勧修寺(かじゅうじ)は真言宗山階派の大本山です。昌泰三年(900年)、醍醐天皇は生母の菩提を弔うため、生母の里であった寺を御願寺と定め、外祖父藤原高藤の諡号をとって、勧修寺と号されました。本堂は江戸時代に霊元天皇より仮内侍所を賜って造られたとされ、千手観音像をまつってあります。
天皇家、藤原家の帰依のもと、代々の法親王が相次いで入寺され、門跡寺院として繁栄しましたが、まもなく衰え、徳川氏の時代、寺領寄進などにより再興されました。庭園は氷室池を中心として、まわりの山々の景色も取り入れた池泉回遊式庭園です。平安時代には、この池に張る氷の厚さでその年の農作物の豊凶が占われたそうです
寝殿作り風の宸殿や、江戸初期書院作りの典型とされる書院(重文)は元禄十年(1697)に、明正天皇の旧殿を外賜されたものです。前庭には水戸光圀が寄進したという、背が低く大きな笠を乗せた「勧修寺形」の灯籠があり、針状の葉をもつ樹齢750年のハイビャクシンが広がります。
天皇家、藤原家の帰依のもと、代々の法親王が相次いで入寺され、門跡寺院として繁栄しましたが、まもなく衰え、徳川氏の時代、寺領寄進などにより再興されました。庭園は氷室池を中心として、まわりの山々の景色も取り入れた池泉回遊式庭園です。平安時代には、この池に張る氷の厚さでその年の農作物の豊凶が占われたそうです
寝殿作り風の宸殿や、江戸初期書院作りの典型とされる書院(重文)は元禄十年(1697)に、明正天皇の旧殿を外賜されたものです。前庭には水戸光圀が寄進したという、背が低く大きな笠を乗せた「勧修寺形」の灯籠があり、針状の葉をもつ樹齢750年のハイビャクシンが広がります。