陣を据えました。三成は、北国街道を守備するため兵6千と豊臣の兵2千を笹尾山の正面に配し、竹矢来を二町(約200m強)東に二重に田の中に囲うと、竹矢来の前面に島勝猛を、中間に蒲生郷舎を置き戦いに臨みました。三成自身は、この山頂で指揮しました。この山の前面が最大の激戦地でした。竹矢来とは竹や丸太を粗く組んで作った臨時の囲いのことです。すき間が四角になったものを角矢来といい、菱形になったものを菱矢来といいます。敵の進入を防ぐのに利用したもので、三成はこの柵を二重にめぐらしました。
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京都市北区の等持院です。

2006年11月04日 | 旅 歴史
 足利尊氏は暦応2年(1341)現在の御池/柳馬場付近に等持寺を建立し夢窓疎石を迎えて開山しました。その後、等持院の別院として北等持寺をこの地に建立しました。尊氏の没後ここで葬儀を行いました。北等持寺は等持院と改名し、天竜寺末として夢窓門流相承の臨済宗天龍寺派の禅寺となりました。
以後足利歴代将軍の廟所となって毎年7月15日に将軍が参詣する足利家の菩提寺となりました。応仁の乱で本寺が焼失後はこちらの等持院が本寺となったのです。
方丈は後水尾天皇の元和2年(1616)に福島正則が妙心寺塔頭の方丈として建立した物を文政元年(1818)ここに移転再建したものです。廊下は鶯張り、襖絵は狩野興次のものです。
 文久2年(1863)尊王攘夷派の浪士が尊氏ら木像3体の首を抜き取って三条河原にさらしたという事件もありました。
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京都市北区にある金閣寺です。

2006年11月03日 | 旅 歴史
 金閣寺は鹿苑寺(ろくおんじ)と言う臨済宗の禅寺です。
 お釈迦様のお骨をまつった舎利殿(金閣)が特に有名なため、金閣寺とよばれています。この地は、鎌倉時代に西園寺公経の別荘北山第が在りましたが、足利三代将軍義満(よしみつ)が大変気に入り、応永四年(1397年)に西園寺家から譲り受け、山荘北山殿を造りました。
 金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世に現したと言われ、後小松天皇をお招きしたり、又、中国との貿易を盛んにして文化の発展に努力した所で、この時代の文化を特に北山文化と言います。 
 義満の死後、遺言通り夢窓国師を開山(初代の住職)とし義満の法号鹿苑院殿から二字をとり、鹿苑寺と名づけられました。二層と三層は漆の上から純金の箔が張ってあります。屋根は椹の薄い板を何枚も重ねたこけら葺きです。屋根の上には中国で縁起がよいといわれる鳳凰が輝いています。
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京都市北区紫野にある建勲神社です。

2006年11月02日 | 旅 歴史
 建勲神社(たけいさおじんじゃ)は通称けんくんさんで親しまれています。御祭神は織田信長公です。船岡山に鎮座されている神社です。明治2年(1869)明治天皇により創建されました。信長公18功臣画像は拝殿に掲げられています。舟岡山頂に鎮座し、東山三十六峰や京都市街の眺望は絶景です。豊臣秀吉は大山崎にて明知光秀を打ち主君の無念を晴らしました。そして大徳寺にて七日間の盛大な法要をしたそうです。秀吉は正親町天皇の勅許を受け船岡山を信長の廟所と定めました。
 信長の他に信忠も祀っています。永禄11年(1568)の信長上洛の日にちなんで、10月19日に舟岡祭が催されます。
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京都市上京区の北野天満宮です。

2006年11月01日 | 旅 歴史
 北野天満宮は菅原道真公をお祀りした神社の宗祀です。道真は平安時代の学者で右大臣という要職についていましたが九州の太宰府に左遷され2年後に亡くなっています。その後、天災、疫病などが続いたため平安時代中期多治比文子らによって祀ったのが始まりだといわれています。今では学問の神として慕われています。
 この写真は国宝に指定されている本殿です。御祭神は菅原道真です。桃山建築の代表で絢爛豪華な桃山文化を今に伝えています。現在の社殿は、慶長12年(1607)に造営されたものです。入母屋造りの本殿と拝殿が平行に石の間で結んでいます。拝殿の左右に楽の間を設けている八棟造です。いずれも国宝に指定されている建物です。
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